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2019.2.24 「神の恵みを証しする」(全文)  出エジプト記15:1-21

1:  出エジプト

 今日の箇所は、出エジプトのという、神様の救いの御業を受けたイスラエルの民が、神様を賛美するという場面です。1節ではモーセとイスラエルの民が、20節ではミリアムとそのほかの女性たちが、神様を賛美したのです。この賛美は、イスラエルの民がモーセに導かれて、神様が開かれた海の道を歩いてエジプト軍から逃げ、またエジプト軍は海に飲み込まれてしまった、ことを喜び賛美しているのです。

 少し、この出エジプト記について、説明していきたいと思いますが・・・まず、もともとイスラエルの民は、神様の導きにより、アブラハムによってカナンの地に来たのです。しかし、アブラハムの子、イサクの子、ヤコブのその子どもヨセフの時代に、エジプトに移り住みます。移り住んだ最初の時は、ヨセフがエジプトの大臣であったので、とても大切に扱われたのですが、その後、何年も経つと、ヨセフも死に、そしてヨセフのことを知らない人がエジプトの王、ファラオとなっていくなかで、イスラエルの人々はエジプトの地で、奴隷とされていくのです。エジプトの王ファラオは、増え続けるイスラエルの人々を恐れ、人数が増えないようにと、イスラエルの人々に強制労働を課したのです。しかし、それでもイスラエルの民の人数が増え続けたので、最終的には、イスラエルの子どもが生まれたときに男の子であれば、「殺しなさい」という命令まで出したのでした。 そのような中でモーセがイスラエル人として生まれ、本来ならば殺されるところを、母親と姉の知恵によって、エジプトの王女に育てられることになったのです。

 しかし、モーセが成人したころ、モーセは、同胞のイスラエルの人がエジプト人に撃たれているところを見て、エジプト人を殺してしまい、エジプトからミディアンの地に逃げることになりました。その後、神様は、イスラエルの民の叫びを聞き、イスラエルを救い出す決心をされます。そしてそのリーダーとしてモーセを選びだすのです。モーセはエジプトに帰り、兄アロンとエジプトの王ファラオに、イスラエルを解放するように言います。しかし、ファラオの心は頑なで、言うことを聞きませんでした。そして神様はいくつもの災いを起こすのですが、最終的には、エジプト全土のすべてのものの初子が撃たれ、そのときにイスラエルの人々の初子だけが、過ぎ越されたというの出来事が起こされました。この出来事によって、ファラオはイスラエルを解放するのです。

 しかし、ファラオはすぐに心を変え、奴隷であるイスラエルの人々を解放したことを悔やみ、戦車でイスラエルを追いかけるのです。エジプト軍が追いかけてくる中、イスラエルの人々の目の前には海が広がり、後ろからはエジプト軍が迫ってきていて、前に進むことも、後ろに戻ることもできない状態となってしまったのです。そして、イスラエルの民が「こんなことなら、エジプトで奴隷としておとなしくしていたほうがまだましだった」と考え始める中で、神様は、その目の前にあった海を分け、歩き出すことができる渇いた道を作られたのでした。イスラエルの民は、この海にできた道を通って、向こう岸へと渡っていきます。しかし、エジプトの軍隊がこの道を追いかけると、神様が、エジプト軍が前に進むことができないようにし、エジプト軍はすべて海に飲み込まれてしまうのです。

 これらの出来事により、イスラエルの人々はエジプトから解放された。そしてイスラエルの人々の嘆きは、賛美と変えられたのでした。

 

2:  命の大切さを見失った者

 このイスラエルの嘆きが賛美と変えられた出来事は、今、生きる私たちにとっても意味のある大切な出来事なのです。この出来事はずっとずっと昔のお話しで、日本昔話のように、私たちからすればただの物語、現実の私たちには関係のないお話だということではないのです。今、私たちがこの世で生きる時、イスラエルの苦しみと同様の苦しみがあり、そして同様の嘆きがある。そして、そのような私たちを救いだしてくださる、神様の働きがあるのです。

 この世には多くの苦しみ、嘆きがあります。人間の歴史を見るとき、現在ももちろんですが、世界で争いが絶えることはなく、また、その権力の争いのために苦しむ小さな人々がいるのです。それは、エジプトがイスラエルを恐れ、小さな小さな生まれたばかりの子どもを殺そうとしたように、今も、大きな権力を持つ者たちが、本当に小さな命を傷つけているのです。その原因一つには、人間が命の尊さ、大切さを見失っているということができると思うのです。私たちは誰もが、自分で生まれてきたわけではないです。私たちは自分で命を作ることもできなければ、1秒でも命を延長することはできません。神様が人間の命を取り去ろうと思えば、今、すぐにでも、私たちの命は神様の御許に召されるのです。それなのに、私たちは、自分自身の命を、まるで自分のもののように生きているのです。そこに、エジプトがイスラエルを奴隷として支配したように、私たちも、自分で自分の命、また他者の命を支配しようとしているのではないでしょうか。ここに命の大切さを忘れ、間違った道を歩いている、私たちの姿があるのです。

 

 この世で生きていくときに、時として私たちは自分の力のみで生きているような、そのような錯覚に襲われるのです。「自分が一所懸命頑張って、働いて稼いだお金で生活をしている」「神様がいなくても生きていける。自分が生きることに神様は必要ない」と思ってしまうことがあるのではないでしょうか。私たちは生きる中で、いつの間にか、神様により頼むのではなく、むしろ自分の中から神様を追い出し、自分の力のみで生きようとしてしまうことがあるのです。罪の誘惑というものは、非常に巧妙に、私たちの心の隙間へと入ってきます。「神様はただ心を満たすためだけにいてくださればいい。実際の生活の中で必要なのは、神様ではなく、お金であり、この世の地位であり、名誉であり、権力である。神様の言葉のどこに、人間の生活にとって意味があるのだろうか。

