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2018.12.9 「平和の神が共におられるようにる」(全文)  フィリピの信徒への手紙4:8-9

 人は手紙であれ、お話であれ、最後に何を語るのでしょうか?私は、ありきたりですが、手紙の末尾に「主イエスの祝福と護りがありますように」と書きます。韓国の元大統領金大中さんは、ローマ・カトリックの信徒ですが、投獄され死を覚悟して息子たちへの遺言を書きました。「21世紀の生のために」と題する1981923日付の手紙が残っています。それには、愛する妻と息子たちに、「適切な歴史意識・歴史認識」を持って生きよと書いています。(『金大中獄中書簡』6874頁)。その後彼は獄から解放され、大統領になるのですが、父親が死を覚悟して息子たちに言い残したいことが「適切な歴史認識を持って21世紀を生きよ」ということであったことに感銘を受けました。皆さんは、愛する者たち、あるいは友人たちにどのような言葉を語るでしょうか?

 

1.「終わりに」

 8節で、パウロは「終わりに」(to loipon)と言って手紙の最後の部分を書き出します。実は、同じ言葉が3:1に登場します。全く同じ表現です。ですから、口語訳も、新改訳も両方とも「最後に」と翻訳しています。説教や講演で、「では最後に」と言ってから5分、10分話を続けると聞き手はいらいらしてきます。最近の研究者は、フィリピの手紙は、1:1~3:1までが手紙A、3:2~4:1までが手紙B、4:2~23を手紙Cと解釈し、現在のフィリピ書が3通の手紙からなっていると考えているようです。小学生時代「ドラエモン」をテレビで見ていましたが、藤子不二雄Aと藤子・F/不二雄と二人の作家が共同作業でマンガを描いていたそうですね。まあ、パウロは同一人物ですので、手紙A.手紙B,手紙Cが編集されたということで驚きもしないと思うのですが、それにしても「終わりに」と言いながら、10節以降、23節まで続くのですから、パウロには言いたいことがたくさんあったのでしょう。自分の手紙が新約聖書の部分として2千年に亘って読まれるとしたら、もう少しすっきりと書いたのかも知れません。

 それはともかく、3:1では、「終わりに、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」と言いましていかにも「喜びの手紙」と呼ばれるにふさわしいフィリピ書の終わり方ですが、4:8は「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」と多少ありきたりで、諄(くど)い言い回しになっています。

 

2.この世的な「徳」を心に留めよ

 パウロは、この世で通常大切なもの、「徳」と呼ばれているものを尊重し、「心に留めて」生きることを勧めています。新約聖書にはいわゆる徳目表というものがあります。ガラテヤ5:22の徳目表は、「霊の結ぶ実は、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」とあります。私の子どもたちがスイスの教会の教会学校でこのテキストで英語のミュージカルのようなものをやったのを思い出します。コロサイ3:12は、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい」とあります。完全を帰するためにできるだけ多くの徳目が並びたてられているのが常です。パウロはフィリピ書のこの個所では8つの徳目を並べています。最初の6つと後の2つは表現が少し違っており、あとの2つが先の6つを総括している(佐竹明)とも言えるでしょう。

 

1)すべて「真実」なもの(alēthēと言われていますが、真実なものとは、「隠されていない、事実において真であることです。2)すべて「気高い」(semna)ものとは、「尊敬すべき、尊敬に値するという意味から、真面目さ、謹厳、真剣な、高尚なこと」を意味しています。3」すべて「正しいこと」(dikaia dikaios )とは、一般的には、「正しい、正義である、神の目から見て、正しいこと」、狭い意味では「公平」を意味しています。4)「すべて清いこと」(hagna hagnos)、「清い」とは元来は神を礼拝するためにこの世の汚れを清めることです。倫理的にも、儀式的にも清いことでしょう。5)「すべて愛すべきこと」(prosphilē lovable)とは自然の情を意味する「フィロス」に由来し、愛すべき、親愛の情を向けたくなるものを意味します。私の水泳の時に使っていたバッグには、ペンギンの絵が描いてあり、「I’m a cool lovable little bird」(私は格好いい可愛い小さな鳥さんです)と書いてりました。6)「すべて名誉なこと」(euphēma)とは「良い(eu)うわさ・評判(phēma)」ということで、信望があることです。7)あらゆる「徳」(aretē)とは、アリストテレスや当時のストア的民間哲学でいう道徳的な素晴らしさを意味しており、ギリシヤの倫理思想において大切にされていました。そして最後は、8)「徳や称賛に値すること」(epainos)ですが、これは、人からほめられること、推奨されることです。このように次から次へと言葉を重ねると面白くありません。まあ、「個々の徳目の独自の意味は余り重要ではなく、むしろ徳目表が全体として何を言おうとしているかという点の方が重要である」(佐竹明 264頁)と結論しておきましょう。

 

