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2019.5.26 「見せかけの命を捨て、本当の命を得る」(全文) マタイによる福音書10:34-42

1:  見せかけの平和

 イエス様は、【10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」】と、強烈な言葉を語ります。「平和ではなく、剣をもたらすために来た」。この言葉を聞くと、イエス様は争いを好むとても危険な人物だと思うかもしれません。しかし、イエス様は、別の箇所では、このようにも語ります。【5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。】(マタイ5:9)また別の箇所では【5:44わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。】(マタイ5:44)こちらでは「平和を実現する人々は幸いである。」(5:9)と言われます。

 どちらが本当のイエス様の思いなのでしょうか。その答えは、イエス様の生き方、そしてイエス・キリストの十字架によって表されています。イエス・キリストは、苦しむ人と共に苦しまれ、罪人とされる人、弱い人たちと共に生きたのです。そしてその道を歩く中で、最後に十字架で、すべての人間の為に苦しみ、死なれたのです。確かにイエス・キリストは、人を愛された。そして神様の愛を表したのです。この十字架の主イエス、愛の方が求められているのは「争い」ではなく「平和」です。

 

 それでは、なぜその平和を求めるイエス様はこのようなことを言われたのでしょうか。今日は、まずこの言葉から見ていきたいと思います。そこには、神様の求めている「平和」と、人間が求めている「平和」には「ずれ」「違い」があるというところから始まります。イエス様は、人間が求めている平和は、神様の求めている平和ではない、そこに本当の平和はなく、みせかけの平和でしかないことを指摘されているのです。それは「平和もどき」と言ってよいと思いますが、イエス様は、そのような人間が作っている見せかけの平和を打ち砕き、本当の平和を求めていくことを教えるために、今日のこのような強烈な言葉を語られたのでした。

 

 私たちは、ただ表面的に争いがないことを平和としてしまうことがあります。目の前に戦争がないこと、けんかや争いが見えないときに、それを平和としてしまうことがあるのです。その一つの「みせかけの平和」の形として、軍事力、経済力といった力によって他者を抑え込み、争いがない、むしろ弱い者には、争うことがゆるされていないという、状態です。

 イエス様の時代、ローマ帝国が圧倒的な軍事力をもって、周辺諸国を治めていました。たしかにそこでは、目に見える戦争はなくなっていたのです。これを「ローマの平和」として「パックス・ロマーナ」と言いました。この言葉から、現代、アメリカが圧倒的な軍事力と経済力をもって、この世界の警察のように存在することを「アメリカの平和」「パックス・アメリカーナ」ということもあります。圧倒的な軍事力、経済力によって、他者を抑え込むこと。そこにはお互いに喜んで生きている中で、争いがないのではなく、争うことをゆるさない、対抗すること、意見をすることもゆるされず、はむかうことができないように抑え込まれた現実があるのです。そのような社会は「平和」なのではなく、あくまでも「みせかけの平和」なのです。そこには、力によって押さえつけられ、人権は無視され、自由はない。まるで奴隷のように生きている人々が存在し、その上に「のほほん」と生きている人々がいる。このような形の平和は、本当の平和、神様の求める平和の形ではないのです。

 

 また、もう一つの間違った平和の形として存在するのが、私たち日本人の好きな形である、「意見を言わない形」です。問題を解決に向けて争うのではなく、なかったことにする、ただ現状維持を求める、これも「みせかの平和」でしかないのでしょう。問題が起こった時に、その問題を先送りにして、なかったことにしていく。このことは暴力で解決するよりは、少しはましに見えるかもしれません。しかし、実際のところ、この形は、いわゆる「ネグレクト」、苦しんでいる人を、見捨てて、無視していることなのです。そのような意味では、ことは荒立てないことにはなりますが、そこにも、犠牲とされる弱い人がいるのです。そして犠牲になっている人に、そこから抜け出すことをあきらめさせる・・・形としてはわかりにくいぶん、とても危険な「見せかけの平和」なのです。

