特別集会

子どもクリスマス会

12月22日(土)

クリスマス礼拝

12月23日(日)

クリスマスイブ礼拝

12月24日(月)

幼稚園集会

願書受付

11月1日(火)

入園・未就園児クラス

申し込み

随時受け付けています

バプテスト東福岡教会

福岡市東区馬出4-13-15

TEL:092-651-3978

     092-651-6270 


2018.11.4 「嵐の中で共におられる方」(全文)  マタイによる福音書8:23-27

1:  従った弟子たち

 今日の箇所において、まずイエス様は船に乗りこまれました。この後の28節を見ますと、イエス様は、向こう岸のガラダ地方に向かわれたのです。このガラダ地方とは、いわゆる異邦人、異教徒の住む場所でした。当時のユダヤの民は「自分たちは神様に選ばれ救われる者であり、異邦人は汚れている、関わってはいけない」とい考えていました。そのような中で、イエス様は、ガラダ地方、つまりユダヤの民からすれば「汚れた者」が住む場所に向かおうと、船に乗りこまれたのでした。そしてこのイエス様に弟子たちは従ったのです。

 この「従う」という言葉は「後ろからついていく」という意味となり、またここには記されていませんが、基本的に、この「従う」という言葉には「一切を捨てて」「そのほかのものを持たずに従う」という意味を持っていました。「従う」ということは、弟子たちがイエスを主として、強い思いをもって「そのほかの何も持たずに、従った」ということを意味する言葉でもあるのです。弟子たちはイエス様の後ろをついて歩き出したのです。弟子たちは、イエス様の向かう道、ここでは「汚れた者」とされる地にむかう、このイエス様に、一切を捨て、何も持たずに従ったのでした。

 ここには、弟子たちの強い信仰の決心が見ることができます。この後、イエス様と弟子たちを乗せた船は「嵐」に出会っていくのですが、その船に乗り込むときに、弟子たちは、一切を捨て、汚れた地とされる、異邦人の地に向かうという決心、信頼をもって歩き出したのでした。

 

2:  マタイの教会の状況において

 このイエス様と弟子たちを乗せた船は、一つの解釈として、このマタイが記された当時の「教会」を表していると言われています。当時のマタイの教会のキリスト者は、外からはローマ帝国とユダヤ教による迫害があり、また内からは、意見の違い、キリスト理解の違いからの内部分裂などがあり、まさに嵐の中にあって、壊れそうな船という状態にあったのでした。そして、当時の教会の人々もまた、そのような苦難の中でも、大きな決断をもってキリストを信じ、従った者たちでした。今日の箇所において、弟子たちが大きな決断をもってイエス・キリストに従ったように、当時の教会の人々もまた人生をかけて、キリストへの信頼をもって、イエス・キリストを信じたのです。しかし、そこにあった迫害、分裂などによって、その信仰は、まさに嵐に襲われたような状態にあったのです。当時の人々からすれば、「イエス様は眠ってしまっているのではないか」「このままではイエス様もとろも沈んでしまうのではないか」と思うほどの困難に出会っていたのです。

 

 「この世の嵐の中に生きること」は、その当時の教会だけでのことではありません。それはどのような時代にあっても、それは今、私たちが生きるこの時代にあっても、「教会」は、この世においては、嵐に襲われている存在としてあるのです。イエス様に従うことは、この世に逆らうこととなります。 聖書にはこのような言葉があります。【19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。】(マタイ19:21-22)

 イエス様は「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」(21)と言われました。青年は、イエス様に従いたいという思いはあったのかもしれません。しかし「自分の財産を貧しい人々に施す」ということができなかったのです。自分の身を削ってまでイエス様に従うことはできなかったのです。これは、この青年が特別、自己中心で、他者を思いやることができないということではないでしょう。人間は、まず「自分」のことを考えてしまうものなのです。そして、自分の、その身削ってまで、人のために生きることは、なかなかできることではないということです。「自己中心に生きること」このことがとても悪いことだと言われると、私も含め、皆さんも、またすべての人間が、耳が痛いのではないでしょうか。ただ、これがこの世の考え方であり、私たちの内にある心の思いなのです。ある意味、素直な人間の思いでしょう。純粋に人間が、何も考えることなく生きる時、そこには「争い」が起こります。それは人間は基本的に「自己中心な者」だからでしょう。

 しかし、このような思いを持っていることによって、自分の存在を否定することはないのでしょう。わたしたち人間には、考える力があります。理性があり、知恵があるのです。そのような力、学ぶ力も含めて、私たちは一人の人間なのです。

