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2019.5.5 「命を支配される方を畏れる」(全文) マタイによる福音書10:26-31

1:  迫害を受ける者

 まず、今日の箇所を見る前に、これまでの流れを見ていきたいと思います。10章では、1節から4節において、イエス様は12人の弟子を選びだしました。そして5節から、その12人を宣教に派遣されていくのです。そして16節からは、その宣教の道には多くの困難があること、まるで「狼の群れに送り込むようだ」(16)と言います。このような流れの中で、今日の箇所26節から、イエス様は「恐れるな」と言います。つまり、この派遣の道、福音を宣べ伝える道において「恐れてはならない」と教えられているのが、今日の箇所です。

 この言葉を裏返すと、宣教の道には「恐れる」状況、困難の道が待っているということを聞くことができるのです。宣教の道は困難の道なのです。社会から反発を受け、人々からは受け入れられず、厳しい道を歩まなければならないということです。確かにこれまでのキリスト教の2000年の歴史を見ても、イエス様に従い福音を求め、宣べ伝えて生きた人々は、困難の中を生き続けてきたのです。ただ、同時に、この2000年の歴史で、キリスト教が道を踏み外した時には、社会に困難を生み出した時もありました。宣教の道は一方的に自分たちが、困難で厳しいというだけではなく・・・少し道を間違えると、多くの人々を悲しみに陥れるものとなってしまったということを覚えておく必要があるのです。

 わたしたちプロテスタントという教派は、カトリック教会が腐敗していく中で、プロテスト、抗議、反対した教派です。つまり、腐敗するキリスト教に抗議した者たち、それがプロテスタントであります。もちろんカトリックからは異端とされ多くの迫害を受けてきました。その中でも、わたしたちバプテストは、幼児洗礼を否定し、自分の信仰として、自らの口で信仰を告白することを大切にした教派で、プロテスタントの中でも特に強く迫害をされた時もあった教派となるのです。ただ、この時、迫害した者もキリスト教徒です。どちらが正しかったのか。それは簡単な問題ではないでしょう。どちらにしても、聖書に生きて、福音を宣べ伝える者が、おなじように福音を宣べ伝える者を迫害し、迫害されたのです。

 日本においてみてみますと、キリスト教はその歴史の中で、何度も迫害を受けてきました。江戸時代では信仰を持つこと自体が禁止され、そのような中で「隠れキリシタン」として、信仰を守り続けたのでした。また戦時中においては、天皇を神としなければならないという中で、多くの迫害を受けてきました。

 また、福音を宣べ伝える時には、その信仰を守るということだけではなく、社会の中で差別され、虐げられている人々の解放を求める行為としてもありました。特に大きな運動としては、アメリカにおける黒人の奴隷差別からの解放の中心にもキリストの福音があったのであり、同時に、その差別からの解放を求める中で、多くの迫害を受けてきたのでもありました。

 このような歴史を見ていく中で、今の私たちを見つめてみますと、私たちは信仰を持つことで、社会から差別され、迫害され、苦しんでいるでしょうか。絶対、苦しまなければならないというと、少し語弊がありますが、歴史を見る中でも、福音を伝える時、福音に生きることを求める時、そこには社会からの弾圧があることを見ることができるのです。ただ、今のキリスト教は、すべてがすべて、そうではありませんが、聖書をもって、女性、LGBT、障碍者の人々を差別することを推進し、戦争することを肯定している。どちらかと言えば、聖書を、自分の都合のよいように理解し、迫害されるよりも、迫害する方になっているのではないかと、考えさせられるのです。 

 今、私たちは苦しんでいる人々に寄り添っているでしょうか。社会を「恐れている」でしょうか。何も恐れていないということ、社会を恐れず、人々の目を気にせずに生きている中において、私たちは、今、自分たちがもっている福音、信仰をもう一度、見つめなおす必要があるのかもしれないと思わされるのです。

 

2:  福音は現される

 イエス様は、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」(10:26)と教えられます。この言葉は、本来、「隠し事、秘密はいずれ知られてしまうものだから、隠し事はするな」という諺の一つです。またルカによる福音書では、「人間の内面の思いは、人間には隠せても、神様に隠すことはできない」という意味、「偽善的な信仰」に対する警告として使われています。 ただ、ここマタイによる福音書では、「イエス・キリストの伝える福音は、どれほど人間が押さえつけようとしても、その障害、抵抗を打ち破って現れる」という意味で使われているのです。このマタイにおいて、この言葉は、現実に福音を伝える者に対する、励ましの言葉なのです。

 Ⅱテモテではこのように言われます。【2:8 イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。2:9 この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。】(Ⅱテモテ2:8-9)この言葉を語るパウロは、当時、まさに投獄され、牢屋の中で、鎖に繋がれた状態にあり、そのうえで「神の言葉」つまり「福音」はつながれない、と語っているのです。

 今、日本におけるクリスチャン人口は全体の人口の1%以下です。宣教する者としては、この現実を見ると、伝道する気持ちが落ち込んでしまいます。先週の総会で、標語は「福音の種を蒔き続けよう」としましたが、現実において、福音伝道のために、いろいろと方法を変えても、みんなで知恵を出して、力を尽くしても、福音宣教の言葉は、なかなか結果としては現れません。そのような中では、「イエス・キリストの福音をどれほど伝えても、意味がないのではないか」、「結局、自己満足だけなのではないか」、「福音を伝えても、だれも振り向いてはくれない」と落ち込むこともあるのです。イエス様は、そのような者に対して、福音を大胆に告白すること、それこそ「暗闇ではなく、明るみで、屋根の上で言い広めなさい」と教えられ、励まされているのです。イエス様は、わたしたちを、「あなたの伝える福音は、覆われて、隠されて終わるものではない。必ず福音の言葉は公にされる。だから勇気を持ちなさい」と励ましてくださっているのです。