.人の大切にしているものを尊重すること

 以上のような徳目表が登場するのでこの個所から説教する気になれず、この4か月引き延ばしてきたのですが、今では、少なくとも私にとってとても大切なメッセージであると思わされています。私は70歳になり今年331日に仕事を引退し、年金生活が始まり、失業保険をもらうために、ハローワークにも行ってみました。この一年、多少、疲れを癒し、日常生活を心穏やかに過ごしたいと願っていたのですが、結構いろいろな教会、連合から奉仕を頼まれて忙しく過ごし、さらに、11月からは亡くなった天野有先生が残された科目を2科目担当することになり、現在は補講を入れて急に忙しくなりました。昨今、多くの人が亡くなりました。先輩牧師たち、後輩の牧師・同僚が力尽きてなくなりました。今年は、会ってお礼を言いたい人には夫婦で会いにいくことも始めました。何人かの大学の友人にも会うことができました。そのような生活の中で、健康であること、少しでも自分のからだを慈しむことが大切であり、何か痛みがあれば本当に心も晴れやかではないと思っています。この世の中は、暴力と暴力、軍事力と軍事力の危うい均衡、政治家の恫喝のような激しい言葉の応酬、表面上言っていることと本当のこととは違う政治家たちの意味不明な言葉、反知性主義というか議論、討論を避け、人を嘲笑うような人々。貧富の差の拡大などにもかかわらず、現状維持が良いと考える人たちが60%以上であるという意識調査。シリアなど族長が支配する国での内戦、押し寄せる難民に直面していわゆる「グローバリズム」が崩壊して、国内で民衆の対立が激化している現状。そのような世相の中で、自分自身、この世の愚かさに唖然として生きる場が狭くなり、ユーモアが欠如しているのを感じています。日本社会でキリスト者として生きるづらくなっています。明治期多くの若者、文学者がクリスチャンになりました。しかし、彼ら彼女らは、年を取るにつれてキリスト教信仰から離れていったのが、分かるような気もするのです。キリスト者の価値観・世界観と日本社会の価値観・世界観とは本当にかけ離れているのです。そこで、イライラし、悲しく、… 身の置き場がないという感じがしています。まあ、定年で仕事がないからなのかも知れません。そのような、自分自身の現在の在り様を考えると、パウロのこの勧めが、「この世の人が大切にしているものを尊重しなさい」という勧めに聞こえ、「信仰を持つ者の独善に気をつけなさい」という解放の言葉として響いてくるのです。この徳目表にあるような、一般的、人間的常識、いや、「良識」はそれなりに大切なのです。ある人の文章を引用します。「もしもキリスト者が、妙なクリスチャン風を吹かせて宗教や信仰を異にする隣人同胞たちの倫理観を逆撫でする言動に走り、自分にだけ特別な自由を容認するような特権的態度をとるとすれば、それは到底、真のキリスト者の取るべき道とはいえないのである。」(NTD)きつい言葉です。パウロは、ローマ12:18では、「できれば、せめてあたながたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」と言っています。心に留めておくべき忠告です。

 

.福音を生きる

 キリストを通して神にこよなく愛され、赦されている私たち、「福音」を知らされているキリスト者、この世のものではないが、この世に生きている私たちは、どのように生活したらよいのでしょうか。今日の箇所を注意深く読むと、羅列された徳目を「行いなさい」とは書かれていません。ただそれらのことを「勘定に入れて、心に留めておけ」と言われているだけです。「実行せよ」(prassete プラクシス)と言われているのは、「(パウロ)から学んだこと、受けたこと、(パウロ)について聞いたこと、見たこと」、つまり、イエス・キリストを通して明らかにされた「福音」の喜び、その福音に応答して生きよ、それを「実行せよ」と勧められているのです。むろん、この世の人々が尊重するものを尊重して生きることも大切です。しかし、それを尊重する「動機付け」が違うのです。私たちキリスト者は、「人間に元来備わっているものを自分の力を磨いて頑張るのではなく、神の愛への応答として、聖霊の導きに委ねて行うのです。自分の名誉のためではなく、神の栄光のために勘定に入れておくのです。福音の喜びから顔を逸らし、この世の絶望的状況を見たら、波を見て恐ろしくなり、沈みかけたあのペトロのような自分を見せられだけでしょう。(マタイ14:30)まっすぐにイエス様を見て、一歩、二歩を踏み出したのでしたが、強い風に気がついたその瞬間、沈みかけ、主イエスが手を伸ばして捕まえてくれたのでした。私たちもペトロのように、「主よ、助けてください」と叫ぶべきでしょう。福音に生きることは、まっすぐイエス様を目指していきることです。

 

5.約束:「平和の神のインマヌエル」!

 先週、笠井元牧師がイザヤ書11章から「平和の王」として到来することを期待されたキリストについて説教されました。2018年の12月、クリスマスを迎え、この一年を振り返り思うことは、世界各地で、「平和」が脅かされていること、だからこそ、心の「平安」を含めて「平和であること」が人間にとって本当に重要なことではないかということではないでしょうか。パウロは約束します。「そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」7節の「神の平和」はパウロの手紙のそこだけに用いられた言葉であると先回の説教で申し上げました。しかし、「平和の神」は所々に、たとえば、ローマ15:33、IIコリント13:11に用いられています。「平和の源である神があなたがたと共におられるように、アーメン。」「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」「平和の神」というこの表現が、手紙の終わりの言葉の中に登場するので、「平和の神があなたがたと共にあるように」という挨拶が、当時の教会で用いられた礼拝の終わりの祝祷の一種であったとも考えられています。「平和」とは、内心の平穏や、教会内に争いがない状態を指す表現というより、もっと積極的に、「救い」ないし「あわれみ」と同じ意味であって、いわば「平和」の反対語は「戦い」というより、「さばき」(佐竹明 272頁)、「裁き合い」であるのかも知れません。初代のキリスト者は礼拝が終わって帰途に就く際、「主の平和が共にあるように」と言っていたようです。この約束の言葉を互いに言い合えたら素晴らしいと思います。(松見俊)