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2019.1.27 「心を一つとする」(全文)  使徒言行録2:42-47

 今日は、この礼拝の後に教会の臨時総会、また福岡地方連合の臨時総会も行われます。わたしたちバプテストにおいて最高決定権をもつのはこの総会です。執事会、女性会、小羊会、青年会など、様々な組織がありますが、その中ですべてを決める、その最終決定権を持つのは、総会となるのです。今日は、礼拝後に総会を持つということから、まずここで「教会とは何なのか」ということを考えたいと思い、今日の箇所を選びました。今日は、ここから、この世において教会がある意味、教会の存在意義を考え、私たちが何をするべきなのか、どういうことを一番に考え、その判断基準がどこにあるのかを考えていきたいと思うのです。

 

1:  教会の原型

 今日の箇所は、聖霊が降るという出来事が起きた、ペンテコステの後の記事となります。使徒言行録2章1節から、集まり祈っていた弟子たちの上に、聖霊が降るという出来事が起こされていくのです。イエス様の弟子たちは一つとなり、集まっていました。そこに、聖霊が降り、イエス様の弟子たちは、様々な言葉で福音を語りだしたのです。

 そして、その中で、ペトロが立ち上がり、イエス・キリストによる救いを語り始めたのです。2:14からペトロの説教が語られていきます。ペトロは「イエス様が十字架で死なれたこと、復活されたこと、そして神様の右にあげられ、今、約束していた聖霊を送ってくださったこと」を証しました。そして38節において「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。」(38)と教えるのです。このあと、ペトロの言葉を受け入れた人、3000人がバプテスマを受けたのです。

 そして今日の記事となります。今日の箇所は教会が誕生した、その時の記事と言ってもいいでしょう。イエス様の弟子たちが集まり、そしてイエス様の十字架と復活を伝え、そこに多くの人々が加わっていくのです。そしてこの教会の原型、イエス様の十字架と復活を信じる人々は「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」「祈ること」を熱心に行ったのです。これが最初の教会の姿でした。

 

 初代教会の人々は「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」「祈ること」という4つのことに熱心だったとされるのです。今日の箇所では、「一つになる」ということが繰り返し言われます。44節に「信者たちは皆一つになって」、46節には「毎日ひたすら心を一つにして」、47節には、「主は救われる人々を日々仲間に加え、一つにされたのである」と、この短い文章のなかで、3度も「一つになる」ことが記されているのです。人々は「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」「祈ること」を通して、「心を一つにして」いたのです。これが教会の原型です。キリスト者の信仰共同体は、「心を一つにして」存在したのでした。

 

2:  心を一つにするために

2:1 使徒の教え

 人々は、「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」「祈ること」に熱心でした。まずこの4つのことを1つずつ見ていきたいと思います。最初に「使徒の教え」がなされました。ここでいわれる「使徒の教え」は「礼拝」そのものを意味していると言ってよいでしょう。人々は「使徒の教え」として、神様のみ言葉を受けとったのです。キリスト者の生活の中心には、まず、礼拝、そして御言葉をいただくことが中心にあるのです。「人々は礼拝を熱心に行った」。そしてそこから神様のみ言葉を受けたのです。以前からの考えとして「使徒の教え」という言葉と、「宣教」という言葉の意味は区別されてきました。つまり、教会の日々の生活において語られる言葉と、教会外部に語られている言葉を区別してきたのです。ただ、現代においては、キリストを信じた人と、まだキリストを知らない外部の人々を分離しないで、どちらにしても、それは福音を語ることだとして、包括的に考えることが主流となっています。ここで、人々は、礼拝し、そして神様のみ言葉を熱心に受けとったのです。それは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を自分の出来事として受け取り、自らの罪を悔い改めて、新しい命を得るということです。これまで生きてきた、自分を中心とした生き方から、イエス・キリストに従って生きていくために、自分が何をして、何を考えて生きていくべきなのかを、学んだのです。

 

2:2 相互の交わり

 そして、二つ目に「相互の交わり」があります。先ほども言いましたが、今日の箇所は、ペンテコステの出来事、聖霊がくだり、人々が聖霊を受けた後の出来事です。人々は聖霊を受けたのです。この聖霊の一つの働きとして、神様と人間の交わり、人間と人間の交わりを導く、イエス・キリストによる関係を作りだすという働きがあるのです。教会はお互いのために祈り合う信仰共同体です。

 ここで少し気を付けるべき言葉として44節からの言葉があります。「2:44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、2:45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」と記されています。いわゆる「財産の共有」という出来事です。この言葉は「相互の交わり」という意味を理解するのに、これまでに多くの誤解を生みだしてきました。この言葉から「キリスト者は自分の財産をもってはいけない」「すべての財産を共有すべきだ」という考えを持つ人々が現れたのです。実際、この後の箇所使徒言行録の4章32節からの箇所においても、同様の内容「財産の共有」の記事があるのです。そのような言葉から「キリスト者は自分の財産を持つのではなく、財産は共有すべきだ」と思ってしまうこともあるかもしれません。ただ、ここに記されている初代教会の人々が行った「財産の共有」は、今の私たちにがもつ信仰生活において「しなければならない」ことではないのです。