 

3:  命を支配される方を畏れる

 イエス様は続けて【10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。】(28)と言われました。イエス様は、ここで、本当に畏れるべき方を知ることを教えています。私たちは何を恐れているのでしょうか。「戦争」や「災害」、「人間関係による抑圧」「支配」「差別」、「自分の生きる力」や「将来、未来に対する不安」でしょうか。反抗期くらいになると「恐れるものなんか何もない」と言う無鉄砲な人もいるかもしれませんが、それは「恐れるものがない」のではなく、「何を恐れているか自覚していない」のでしょう。 聖書の箴言では【1:7 主を畏れることは知恵の初め。】(箴言1:7)と言います。 知恵を持つこと。それは「恐れ」を持つことでもあります。その中でも「命の造り主」であり「命の支配者」である「神」を畏れることが「本当の知恵の始まり」だと教えているのです。

 

 神様は、私たちのすべてを知っておられるのです。ここでは、その「魂」も「体」も滅ぼすことのできる方とされていますが、神様は「滅ぼすことができる神」です。ここでいう「滅ぼす」という言葉は「裁く」つまり「正しく審判する」ことができるという意味です。つまり、私たち人間のすべて、それこそ髪の毛一本から、その心の奥底にある思い、その命の全域を「正しく裁く」ことが出来る方、それが神様です。神様は、完全に正義の方です。その完全なる義の裁きに対して、どのような人間でも、耐えきることはできないでしょう。私たちは、神様の正義の前に、立ち続けることはできないのです。そのような意味では、すべての者が滅ぼされることになります。しかし、神様の裁きは、人を滅ぼすためのものではありません。神様は、「滅ぼすことを求めている神様」ではなく、「魂」も「体」も支配され、その命を支配して、養ってくださっている「愛の神」なのです。

 神様は、この裁きを、私たちの代わりに受けられる方として、イエス・キリストを送ってくださったのです。私たちが神を知ること、それは神様のこの愛を知ることです。本来、私たちが受けなければならない裁きを、神様ご自身が、その御子イエス・キリストに受けさせた。それがイエス・キリストの十字架です。神様はこの十字架を通して、人間を裁かれ、正義を貫かれたのです。そしてそのうえで、神様はイエス・キリストを復活されました。つまり、その命を裁かれ、死におとし、そしてその命を甦らされた。神様は、愛をもってイエス・キリストを復活させられたのです。神様は、人間の命の全域を知り、そのうえで、その存在を受け入れられた、愛されたのです。

 私たちが神を知ること、神様を畏れること、それは、この神様の愛を知ることです。私たちは、神様に愛されている。そしてその命は神様の愛によって生かされているということです。私たちが生きるのは、この神様の愛によって生きるのです。だから、私たちは、それ以外の何も恐れることはないのです。

 

4:  神様に愛されている

 イエス様はこのように言われました。【10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 10:31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。】(10:29-31)この言葉はある意味、とても恐ろしい言葉です。自分ですら数えることができない髪の毛の一本一本さえも知っている方がおられるのです。ただ、神様はそのうえで私たちを愛して下さっていることを教えられているのですまさに、わたしたちは、そのすべて、髪の毛一本までも愛されて、大切にされているのです。1アサリオンというのは、当時の一番小さな単位の通貨であったとされますが、その一番小さなもので買うことができる雀、つまり一番小さなもの、その髪の毛一本、雀すらも、神様の許しがなくては、地に落ちることはないのです。神様はこのような小さなもの一つひとつのために、御子イエス・キリストをこの世に送られたのです。この小さなもの一つひとつ、私たち一人ひとりのためにイエス・キリストは、この世にこられ、共に生きて下さっているのです。今、私たちは、この神様の愛を受け取りましょう。それは神様を畏れることです。ただ神を畏れ、その愛を喜んで生きていきたいと思います。

 イエス様は続けてこのように言われます。【10:32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」】聖書の別の箇所では、【だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである】(マタイ6:24)と言われます。私たちは神様に愛されている。だからどのように生きていても大丈夫、何をしても、どのように生きたとしても、問題ないということではないのです。私たちが神様に愛されているということを知ること、そして神様を畏れることは、その愛を受け取り、愛された者として生きるときに始まるのです。神様の愛に応答することなくては、ただ開いた門の前に立っているだけの状態です。むしろ後ろを向いて、その命の門から離れていくことになるのです。その命の門を歩き出すこと、そこに神様の愛を喜んで生きる人生が始まるのです。

 わたしたちは、心と言葉と行いをもって、神様に従い、その愛を知り、受け取り、告白していきたいと思います。ただ、その道は、最初に言いましたように、困難を伴います。社会からの迫害を受けるかもしれません。人間関係におけるトラブルが起こるかもしれません。しかし、神様は私たちが、神様の愛を見上げている限り、そこに平和と愛を送って下さいます。私たちは、この神様の愛を信じて歩き出したいと思うのです。主イエス・キリストは、私たちを選び出され、そしてこの世に遣わしているのです。わたしたちはこのキリストによる派遣を受け、生きていきましょう。(笠井元)