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2019.3.24 「選び出された者として生きる」(全文)  マタイによる福音書10:1-15

1:  選び出された12人

 イエス様は12人を呼び寄せ、弟子として、選び出しました。今日は、まずこの12人の何人かの特徴をみて、そこからイエス様の選びについて見ていきたいと思います。

 まず、筆頭格のペトロが一番先にきます。ペトロはイエス様がおられた時から、またマタイが福音書を記したその時の教会においても、一番弟子という認識があったのでしょう。ペトロは、16章ではイエス様に「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と告白しました。また、イエス様が十字架に向かう中、途中で「イエス様を知らない」と三度も言いますが、それでも弟子としてはただ一人途中までついていった人です。このペトロの兄弟アンデレはペトロによって、陰が薄い存在となってしまっていますが、このペトロを信仰に導いたのは兄弟のアンデレでした。アンデレは、最初は、バプテスマのヨハネの弟子としていたのです。そのような意味では、当時のユダヤ教の状態に疑問を持ち、「悔い改める」ことを語っていたバプテスマのヨハネに、信仰を求めていた人でした。このアンデレもとても大切な存在であるということができると思います。

 また、トマスはイエス様の復活を、見るまで信じることが出来なかったとされる人物です。ただ、トマスは、イエス様の復活を信じることができなかったというよりは、イエス様が復活して弟子たちのところに来てくださったときに、一人、別行動をしていたと言った方がよいのかもしれません。この時、弟子たちはみんな、ユダヤ人を恐れ、家の戸に鍵をかけて、おびえていたのでした。おびえて縮こまっている弟子たちのところに、復活のイエス様は来てくださったのです。イエス様に出会って、喜び、勇気づけられたのは、他の弟子たちも同じなのです。この時トマスが何をしていたのかはわかりませんが、少なくとも、トマスだけが、不信仰であったとはいうことはできないと思います。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(20:25)と言いました。一つの考え方として、トマスは、十字架のイエス・キリストの釘の跡、つまり人間の罪によるイエス・キリストの痛みをきちんと見なければ、信じないと言っているとも考えられます。ある意味、きちんと自分の罪に向き合い、その罪の救いのために苦しまれた「十字架のイエス・キリスト」、その痛みをみなければ復活は意味がないと、真剣に考えていたとみることもできるでしょう。

 

 そしてまた、ここでは肩書がついている人物が二人います。それは徴税人のマタイと熱心党のシモンです。 この二人が一つのグループにいるということは本来ありえないのです。当時ユダヤはローマに支配されていました。そのローマの手下のような立場で、多くの税金を取り立てていた存在が徴税人でした。しかも、徴税人はこのローマの権力をもって、税金に上乗せしてお金を徴収し、自分の財産としていた人たちで、ユダヤからすれば裏切り者という人たちでした。それに対して、熱心党とは、ローマに支配されていることを受け入れず、どのような方法をもってしても、それが武力であったとしてもローマからの解放を求め、ユダヤの王国をもう一度再建しようとしていた、熱心な愛国主義者です。つまり、徴税人とはローマの支配を受け入れていた者であり、それを拒否していたのが熱心党です。この二人が一緒にいることは本来考えられないのです。この二人が同じグループに存在するということは、大きな意味があります。

 そしてまた、イエス様の弟子として、理解しがたい最大の存在はイスカリオテのユダです。イエス様は、神の子として、このイスカリオテのユダが自らを裏切っていくことを知っていたでしょう。そのような意味で、イエス様は最初から自分の十字架を受け入れていた。その痛み、苦しみを知りながら、十字架を受け入れ、イスカリオテのユダを自分の弟子として選んだのでした。

 

 イエス様が選び出した12人。この12人は、いろいろな意味で本来、常識では考えられないメンバーでした。特にずば抜けて知恵があったわけでもなく、お金持ちであったわけでもありません。イエス様は、そこに敵対する者、裏切る者、復活を受け入れない者、イエス様に最後までついていけなかった者など…このような人間を選ばれたのです。 

 そしてここにこそ、イエス様が教えられた福音があると言うことができるのでしょう。このメンバーが共に過ごすためには、まず神様の前に謙虚であり、悔い改めの姿勢が必要です。イエス・キリストを中心に、自分の思いを絶対化することなく、また、ただ妥協するだけでもなく、真剣に話し合い、考え方の違い、思いのずれなどを乗り越えて、そのうえでお互いを受け入れ共に生きること。これが、イエス様の選び出された12人で、ある意味小さな神の国の形だと言うことができる人たちの集まりなのです。イエス様はまず弟子たちを選ぶときに、この小さなグループに神様の愛、神の国の到来を表されたのです。