 この当時の背景を考えますと、キリスト者は、ローマ帝国の支配下にあって、しかもユダヤの社会の中で、「イエスが主である」と告白して、いわゆる異端の集団とされた存在でもありました。その中で、ローマ帝国からも、ユダヤの社会からも迫害を受けることになった、小さな小さな集団が、当時のキリスト者です。日本で言えば「隠れキリシタン」のような小さな存在で、多くの迫害の中で、どうにかお互いが力を合わせて生きていた存在だったのです。そのような背景の中で、今日の記事があるのです。キリスト者は、力を合わせ祈り、それぞれの持ち物を持ち寄って、なんとか生きていたのです。この「財産の共有」はそのような背景の中にあって生まれた一つの信仰の出来事でした。ただ、この姿が、信仰者としての条件であったり、そうしなければならない姿ではないのです。

 人々は「相互の交わり」に熱心でした。つまり、人々は、惜しむことなく、お互いに祈り合うこと、助け合うことを行ったのです。つまり、人々は、「自分だけを見る」ことから解放されていたのです。自分の生活にとらわれるのではなく、また頭の中が自分の生活、財産、権力などの思い煩いで、いっぱいになっていたのではなく、イエス・キリストを中心に、お互いに仕え合う生活を行っていた。人々は、自己中心という価値観から解放され、お互いのために祈り合い、支え合っていたのです。

 

2:3 パンを裂くこと

 そして、三つ目に人々は「パンを裂くこと」に熱心であったのです。「パンを裂くこと」これは今の「主の晩餐式」を表しているとも、「食事」を表しているのだとも言われています。ただ当時のキリスト者のなかでは、「主の晩餐式」がはっきりとした礼典として確立してはいなかったと考えらえれ、「食事」と「主の晩餐式」にそれほどの区別がなかったと考えられています。キリスト者は「共にパンを裂き、食事をいただいた」のです。

 食事というのは、社会生活、集団生活において、とてもわかりやすく「仲間」を生み出すと同時に「差別」を生み出す行為でもあるのです。先週に学びましたが、実際イエス様は、いわゆる罪人とされる人々と食事をすることによって、ファリサイ派の人々、律法学者は強く非難されたのでした。

 この前、少しドラマを見たのですが、その中での話で、ある一家が、頑張ってお金を貯めて、高級タワーマンションに住み始めたというお話がありました。夢のようなマンションに大きな期待をもって住み始めるのですが、実際にそのタワーマンションに住むのは、お金持ちの人ばかりだったのです。そのため、お隣さんたちとの生活基準が合わないのです。そのなかで、お母さんが食べ物を持ち寄っての昼食会をする中で、主人公の人が庶民的なお惣菜を持っていくと、他の人は超高級料理ばかりを持ってきていて、馬鹿にされ、恥ずかしい思いをしたというシーンがありました。そしてそこからいじめ、差別が始まっていく・・・というドラマがありました。

 実際に、最近、日本は国際捕鯨委員会から脱退をしたようですが、日本人がクジラを食べること、一部の人々はイルカも食べることから、世界のいくつかの国から非難を受けています。そこには大きな文化の違いがあります。また、生の魚を食べない国の人にとってみれば、生の魚を食べることは理解できないでしょうし、辛い味付けの国もあれば、甘い味付けの国もあるでしょう。食事はそれぞれの生活基準、生活習慣、文化、そして宗教をとてもわかりやすく表す行為だといえるでしょう。食べる物、食べ方、それをみれば、だいたいその人がどんな人かがわかるのです。そしてその違いから「仲間」を作りだすこともできれば、お互いの違いを受け入れる時ともなるでしょう。しかし、それは同時に「差別」を生み出しやすい行為でもあるとも言えると思うのです。

 「パンを裂くこと」、「共に食事をすること」は、とても単純なように見えて、とても難しいことなのかもしれません。共に食事をするとき、そこには一つの壁を打ち砕いた関係が生まれているのです。そして、食事をする中で、お互いの文化や考え方を理解することもできる、とても大切な行為なのでしょう。初代教会の人たちは、聖霊に満たされて、キリストによって「共に食事をする者」とされたのでした。少なからずそこにも、生活基準の違いがあったでしょう。ここに、人々はその一つの壁を打ち砕き、お互いを受け入れていたことを表すのです。

 

2:4 祈ること

 4つ目に、人々は「祈ること」に熱心でした。祈りは、神様との会話です。以前の特別伝道礼拝で、寺園先生が子どもたちに携帯電話を使って、見えない神様とお話をする「お祈り」のことを教えてくださいました。私たちは電話を使い、見えない相手とお話をします。同じように、神様は見えないですが、お祈りをすることでお話をする、神様はそのお祈りを必ず聞いてくださっているというようなお話でした。

