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2018.11.11 「魂の休息」(全文)  マタイによる福音書11:28-30

 今日は、幼児祝福礼拝です。先ほど子どもたちと祝福の祈りを行いました。幼児祝福式は、神様が私たち一人ひとりを愛してくださっているという祝福の恵みを思い起こさせます。今日、わたしたちはこの恵みを共に受け取りましょう。

 

1:  新鮮な命の力

 先ほど、読んでいただきましたが、聖書で、神様は、わたしたちに「休ませてあげよう」と招きます。「休ませてあげよう」。この言葉を、別の訳では「新しい、新鮮な命の力を与える」と、訳しています。内容としては、この「新しい命の力を与える」という言葉のほうが、わかりやすいと思います。今日は、幼児祝福礼拝です。この幼児祝福礼拝は、毎年行っていますが、わたしは、お祈りするときに、「前の年はこんなに小さかった子どもが、今年は、こんなに大きくなって・・・」ということを、本当に実感します。

 以前、この祝福式のリハーサルをしているときに、子どもから、神様の「祝福ってなあに?」と聞かれたことがありました。その後、「祝福」ってなんだろうと考えましたが、今日の聖書のことばは、その一つの答えではないかと思うのです。「あなたを休ませてあげよう」。そして「あなたに新鮮な生きる力を与えよう」と語りかけてくださっているのです。それは、砂漠の中を歩き続け、喉が渇き、おなかがすき、疲れ果てた時に、出会うオアシスのようなものです。まさに生き返る、命の水が体の隅々に行きわたる。もう一度、歩き出す力が湧いてくる。そのような心の中に染み渡る休息。新しい命の力を与えてくださる。それが「神様の祝福」と言うことができるのです。

 

2:  休むことができない

 現代の私たちは「休むことができない」社会に生きているのではないでしょうか。ニュースでは「過労死」または「過労による心の病」に陥っていくことが問題として挙げられます。この「過労死」は海外では相当する言葉がないそうで、ローマ字で「K」「A」「R」「O」「S」「H」「I」として、「KAROSHI」と表すようです。海外では日本人は「生きるために働いているのか?」「働くために生きているのか?」と疑問視されています。わたしたちは走り続けなければ倒れてしまう、自転車のような「忙しい」人生を送っているのです。そして、それが私たちの生きている現実となってしまっているのです。「休むことができない」。そのような私たちに神様は「休ませてあげよう」と招かれます。聖書では、神様がこの世を創造するときに、その7日目に「休まれた」ことが記されています。神様は、この世界を造るにあたり「休み」を必要とされた。「休むこと」の大切さを教えてくださっているのです。

 

3:  重荷とは

 ただ「休むことができない」という現実はそれほど簡単に変わるわけではありません。「休むこと」ができないという現実。それは今日の言葉に「重荷を負う者」とありますように「重荷を負っている」ことを意味します。では、私たちにとっての重荷とはどのようなものでしょうか。私たちを逃げ出すことのできない、「忙しさ」に追い込むものは一体どのようなものでしょうか。

 現在、日本において1年間での自死者は2万人程度とされています。交通事故で亡くなられる方が年間3700人ほどですので、本当に多くの方が「人生に絶望して」亡くなれているのです。わたしたち人間を絶望に追い込むものは一体どのようなことでしょうか。わたしたちが背負う「重荷」には、さまざまものがありますが、その中でも、私がとても大きな問題として感じていることは2つあります。

 1つは「孤独」ということ、そしてもう1つは「生きる意味の喪失(そうしつ)」です。これは2つで1つのセットなようなものだと思いますが、私たちの人生における大きな「重荷」となることにこの「孤独」と「生きる意味の喪失」ということがあります。

 