 宗教改革者であるルターや、人種差別のなかで、解放の運動を起こした、キング牧師なども、ただ真正面から批判されるだけではなく、「時代は少しずつ変わっている」「もう少しすれば変わるから・・・急ぐな、少し待ちなさい」とも言われたそうです。このような言葉に対してキング牧師は「待て」とは「決して与えない」という言葉であると言います。これは、今の日本における、沖縄の基地問題などにもつながると思います。「少しずつ変わるから・・・もう少し待ちなさい」「少しずつ時代は変わる・・・今はことを荒立てないようにしよう」そのように現状維持を求める意見をする者は、自分は決して損をしない立場にいて、理解をしようとする姿を見せながらも、本質的には、抑圧者と同じところにいるのです。これが人間の求めている「見せかけの平和」です。

 私たちもまた「力によって押さえつけること」、そして問題から目をそらし「現状維持」を求めること、そのような「見せかけの平和」を求めてしまっているのではないでしょうか。イエス様は、このような人間が造っている見せかけの平和を打ち砕き、本当を平和を求めていくように、教えられたのです。

 

2:  キリストの平和

 イエス様はこのような「見せかけの平和」をもたらすために来たのではない、この「見せかけの平和」を打ち砕き、本当の「神様の平和」を作り出すために来られたのですイエス様が作り出す平和。それはまず、神様を第一として生きる道です。私たちは主の祈りで、まず「天にまします、われらの父よ、御名をあがめさせたまえ、御国を来たらせたまえ、御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。天にある御国。神の御心がなる天。それは神様の愛が溢れる、神様の愛が完成されている状態、神様の御心がなされているところです。この神の愛を求めること。神様の御心を求めること、そこに本当の平和を作り出す道があるのです。ここには、神様の愛を求めて生きることと、それとも別の何かを求めて生きるという二者選択の道があるのです。

 

 神様の御心を求めて生きるか、それとも別の何かを求めて生きるのか。実は、その道の選びがいつも、私たちの目の前にあるのです。何か、なんとなく現状維持することを求めることも、多少の犠牲はしょうがないとし、ただ、自分たちが普通に生きることだけを求めることは、神様の御心ではないのです。それは神様の求める平和ではない、神様の御心ではなく、別の何かを求めた選択となるのです。私たちは、日々の生活の中で、いつも、この選択を迫られているのです。私たちは、どちらを選んで生きているでしょうか。「どちらも選ぶ」という道はありません。それは「みせかけの平和」を求めているだけなのです。

 

 この二つの選択の道において、人生の最後まで、神様の御心に従った方、それはイエス・キリストのみです。イエス様は、神様の愛、その御心を求めて生きたのです。神様の御心を求めて生き続けられた。そしてそれは、イエス・キリストの十字架の出来事、つまりその死の時にまで、イエス様は神様に従い続けたのでした。このイエス・キリストの十字架によって、神様は見せかけの平和ではない、本当の平和を実現されたのです。

 皆さんは、神様の御心を求めて生きる二者選択の中で、神様の御心を求め続けるほどの強い力、強い信仰を持つことができるでしょうか。イエス様の一番弟子であるペトロは、「自分は自らが死ぬことになったとしても恐れず、イエス様についていきます」と言いました。それでも実際は、イエス様が十字架に架けられていくときに、逃げ出して行きました。そして、だからこそ、その人間の弱さを受け止め、そのうえで、神様の愛を知り、喜んで生きるために、イエス・キリストという神の御子である方が、この世に来られ、人間として生きて、神様に従い、神様との関係のうちに生き続けられたのでした。

 私たちが受け取るのは、このイエス・キリストの十字架によって与えられている、神の憐み、神の恵みによる平和です。私たちは自分で平和を作るのではなく、神様がイエス・キリストによって、私たちに下さった平和を受け取るのです。私たちが神様の愛を喜ぶところに、本当の平和が作られていくのです。

 

3:  この世との対立

 このイエス・キリストによる神様の愛、その御心、その平和を受け取ることは、この世の求める「みせかけの平和」とは「ずれ」があり、そのため対立するものとなってしまうのです。神様の平和は、隣人を愛する道であり、苦しむ者と共に苦しみ、泣く者と共に泣く道です。それは隣の人と共に生きる喜びの道であるはずなのです。しかし、この世は、そのようなことを求めていないのです。隣人が苦しんでいようとも、そのことを見ても助けることではなく、むしろ自分の為であれば、いくらでも隣人を苦しませて生きてしまう。これがいわゆる人間の「そのままの姿」。自分を愛し、他者を愛することができない、自己中心という罪ある者としての姿です。 

