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2018.11.18 「愛されている存在」(全文)  ルカによる福音書9:46-48

 今日は子ども祝福式を行います。教会では、お互いのことを兄弟姉妹と言います。私たちは神様の子どもとして、イエス様を長子とした兄弟姉妹、神の家族です。その中にあって、今日は、特に、子どもたちが神様からたくさんの愛を受けて、大きく成長してほしいと願い、共に祈るのです。

 

1:  虐げられている小さい者

 今日の箇所において、イエス様は47節からこのように言いました。【47一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、9:48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」】(47-48)

 イエス様の時代、ユダヤの社会において、子どもというのは、神様から与えられている律法を知らない、守ることが出来ない、小さい者、最もとるに足らない、弱い存在と考えられていたのです。この時代では、子どもとの関係に時間を費やすということは、怠けていること、昼からお酒を飲んでいることと並んで、神の国に入る資格のない者がすることだと、考えられていたのです。 子どもはとても小さく、弱い存在だったのです。 

 そのことは現在もあまり変わることはないのではないでしょうか。社会のしわ寄せはいつも子どもに来ているのです。

 少子高齢化となる現在で、子どもはどんどん少なくなっていますが、それでも子どもは大切にされていないのです。来年度の10月からは幼稚園、保育園など保育料の無償化になります。これは、一見、子どもを大切にしているように見えるのですが、実際は、すべての女性が働く者となるための方策です。「働きたい者」が「働ける」「働く権利を得る」ように見えるのですが・・・実際はそうではなく、「すべての者が働かなければならない」子どもと保護者の関係が薄れていく現実、保護者が子どもを手放さなければならない時代となってきているということなのです。

 この教会には附属の幼稚園があり、私は園長としても務めていますが、幼稚園はあくまでも子どもを育てる「手助け」をするところであり、最終的には保護者がどのように考え、育てていくかが一番大切なものだと考えています。もちろん、幼稚園も大切です。幼稚園は集団生活、社会生活の始まりの場所でもありますので、自分とは全く違った人と出会うのです。そのなかで、どのように生きるのか。自分と違う人を愛する大切さを一番純粋に学ぶことができる時でもあります。ただ、最終的には、どれだけ家庭で愛されて、生きることのすばらしさ、楽しさ、喜びを教えるか、一緒に学んでいくことができるかということが、子どもにとっては一番大切なことだと思います。幼稚園はあくまでも、家庭と協力して、子どもを育てていく場所なのです。幼稚園にいる時間は本来長くても4時間から6時間程度です。あとの20時間程度はお家で過ごすのですから、子どもにとっての基本的なことは本来、家庭で学ぶはずなのです。しかし、現在では8時間、長いところでは10時間程度も幼稚園、保育園に預けなければならない現実があるのです。お父さんも、お母さんも働かなければ生きていけない。そのような現実があるのです。

 

 現代は「一億人総活躍」と言い、「人生100才」と言います。聞こえとしてはみんなが活躍できる社会として聞こえはいいのですが、その内容は、「すべての人間が働かなければならない、男性も女性も、若い者も老人も関係なく、働かなければならない」と言っている。そして、そのしわ寄せは「子ども」にきているのです。 子どもという小さい者が虐げられているということは、今も昔も変わらないのです。

 

 そして、この小さい者としての存在は、なにも子どもだけではないのです。聖書では「やもめ」、つまり、夫が亡くなった女性のこと、また「寄留者、」簡単に言うと、ユダヤに住む外国の人などが小さい存在とされています。そして聖書では、このような小さな存在、「寄留者」「やもめ」「子ども、特に孤児」の権利を守るように教えています。現代でも、「こども」、「孤児」や「ひとり親」が小さい存在であることは変わりないでしょう。

 現代では、そのほかにも、LGBT「性的少数者」の方々のことを、政治家は「生産性がない存在」と言いました。また2016年には、相模原障害者殺傷事件として、障害者が「生きていても役に立たない者」として、そのような者は死んだ方がいいとして、多くの障害者が殺害されたのでした。 これがこの世にある現実です。今も、力の弱い者、少数者が小さく必要のない存在として、さげすまれ、虐げられているのです。

 

2:  神のえこひいき

 そのような中で、神様はその小さい存在を愛されたのです。現在、朝の祈祷会では創世記から聖書を学んでいます。少し前ですが、先日創世記4章「カインとアベル」の話から学びました。「カインとアベル」は「人類最初の殺人」とも言われていますが、「兄カイン」が「弟アベル」を殺してしまうのです。

 少し内容を説明しますと。アダムとエバからカインとアベルという兄弟が生まれました。カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となったのです。ある時、神様の前に、カインは土の実りを、アベルは肥えた羊の初子を持ってきたのです。しかし、神様はアベルとその献げものに目を留められ、カインの献げものには目を留められなかったのです。この出来事により、カインはアベルに嫉妬し、殺したのでした。このとき、なぜ神様はアベルの献げものだけに目を留められたのか。なぜカインの献げものには目を留められなかったのか。という大きな問題が出てくるのでる。