 日本人はお参りなど様々なところで神様にお願いをしています。先日センター試験がありましたが、「受験の合格祈願」など、様々なことをお祈りしているのです。キリスト教とは祈る内容、祈り方、祈る相手はまったく違いますが、このように何かにお願いをすることも、自分の力を超えた何かにすがりたい、自分にはできない何かがあることをどこかで感じているのだと思うのです。祈ることは、自分にはできない、自分以上の力があることを信じている行為です。私たちキリスト者が祈る相手は、イエス・キリストの父なる神様で、その祈りはイエス・キリストを通して祈り、そして最後には「神様の御心に委ねて」祈るのです。祈ることは、自分の限界、自分の弱さを知ることでもあるでしょう。その中で、神様にお願いし、悔い改め、感謝し、いろいろなことをお話しするのです。お祈りは、このようにして、私たち人間と神様の関係を繋ぐ行為となるのです。このとき、初代教会のキリスト者は、聖霊に満たされ、祈ったのでした。イエス・キリストを通して、神様との関係を繋ぐ行為として、祈ったのです。

 

3:  一つになる 共に生きるチャレンジ

 初代教会の人々は聖霊を受けて、そして「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」「祈ること」、この4つの行為を通して、「心を一つに」しようとしていました。それはただ、聖霊がくだり、そこに「共に生きる」存在が与えられただけではないのです。キリスト者として、共に生きるために、御言葉を聞き、互いに受け入れあい、支え合い、食事をして、共にお互いの為に祈った。そこには「一つとなろう」という、強い気持ちがあったのでしょう。私たちは今、お互いに「心を一つ」にしていきたい、「心を一つ」にしていこうと思っているでしょうか。

 以前、北海道にいた時の話ですが、研修の講師として、当時、別府伝道所の牧師でした吉田真司牧師先生をお迎えしてお話を聞きました。その話の中で、このような言葉がありました。「さまざまな人が、共に、歩むために、みんなが100%満足できる状態でなくとも、他者のために、みんなが80%の満足しか出来ないとしても、共に歩むために、それぞれが他者を大切にすることを、選び取っていくことは、試練であり、また恵みである。」という言葉でした。現在は、別府国際教会には、酒井先生が赴任をされましたが、当時の別府伝道所、現在の別府国際教会は、「国際教会」という名前の通り、10ヶ国以上もの違う国籍の人々が入り混じっていたそうです。その中で、それぞれが、自分の主張だけを突き通そうとする中では、教会は教会としての方向性を失ってしまいそうになってしまったそうです。そのような現実にぶつかる中で、すべての人が100%満足する礼拝ではなく80%満足し、あとの20%は他者のため、人の思いを大切にするための教会にしていこうと、そのような道を選びとっていったということでした。

 自分が100%満足できる教会、礼拝を求めないで、他者の思いを大切にして教会を作っていくことは、実のところは、国際教会だけではなく、それぞれ、どこの教会にも必要なことなのではないでしょうか。私たちは、誰もが、違う生き方をして、違う環境で、違う人生を生きてきたのです。年齢も違いますし、求めているものも違います。その中で、みんなが100%満足できる教会を作ることは難しい、無理な話でしょう。そのことをまず理解していきたいと思うのです。

共に生きること、心を一つにすることは、自分が満足できる関係だけを求めるのではなく、他者の思いを大切にすることから始まるのだと思うのです。そのためには、自分自身が、少なからず痛みをもつことを必要とするのです。そのうえで私たちは、「心を一つにする」「共に生きる」道を選びとっていきたいと思うのです。

 

初代教会の人々は熱心に一つになろうとしていました。しかし、いつも心を一つにすることができていたわけでもないのです。この後、初代教会は、異邦人伝道への道と、ユダヤ人伝道への道へと、道は二つに分けられ、対立もしていくこととなるのです。これはただ自分たちだけのための教会、自分たちだけの福音から、世界中のみんなの伝道へと、動き始めたときに起こった出来事でした。ある意味、新しい道へ歩き出した時に起こった、意見の違いからの対立です。

教会といえども、心を一つにして歩み続けることは大変なことです。特に新しいことをしていこうとするときは、意見の違いが大きく出てくるものです。私たちは、そのうえで、イエス・キリストによる福音を真ん中において、心を一つに、共に生きる道を選びとっていきたいと思います。イエス・キリストが、私たちのために傷つかれ、痛みを覚え、最後は十字架の上で、死なれていったように。私たちもお互いのために、時に、自分の心に痛みを覚えることになろうとも、共に支え合い、祈り合い、神様に仕えていきましょう。

そして、そこに神様に従う、信仰共同体としての教会の新しい道が開かれていくのだと思うのです。「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」「祈ること」。私たちは心を一つにするために熱心に礼拝し、祈り、お互いの違いを受け入れ、一緒に食事をし、これからも主に仕え、歩んでいきましょう。(笠井元)