 イエス様はこのように言われました。【10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。】本来、神様を愛すること、神様の平和は、父を愛し、母を愛し、家族を愛し、隣人を愛するにつながるはずなのです。しかし、この世は、そのような道を求めていない。だからこそ、イエス様は、この世における価値観にぶつかってしまうことを教えているのです。わたしたちは、この人間の社会に生きているのです。愛されることを求めながら、愛することができず、寄り添ってもらうことを求めながらも、自分は他者に目を向けることができない。そのような矛盾の中に生きているのです。この矛盾、人間の作りだす矛盾の社会が起こした、最大の出来事が、イエス・キリストの十字架による死でした。イエス様は、神様の御心に従い、神の平和を求めて生きたのです。そして、その道を歩き続けたイエス様は、十字架による死を受けることとなっていったのです。イエス・キリストは十字架において死なれました。しかし、イエス様はこの世における命を失う中で、本当の命、神の愛、神様による平和を得たのです。それが復活の出来事です。そして、イエス様は「この十字架の道を歩きなさい」と言われました。

 

4:  イエス・キリストの十字架に従う

 イエス様は今日の箇所で、このように言われました。【10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」】【10:42 「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」】

 イエス様は、この世に剣をもたらされた。それはただ人間の求める「見せかけの平和」を壊すだけではなく、そこに「新しい本当の平和」を作るためです。私たちが生きる道。それは、イエス・キリストの十字架によって示された、死の道であり。そしてそれは神様の愛による、復活という本当の命に向かう道です。そして、それは「見せかけの平和」権力者が権力によって、弱い者を苦しめて作りだされている社会。そしてそれを自分のこととしては見ないで、傍観し、決して一緒に生きていこうとはしない、のほほんと生きる社会、「見せかけの平和」に対して、「それではいけない」「神様の求める平和は、そのような者ではない」と声をあげていく道となります。そこには、この世からの対立、反発があるかもしれません。それでも私たちは、このイエス・キリストによる十字架の愛に従っていきたいと思うのです。

 キリスト教は、「ただ待っている宗教」ではなく、「外に出ていく宗教」といわれます。つまり、それは、ただイエス・キリストの愛をもって、自分たちで完結することではなく、イエス・キリストの愛に触れた者として、この世に出て行き、平和を求め、愛を広げていくために「生きる」ということです。今年度の教会の標語は「福音の種を蒔き続けよう」であり、主題聖句は詩編126編5節の「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」という言葉です。この神様の愛の道を歩く時。私たちは、少なからず人間の求める社会の反感を受けることとなるでしょう。キリストの平和、その福音をもって外に出て行くとき、私たちは心を痛め、涙して生きることになるかもしれません。それでも私たちは、主イエス・キリストの十字架という恵みの中で生きていきたいと思うのです。そして、そこに本当の喜びの歌を得ることになるということを信じていきたいと思います。

 

 福音に生きる。そのために、私たちには、共に生きるイエス・キリストによる兄弟姉妹が与えられているのです。一人では心がくじけてしまう、それほど強い者ではない私たちのために、イエス・キリストを中心とした、教会があるのです。教会は福音を受けた者の集まりです。イエス・キリストの十字架による、神様の愛、御心の恵みを受け取った集団なのです。イエス様は、小さな者、私たち一人一人の為に命を捨ててくださったのです。私たちは、小さな者でありながらも、イエス様に愛されて、命を与えられたのです。だからこそ、私たちはたった一杯の水、小さい祈りをもって、お互いに支え、助け合って生きましょう。

 私たちは、このイエス・キリストによって与えられている信仰、共に祈り、祈られているという恵みに生きていきたいと思うのです。その中心にイエス・キリストがおられることを信じて、私たちは、このイエス・キリストによる、兄弟姉妹と共に祈りあい、生きていきましょう。(笠井元)