 祈祷会では、このことの一つの答えとして、その名前の意味から学びました。「カイン」という名前は「得た」という言葉を語源とし、母親エバが「わたしは主によって男子を得た」と喜び、神様を讃美した言葉から、十分に祝福されて生まれた者とされていたのです。しかし「アベル」という名前の語源をたどると、そこには「むなしさ」「意味のないもの」「価値のないもの」「空虚さ」という意味になるのです。つまり、アベルは「意味のないもの」「価値のないもの」として、虐げられていた存在であったことを表すのです。そしてだからこそ、この虐げられていた存在アベルを、神様は目に留められたのでした。

 聖書の神様は、小さい者を愛されます。聖書を読んでいると、時々、それが「えこひいき」に見えること「なんでそんなことするんだろう」と思うこともあります。新約聖書の「放蕩息子」における弟と兄に対する対応の違い、「99匹をおいて、1匹を探しに行った羊飼いの話」など、時々「なんで」と思う行動「えこひいき」と思えることが記されているのです。 

 確かに、神様は小さき者を愛されたのです。この世では「勝ち組」と「負け組」とわけられ、どのようにしたら、「勝ち組」となることができるのか、「勝ち組」になるにはとばかり考えられます。これがこの世の価値観です。この世の価値観に対して、神様は真逆の価値観を示された。神様は小さき者を愛されたのです。

 この世において「幸せであること」「知恵と力と財産をもっていること」、そのこと自体が悪いことではありません。私たちが神様からいただいた命の中で、力を持ち、知恵を持ち、財産を持つことはとても大切なことです。私たちは全力をもって、神様に従い、生きる必要があるのです。

 問題は、その神様からいただいている恵みを、自分だけのものとすること、自分で得たものと考えてしまうこと、その使い方を間違えてしまうこと、「勝ち組」となろうとすることにあるのです。本来、神様の前にあって、私たちは、「勝ち組」とか「負け組」、「小さい」とか「大きい」という隔てはなく、すべての者が、神様の前にあっては、同じところに立つ者です。このことを、忘れてしまうとき、まさに、この世の価値観が、「小さき者」「虐げられる者」をつくりだしてしまっているのです。神様は、どのような者であっても私たち一人一人を大切にしてくださっているのです。神様の愛は無条件の愛なのです。神様が小さい者を愛することは、その愛を示すことで、無条件の愛、すべての人間を愛していることを表しているのです。

 

3:  小さい者となられた

 この時、9:46 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。」(46)のです。このように「小さい者を愛される」という神様の前にあって、今日の箇所において、「弟子たちは誰が一番偉いのか」ということを話し合っていたのです。このことを客観的に見れば、「なんて傲慢な弟子たちなんだ」と思うかもしれませんが、この姿は、まさにわたしたち自身に見ることができるのではないでしょうか。「誰が偉いのか」。神様が小さい者を愛する前にあって、人間は「誰が偉いのか」を争っているのです。

 このような者に対して、イエス様は「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(48)と言われたのです。

 イエス様は、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と語られました。この「わたしの名のために」という言葉は、「わたしであるかのように」という意味でもあるのです。「子ども」、つまり、とるに足りない、小さく、弱い存在の者を、イエス様であるかのように受け入れること、そのことが、実際イエス様を受け入れていくことになると、教えられているのです。

 事実、イエス様は、この世に、一番小さい者として来られました。

 【「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」】(フィリピ2:6-8)

 

 イエス・キリストは神の子でありながら、自分を無として、人間として、その人間の中でも、十字架刑にされるほど、小さく、弱い者として、この世に来られたのでした。イエス・キリストは最も小さい者となられたのです。イエス様こそが、私たち人間の為に、小さくなられた方なのです。

 私たちが小さく、弱い者、力ない者を受け入れるとき、そこに、このイエス・キリストを受け入れるという出来事が起こるのです。そこに、本当の神様の愛と恵みを感じることができるのです。

 

4:  祝福されている者

 今日は、子ども祝福式を持ちます。祝福とは「エウカレオー」と言う言葉で、「良い事を言う」という意味を持ちます。祝福されること、それは「良いことを語り、良いことを生み出す力を持つ」ということです。「祝福される」ということは、どこか、自分になにか良い事が起こるように考えがちですが、むしろ、実のところは、逆に「良いことを生み出すこと」を意味するのです。

 神様の祝福をいただくとは、神様の祝福を受け、神様の祝福を表す者となるということです。つまり、この世において、へりくだり、死に至るまで従順であったイエス・キリストに従い、自らへりくだり生きること。そして、神様の祝福、恵みを表していく者となるということです。神様は、イエス・キリストの十字架、そして、その復活を通して、私たちに祝福を与えてくださいました。私たちは、この十字架と復活を受け、その、祝福なる恵みを大胆に言い表すのです。そのように生きていくこと、それこそが祝福に生きることとなるでしょう。神様は、自らの御子イエス・キリストを通して、私たちに祝福を与えて続けてくださっています。良いことを生み出す力を与えてくださっているのです。つまり、小さき者を愛する力と勇気を注いでくださっているのです。この主イエス・キリストに従う道を歩き出しましょう。神様の愛を受け、へりくだり、仕える者としての道をあゆんでいきましょう。(笠井元)