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2018.12.2 「平和を実現する神の愛」(全文)  イザヤ書11:1-10

1:  預言者イザヤの時代背景

 今日はイザヤ書から、御言葉を聞いていきたいと思いますが、このイザヤ書の7章には、救い主の誕生を預言する「インマヌエル預言」が記されています。そして、今日の箇所11章では「平和の王」と小見出しにあるように、今日の箇所は「平和を実現する救い主」が現れること、その救い主によって、「平和」が与えられることを語っているのです。

 少し、このときの時代背景を見てみますと、ここで「平和」の実現を語るイザヤですが、実際にイザヤの置かれていた状況は、決して、「平和」と言える状況ではなかったのでした。イザヤ書の著者であるイザヤは、イスラエル王国が、北イスラエルと、南ユダ王国に分裂をしている、紀元前8世紀に、南ユダ王国に現れた預言者とされています。当時の南ユダ王国は、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤといった王様によって、治められておりました。この4人の王様の中でも、後の2人、アハズとヒゼキヤが王様のときに、イザヤは活動を行った預言者とされています。この頃というのは、ちょうど、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされていく、そのような時代でした。そのため、アハズ王、そしてヒゼキヤ王は、アッシリアの脅威と戦っていたのです。イザヤはそのような二人に神様からの御言葉を伝える、そのような預言者としていたのです。

 

 この二人の王様、アハズとヒゼキヤですが、アハズ王は、基本的にアッシリアに従う姿勢をとり、偶像礼拝も行ったとされています。そしてアラムという国から攻められたときには、アッシリアの王様に助けを求めたのです。この世の一つの国を治める、王様としての評価はわかりませんが、イスラエルの中では、神様に従わなかった悪い王様であるとされています。

 それに対してヒゼキヤは「主なる神により頼んだ」(列王記下18:5)王様とされます。イザヤによる神様の御言葉を聞き、神様により頼みアッシリアに対抗したのです。また、城壁を修繕し、トンネルを掘り貯水池を作ったりと、とても有能であり、イスラエルの中では、良い王様であったとされているのです。ただ、このヒゼキヤもまた、いつも神様に従ったのではなく、エジプト、バビロンと手を組み、アッシリアに対抗した場面もありました。そのような意味では、アハズもヒゼキヤも、軍事力に対しては、軍事力による解決を求めていったのです。

 このことは、この世においては、常識的な判断だということができると思います。アハズはアッシリアに頼り、ヒゼキヤはエジプトにより頼んだ。国を治める王として、国家、そして国民を守るためには、軍事力、経済力、様々な力と知恵を出しきって国を守ること、力による解決は当然のことでと言うことができます。そしてそれがこの世の考え、価値観なのでしょう。

 それは、現在においても何も変わることはありません。今も同じように、強い力をもつ国家が、その力で、他国を押さえつけ、そのため、また別の国家が力を持とうとする。力に対して、力を。それはこのイザヤの時と、そして今も、何も変わっていない。そして、それがこの世の考え方、この世の価値観なのでしょう。

 

2:  平和とは

 では、大きな力をもってまで保とうとする「平和」。そのような「平和」を求めているときに、私たちは一体どのような状態のことを「平和」と考えているでしょうか。力による「平和」。力による解決というのは、確かに一時的に、そこに争いがなくなるかもしれません。しかし、それは力によって、他者を押さえ付けて、争いのない状態を作り出しているだけのことなのです。そこに本当の解決は得られていないのです。それが「平和」だとするならば、「平和」の中にあって、苦しみ、しいたげられている人々がいる。そこに、争いや、不満がないのではなく、不満があっても、声をあげることが許されていない、という、とても偏った「平和」となっているのです。

 イザヤの語る「平和」。それは、このような力によって得られる、単に、戦争のない、争いの無い、そのような状態のことを指していたのではなかったのです。イザヤは神様により頼み、神様を主とする、そのような関係、そのような神様との関係をもつことによって得られる「平安」を「平和」と語ったのでありました。それは、ただイザヤ自身が安心した場所にいて、安全なところから、気楽な場所から語られた言葉ではなく、イザヤ自身もまた、アッシリアの軍事力の脅威を目の前にしていた。その過酷な現実の中にいたのです。そのような中にあったイザヤは、軍事力や権力といったものによって、得た、偏った「平和」をも、見てきたのであり、そのようなイザヤが、そのような、偏った「平和」ではなく、本当の「平和」、まさに神様との正しい関係による「平和」の実現を語っていったのであります。

 

 この、イザヤの語る神様との正しい関係による「平和」。それは、今日の箇所で、6節から9節に記されている、少し、ユートピアの世界のような、おとぎ話のような世界、そのような箇所を通して、イザヤは、その「平和」の幻を語るのであります。

 「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ11:6-9)

 