 

2:  派遣 二つの側面

 そして、5節からイエス様は集めた12人を派遣するために教えられます。イエス様は12人を派遣されるために集められたのです。イエス様はまずこのように言われました。【異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。】(10:5-6)

 この言葉は一見、イエス様が異邦人を見捨てて、イスラエルだけが救われるように・・・という言葉にも読み取れます。しかし、イエス様は、この後のマタイ28:19では【だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる】(28:19-20)と教えられているのです。マタイの28章は、イエス様の復活後の派遣の言葉です。イエス様は自らの十字架と復活の福音の出来事の後に、全世界に福音を宣べ伝えるように教えるのです。【イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。】(6)という、イエス様の言葉は、福音伝道のために、「今するべきこと」が何なのか、教えられているのです。教会の働きとしての福音伝道の業には、大きくわけて二つの事柄、時があります。それは「伝道」と「牧会」、つまり「内側を固めること」と「外へ広がっていくこと」、言い方を変えますと「充電する時」と「前進する時」です。 

 私たちもまた、今何をするべき時か、良く考えなければなりません。内側がきちんと整っていないのに、無理に外に出て行っても、すぐに空中分裂してしまいます。また、内側だけで固まっていても、何も生まれないですし、むしろ息苦しくなり、これも風船が大きくなりすぎて破裂するように、内部で爆発してしまうことになるでしょう。 

 聖書はこのように教えます。【3:1 何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。】(コヘレト3:1)神様の計画には時があります。私たちはその「時」を見極めて、今、何をするべきか、将来何をしていくのか考えなくてはなりません。

 

3:  「天の国は近づいた」 

 また、続いてイエス様は7節からこのように言います。【10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。】(マタイ10:7-8)「天の国は近づいたと宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追い払う」。この活動は、まさにイエス・キリスト自身の活動と同じ活動です。イエス様はこの世界に「天の国、神様の御国の到来」を宣べ伝えたのです。神の国、それは神様の愛によって満たされていることを意味します。イエス様は「この世界に神様の愛による支配が近づいた」と教えるのです。そして、その一つのしるしとして、癒しがあり、奇跡があり、悪霊からの解放があったのです。

 イエス様の教える癒しとは、超自然的な力を人々に見せびらかし、人々を驚かせ信じさせるための出来事ではありません。癒しとは、傷ついている者、苦しんでいる人をその痛みから解放する出来事です。イエス様はこのように言われました。【11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。】(マタイ11:28)

 そしてまた、イエス様は「悪霊を追い払いなさい」とも教えられました。私たち人間は何もしないとすぐに悪霊に囚われてしまうのです。悪霊に囚われている人間とは、神様の愛を忘れている者、愛すること、愛されることを忘れてしまった者、そして必要としない者です。イエス様は「神様を愛しなさい、自分を愛するように、他者を愛しなさい」と教え、ローマ書では【12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。】(ローマ12:15)と教えます。

 みなさんは、この言葉を聞いたときに、「それくらい当たり前のことだ」「泣いている人を笑う人がいるだろうか」と思うでしょうか。「喜ぶ人と共に喜ぶ」「泣く人と共に泣く」。

 私の神学生の時の後輩の人が、私のところに来て一言「嫌いな人でも、その人が泣いている時は一緒に泣くことはできる。」と言いました。「ただ、嫌いな人でも、好きな人でも、他者の喜びを一緒に喜ぶことは本当に難しい・・・どうしても、自分のほうが幸せでいたいと思ってしまう」と言いました。確かに、自分と仲良しの人、友人、家族などの喜びはまだしも、嫌いな人、そりの合わない人、ケンカをした人の喜びを、一緒に喜ぶことは難しいことだと思いました。

 

 私たち人間は弱い者なのです。そして、そのような弱さに付け込むのが「悪霊の働き」です。「当たり前だ」と思っていることをしてしまうように、「こんなことするわけない」と思うことをしてしまうように、あの手この手を使って誘惑するのです。悪霊は、神様と人間を引き離し、人間と人間を引き離します。「悪霊の働き」の中、私たちはいつもイエス・キリストを見ていないと「愛する」ことから離れていってしまう弱い者なのです。私たちは自分の力で人を愛そうとしていないでしょうか。自分は人を愛することができると思っていないでしょうか。自分は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことができると思っていないでしょうか。