 わたしが牧師になるために、西南の神学生として勉強していた時のことですが、わたしは研修神学生として、福岡教会という教会に通っていました。あるとき、突然、警察から連絡がありました。教会にきていた一人の高校生が窃盗で補導されたということでした。なぜわたしに連絡がきたのか、よくよく話を聞いてみると、親が二人ともドイツに行ってしまっていて、保護者がいないということです。兄弟がいるわけでもなく、親戚のだれかがいるのでもなく、ただひとりで暮しているということでした。まだ16、7の高校生です。いつもはとても元気で、笑顔でした。住んでいるところも、きちんとしたところで、お金は毎月振り込まれているようで、困っていることもなかったそうです。ただ、その人は、ひとりでした。その「窃盗」という行為の裏には、「心の孤独」、「さびしさ」があったのではないでしょうか。そしてその「孤独な心」が「生きる意味」を失わせていました。自分は何のために生きているのか。何をすれば、理解してくれる人がいてくれるようになるのか。一緒に考えて、笑って、一緒に生きる人が欲しい。そのような心の痛み、つまり魂が枯渇していたのです。

 

 このように魂が枯渇しているときに、時間的、肉体的に「休む」ことだけでは、なかなか、心の底からは満たされないのです。少しゆっくりする。旅行に出かけたり、レジャーを楽しんで、気分転換をする。そのようなことももちろん「心と体の安息」のためにはとても大切なことです。

 ただ、心の底から枯渇してしまったとき、「孤独感であふれ」「生きる意味を見失った」とき、本当に重荷に押しつぶされ、声もでないほどの苦しみにあるときには、そのような一時的休息だけでは「本当の休み」とはならない、つまり、生きる気力を取り戻すことはなかなかできないのです。そして、イエス・キリストは、そのような魂の枯渇、心の底からの叫びに応えて、「あなたを休ませてあげよう。」(28)「あなたに新鮮な生きる力を与えよう」と呼びかけてくださるのです。

 

4:  キリストのくびきを負う

 聖書はこのように言いました。

 【11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。】

 イエス様は「わたしのくびきは負いやすい」と言われています。これは、とても不思議な言葉となります。本来動物が休むときは「くびき」をはずすのです。「くびき」を負うことは「休む」ことから「束縛」されることになるのです。そのうえで、神様は、「イエス・キリストというくびきを負いなさい」と言われているのです。

 この言葉を理解する大前提として、わたしたち人間は、だれもが何かに支配されている。何かしらの「くびき」を負っているという前提があるのです。どれほど自分は自由だと思っていても、私たちは何に支配されているのです。

 「支配されている」というと抵抗があるかもしれませんが、言い方を変えると、私たちにはそれぞれ生きる価値観があるということです。生きているときの判断基準がある。どこでどのようにするのか。生きる方向性を持ち、生きる価値観を持っているということなのです。そして「キリストというくびき」を負うことは、その生き方の中心に、「イエス・キリスト」をおくことを意味するのです。つまり、その生き方、生きる価値観の中心にイエス・キリスト、神様の愛という価値観を持つこと、それが「キリストというくびき」を負うことなのです。

 さきほども言いましたが、「くびき」とは、牛や馬などの首にはめる木のことで、大抵二頭にくびきを付けて、家畜に荷車などをひかせるのです。二頭で一つのくびきをはめるのです。「イエス・キリストというくびき」。それは「わたしたちのくびき」をイエス・キリストが担ってくださることを意味するのです。「キリストのくびき」。それは、神様ご自身が、私たちと共に歩き、共にその重荷を負う方がおられる。イエス・キリストは私たちといつも共にいて、同じ道を歩き、私たちを愛してくださっていることを表しているのです。

 

5:  神様の愛をいただく

 神様は「愛する」お方です。神様はすべての者に「愛」を注いでいるのです。私たちが本当に、「魂に安息を得る」こと。それは「孤独」からの解放。神様に愛されているという恵みを受け取ることにあります。私たちの隣には、イエス・キリストがいてくださるのです。そして、私たちは、このキリストによる、愛を受け、愛を実現するために生きている。この愛の価値観を中心に置くこと。ここに本当の喜びに生きる意味、生きる価値観、人生の意味を得るのです。 私たちは神様の愛をたくさんいただいて生きているのです。私たちはこの神様の愛を表して生きていきましょう。(笠井元)