 目に見えない神様が一体何をすることができるのか。必要なものは、神様なんかではなく、食べ物であり、神様との関係ではなく、人間との関係であり、生きていくのに必要なのは、自分自身の力なのだ。」と、このように私たちに神様は必要ないとささやくのです。

 誘惑とは、私たちの心にささやき、私たちを罪の中に陥れようとするのです。今日の箇所で、神様を讃美しているイスラエルの人々も、その少し前、14:11-12では、モーセに向ってこのようにつぶやいているのであります。【「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」】

 ここでイスラエルの人々は、解放を得ることよりも、奴隷として居続けることを望んでいるのです。神様に従って荒野へ出て行っても、そこには食べ物も、飲み物もない。生きていくためには、まず食べる物や飲む物が必要なのだと、イスラエルの人々は、神様の導きよりも、生活の糧を選ぶのです。

 

3:   新しい創造

 神様は、このエジプトによって表される誘惑の力を、ここでは海で飲み込むように打ち砕かれたのです。神様はエジプトを打ち砕かれた。それは「誘惑」を打ち砕き、罪からの解放をされたのです。この罪からの解放は、神様の新しい創造の出来事でもあるのです。【15:16 恐怖とおののきが彼らを襲い、御腕の力の前に石のように黙した、主よ、あなたの民が通り過ぎ、あなたの買い取られた民が通り過ぎるまで。15:17 あなたは彼らを導き、嗣業の山に植えられる。主よ、それはあなたの住まいとして、自ら造られた所、主よ、御手によって建てられた聖所です。15:18 主は代々限りなく統べ治められる。】16節の「買い取られる」という言葉は「創造する」という意味を持つ言葉です。神様は苦しみ、嘆きからの救いとして、新しい創造をなされたのです。

 わたしたちが信仰を持つこと。それは自分で自分を支配していた、自分の命を自分のものだと思っていたところから、命は神様が創造されたものであり、神様が養ってくださっていると信じて、神様に命を委ねていく、新しい生き方、新しい創造によって生きることに始まるのです。

 【15:3 主こそいくさびと、その名は主。15:4 主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み、えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。15:5 深淵が彼らを覆い、彼らは深い底に石のように沈んだ。】創造主なる神様はここでは、「いくさびと」とも記されています。神様が「いくさびと」とするときに、その言葉は気を付けて聞く必要があるでしょう。「いくさびと」としての神様。それは戦いの神であり、その敵対者をすべてうち滅ぼされると読み取ることもできるのです。実際にそのような言葉から「正しい戦争」や「聖戦」といった間違った考えが生み出されてきたのです。神様は確かに「いくさびと」なのです。しかしそれは敵をうち滅ぼす、破壊する神様ではないのです。創造の神様は命を破壊するのではなく、新しい命の創造をなされるのです。「主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み、えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。」(4)とありますが、神様は人間の命を支配していたエジプト、ファラオを打ち砕きました。それは新しい命の創造へと働かれているのです。

 わたしたちは自分の心を問いただす時、このエジプトとしての心を、自分自身の中に持っていることに気が付くのではないでしょうか。私たちの中には、自分を支配し、他者を支配し、傷つけてしまう心がある。自分ではどうすることもできないような、闇が心の中にあるのではないでしょうか。私たちを捕え、離すことのない罪の根幹が、私たちの心の中にはあるのです。この心の中の闇、罪をいくさびとである神様に打ち砕いていただきましょう。そしてそこから新しい創造の業に与りたいと思うのです。

 

4:  打ち砕かれた者

 この海の中を渡り、そして新しく創造されていくことは、私たちのバプテスマの出来事を思い起こさせます。バプテスマとは、自分中心に生きていた者が、その心を打ち砕かれ、神様による新しい命をいただく出来事なのです。ローマの信徒への手紙6:2-11に記されているので、共に、一度聖書を開きたいと思います。【罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」】

 イスラエルの人々は、海の中にできた道を通って、エジプトという罪の誘惑から解放されていったのです。これはまさに、イスラエルの人々にとってのバプテスマの出来事なのです。海の道から引き上げられたイスラエルの人々は、エジプトから完全に解放されました。今日の箇所は、この神様の御業を賛美し、その救いを証した箇所です。イスラエルの人々は神様からの恵みと救いを受け取り、その証として神様に賛美しているのです。この罪からの解放、そしてバプテスマというものは、先ほど読みました、ローマの信徒への手紙にもありましたように、イエス・キリストの十字架による解放なのであり、イエス・キリストの十字架による恵みなのです。 神様は、イエス・キリストの十字架を通して、愛を示して下さいました。その救いを受けとって生きること、その神様の愛に応えて生きること、神様の救いに応答する決断こそがバプテスマなのであります。

 イスラエルの人々は、神様が開いてくださった、海の道を歩き出しました。それは、神様の招きに応答する一歩一歩でした。それは、イスラエルの人々一人一人の決断の上になされたあゆみなのです。そのような神様の招きに対して、決断して応答していった、イスラエルの人々が、ここで神様から与えられた恵みを賛美しているのです。それは、神様への感謝と共に、神様の愛を証する賛美でもあるのです。

 私たちは、この神様の愛を携え、神様の招きに応える者とされていきたいと思います。神様は、私たちを招いてくださっている。だからこそ、私たちは、その恵みをただ素直に受け入れ、喜んで賛美し、その愛を証ししていきたいと思います。そしてまた、神様は、私たち、一人一人を通して、働かれます。私たちは、その主の証し人として、神様に従って共に歩んでいきたいと思います。(笠井元)