 ここでは狼は小羊と共に、豹は子山羊と共に、子牛は若獅子と共に存在すると語ります。それは、まさに狼が狼としてあり、子羊が子羊としてありながらも、そのうえで、共にいる状態、そして豹が豹としてあり、子ヤギが子ヤギとしてありながらも、そのままで共にいる状態を、神様との正しい関係による「平和」と語っているのです。本来であれば、共にいることはない動物たち。相対する、力の差がある動物たち。それが、そのままの形、そのままでありながらも、共におり、育ち、共に、食事をなすこと。そのために、どちらかが、形を変えたわけでもなければ、違うものになったわけでもなく、その形のままで、共にいることができるその状態。イザヤは、まさにこのことを、神様との正しい関係による「平和」と語っているのであります。

 どちらかが力を持っていて、その力によって、押さえつけ、また押さえつけられている、だから争わない、だから争えないのではなく、むしろ共にいることが、自然であり、お互いにとって、大切な存在としている。それまで、力の差があり、相対する者であった者たちが、存在を認め合う。まさにイザヤは、このようにあることを、神様との正しい関係による「平和」と、そのように語っているのです。

 

3  主を畏れ、敬う

 このイザヤの語る、神様との正しい関係による「平和」でありますが、私たちは、この「平和」を実現するための、神様との正しい関係をどのようにして、持つことができるのでしょうか。そのことを、今日の箇所イザヤ11:1-5ではこのように語ります。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。」(イザヤ11:1-5) 私たちに与えられた、神様との正しい関係、それは、まさに「主を畏れ、敬う」ということ、主を中心に置くことによって始まるのです

 この神様である主を、畏れ、いつも中心に置くこと。この神様との正しい関係をイエス・キリストが実現されたのでした。イエス・キリストは、私たちに代わり、神様との正しい関係を築き、そして、私たちがその関係に与るという恵みを与えるために、この世に来てくださったのです。神様はこのイエス・キリストを通して、私たちが神様に向きあう道、神様に従う道を開いてくださったのです。そのために、神様と、私たち人間が向き合うことができるようになるために、イエス・キリストはこの世に来られたのでした。

 私たちは、このイエス・キリストによる恵み、このイエス・キリストの福音に与ることが許されているのです。そして、それこそが、神様と正しい関係を築いていくことの第一歩であるのであり、「平和」への第一歩なのです。

 

4:  この世に生まれたイエス・キリスト

 私たちは今、アドベント、イエス・キリストがこの世に生まれた出来事を待ち望む時を迎えています。イエス・キリストはこの世に生まれられた。そしてそれは私たち一人一人の心の中にイエス・キリストという神様の愛が来てくださったという出来事なのです。キリストは私たちの「平和」です。それは神様との関係を繋ぎ、同時に、私たちが持っている隣人との隔ての壁を取り壊し、隣人との関係を繋いでくださったということです。この神様の愛、イエス・キリストが、私たちの中に生まれてくださるのです。

 聖書はこのように言います。

 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:14-16) 

 

 「神様の平和」。それは、まさに狼が狼としてあり、子羊が子羊としてありながらも、そのうえで、共にいる状態、そして豹が豹としてあり、子ヤギが子ヤギとしてありながらも、そのままで共にいる状態。そのように、私たちが、お互いの違いを理解し、受け入れあうことです。それは私たちが、人間としての努力によって手に入れることではないのです。 

 私たちは、同じような価値観を持つ人と一緒にいることはある程度できるでしょう。イエス様は「隣人を愛する」こと「自分を愛してくれる人を愛すること」ができることで、あなた方にどのような報いがあるだろうか。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43-48)と言われたのです。コミュニケーションをとるための業としても、だれかと仲良くなるための第一歩には共通点を見つけることだと言われます。つまり、同じようなところ、お互いに受け入れられるところを見つけるということです。そうすれば、お互いの関係が少し近くなると言うのです。 

 しかし、聖書は、お互いに同じところを見つけて受け入れるだけではなく、お互いの違うところをも受け入れ合いなさいと言うのです。それが聖書の示すところの愛です。それは、私たち人間が努力して行うことができるようになるのではなく、神様が与えてくださっている、イエス・キリストを心に迎えることによって、その道が開かれるのです。私たちは、自分では他者を受け入れられない弱さを持ち、そして人間的に貧しい者だということを自覚し、受け入れましょう。そのとき、イエス・キリストが私たちにとって必要であることに気が付くでしょう。

 イエス・キリストは、この世に来てくださいました。この世に、そして私たち一人一人のところにお生まれなさったのです。神様は、このイエス・キリスト、救い主を私たちのところに送り、そこに愛を示されました。私たちはこの、主の誕生、クリスマスを覚え、待つ、アドベントの時、神様の愛イエス・キリストを心に迎え、入れていきましょう。 

 神様は私たちを愛して、この世にイエス・キリストを送って下さいました。私たちの心に愛を注ぎ続けてくださっているのです。このキリストの誕生を待つ、アドベントの時に、わたしたちは、今一度、自分自身の心のうちに来てくださっているイエス・キリスト、神様の愛に目を向けていきましょう。(笠井元)