 私たちは、神様の愛を受けなければ、隣人を愛することはできないのです。その弱さをまず自覚したいと思います。そして、そのような私たちのところにイエス様は愛を運んできてくださったのです。イエス様は、疲れて、重荷を負っている、私たちと共にその重荷を負い、一緒に生きてくださるのです。ここに神様の愛があるのです。

 「天の国が近づいた」。それは私たちが神様の愛をイエス・キリストによって受け取ることが許されたということです。私たちはすでに、神様に愛されており、その愛を受け取ることが許されているのです。

 

4:  平和があるように

 そして、12節において、イエス様は「平和があるように」と挨拶するように教えられました。 「平和があるように」。これはイスラエルの「シャローム」という日常の挨拶の言葉です。普段の挨拶がこのような言葉であることは、とても素敵なことだと思います。それだけではありません。日本語でも「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」「また明日」と挨拶をすること自体が、この殺伐とした人間関係の現代において、大切なことだと思うのです。そのうえで、その相手がだれであろうとも、どのような人でも、「あなたに平和があるように」と挨拶をすること、それは「あなたに平和があるように」という気持ちで向き合うということです。それは、その人間の関係を作りだす一つの大切な言葉となるのだと思うのです。

 この人間の世界は、報復が報復をよび、頑なに、争いがどんどんとエスカレートしていきます。特に、日本では「かたき討ち」として、悪いことをした人に、やり返すことを肯定する習慣があります。少し古くなりましたが、「半沢直樹」というドラマで「倍返し」という言葉が使われ、流行語大賞にまでなりました。このように、傷つけられたら、やり返す、やり返せという考えがこの世の考えです。そのような私たち人間の社会にあって「平和があるように」という挨拶から会話を始めること、そのような気持ちをもって、他者に接すること、それが、イエス様が宣べ伝えられた福音、そしてその福音を携えて出ていく弟子たちの派遣なのです。

 13節からはこのようにも言います【10:13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。】この言葉は平和がなくなることはないことを教えています。イザヤ書では【わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。】(イザヤ45:23)とも教えています。

 「平和があるように」。人を愛し、愛の思いを持って他者に接する時、その愛が伝わらなかったとしても、そこにある愛はなくならないのです。人間はすべての人が愛と平和を受け入れてくれるわけではありません。疲れているときに「平和があるように」「こんにちは」と笑顔で挨拶をされると、「ちょっと放っておいてくれないかな・・・」と思うこともあるかもしれません。

 東福岡教会の皆さんは、きちんと隣の人に気を使い、他者の気持ちをよく考えてくださるので、誰にでも、みんなに「こんにちは」「こんにちは」「元気ですか」と話しかけることはあまりしないほうではないかと感じています。他者の気持ちを考えることもとても大切なことです。そのような意味で、皆さんとてもよく考えられて関係を作ろうとしてくださっていると感じます。ただ、時には、私たちは、神様の愛を押し売りをするようにでも、声をかけること、話しかけていくことの大切さも覚えたいと思うのです。愛を持ってどんどん声を掛けること、その愛は時には受け入れられないこともあります。むしろ迷惑に思われることもあるでしょう。しかし、その愛はなくならないと教えておられるのです。私たちは、神様に愛されている恵みを受け取り、そして、イエス様はこの福音をもって出ていきなさいと教えられているのです。

 

 ここでイエス様は12人を選び出しました。それは神の国の創造のため、その神様の愛を表すための小さいグループでした。イエス様はここに神様の愛を示されたのです。そしてこの12人に、その愛をもって、福音をもって出ていきなさいと遣わされたのです。愛をもって歩き出すこと、隣人に愛を伝えること、それはこのイエス・キリストによる愛を受けた者の使命です。

 今、私たちは神様の選びによってこの場へ集められています。神様の選びによって、私たちは愛する道を教えられたのです。わたしたちは今、この福音をいただきましょう。そして、イエス・キリストによる平和と愛の福音をいただいた者として出ていきたいと思います。イエス様は、12人の弟子を、この福音を伝えるために送り出しました。この12人は、イエス様の愛をいただいたのです。そして同時に、イエス・キリストの愛を伝えるという使命をもって歩き出したのです。今、私たちは神様に選び出された者として、このイエス・キリストの福音を伝えていきたいと思うのです。神様は、私たちに「共に喜び、共に泣く」勇気と愛を与えてくださったのです。今、私たちも、喜んで出ていきましょう。イエス様に愛されている者として、その愛を宣べ伝える者として歩き出したいと思います。(笠井元)