 ここには附属の幼稚園、東福岡幼稚園がありますが、幼稚園は子どもたちにとっては、初めての集団生活、初めての社会生活の始まりの場所でもあるのです。つまり、誰かと共に生きることが始まるということです。それは、ただ自分勝手に、好き勝手に生きているところから、隣人を大切にすることを学ぶのです。東福岡幼稚園では、教会附属の幼稚園として、「共に生きる」ことの根幹に神様に愛されていることがあり、神様の愛に応えて愛し合い生きることを教えています。「神様に愛されていること」「互いに愛し合うこと」は、楽しいことで、喜びが広がること、一緒に何かをすることが、とても素晴らしいことだということを感じてほしいと願っています。

 イエス様は「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21)と言われました。イエス様は、自分だけのために生きることから、神様のために、他者のために生きる大切さを教えているのです。

 

 教会はこのイエス・キリストに従う信仰共同体です。人間としての弱さや欠けのある者でありながらも、それでもイエス・キリストが自分を愛してくださっているという恵みに応答して生きる者の集まりです。つまり、この世の考え方、自分の素直な思いに、逆らい生きる者の集まりです。そのため、この世において、教会につながる者として生きているときに、嵐に出会うのは当然のことなのです。むしろ、神様に従うとしながら、この世において、何の嵐にも出会わない時には、私たちはこの教会が本当に神様に従って生きているのか、もう一度点検する必要があるでしょう。

 

3:  嵐に出会う人生

 この聖書の言葉は、当時のマタイの教会の状況から、その教会を表して記されたと言いましたが、同時に、もちろん、わたしたち個人個人に向けても語られているのです。私たちは、それぞれの人生において、嵐のような困難に出会うのです。それは大きな嵐のときもあれば、小さな嵐のときもあります。ただ、どのような者であっても、多かれ少なかれ、その人生において「嵐」にのみ込まれそうになる。そのような経験を持っていると思うのです。

 実際に今の日本においては多くの「嵐」がやってきています。ここでの「嵐」という言葉は、別の箇所では「地震」とも訳されており、まさに「嵐」「地震」が起きているのです。今年は西日本豪雨、台風21号による関西が受けた大きな被害、そして北海道では大きな地震が起こりました。

 また、世界に目を向ければ、日本では見えないかもしれませんが、今でも、各地で戦争が起こり、普通に、お家でご飯をたべて、洋服を着て、寝て、起きること、そのような生活することができない人々がおり、難民となる人がいて、またその難民を受け入れない国がある。そしてこれからは、超高齢化社会、温暖化問題、人口増加による食糧不足など、問題は山積みなのです。

 また、もう少し身近な個人的な問題で考えれば、他者との関係において、家族、友人、会社の人、学校の人、また教会でも、その関係がうまくいかないという問題が起きることもあるでしょう。また、先日、電話の相談がありましたが、特に何も問題はない生活を送っているのですが、「自分が生きている意味がわからない」というような相談がありました。それなりの生活をしていても、何のために生きて、何をすればよいのか、見失ってしまった、少し贅沢な悩みだとも思いますが・・・「自分がなぜ生きているのか」を見失うということは、命の大切さを見失っている、しかも解決する道はまったく見えないという意味で、とても大きな問題であるのです。そのほかにも、病気や突然の死、考えられないような困難が、私たちの人生には「嵐」となって襲ってくるのです。

 このような時、私たちは何をすることができるでしょうか。地震や台風であれば、ある程度は備えることができるでしょう。しかし、私たちの人生において、もはや、私たちにはどうすることも出来ない出来事、もはや前にも後ろにも行くことはできない、まさに「嵐」の中でおぼれそうだという状態に陥ることがあるのです。このとき私たちは何をどうすればよいのでしょうか。

 

4:  「主よ、助けて下さい」

 今日の箇所において、弟子たちは嵐の中で、イエス様に「近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。」(25)のです。弟子たちは「嵐」に出会う中で、寝ているイエス様を起こしたのです。最初にお話ししましたが、もともとこの弟子たちは、イエス様に自ら「従った」者たちです。自分から、なにもかも捨てて、イエス様に信頼し、歩みだした人たちだったはずなのです。ただ、そのように、イエス様に信頼し、すべてを捨てて歩き出したという者、そのように自負している者は「自分は、強い信仰でイエス様についていくのだ」「どのような嵐の中も、ついていける」という間違え、謙遜ではなく、傲慢へと陥りやすいものなのです。このときの弟子たちも、そのような間違いに陥っていたのではないでしょうか。隣にイエス様がいることを忘れて、イエス様を必要としていなかった。まさに、イエス様を寝かした状態にいたのではないでしょうか。そのような中、嵐の中、慌てふためき、どうしようもできなくなった時、そのような中でようやく、弟子たちは隣にイエス様がおられたことを思い出したのです。そしてイエス様を起こすのです。そして「主よ、助けてください」と叫んだのです。このときに、弟子たちは、イエス・キリストを必要としました。自分の信仰に自信をもって、傲慢になり、自分で生きていけると思っていた。自分は完全、完璧だと思ってしまっていた者が、もう一度、自分の弱さ、欠点に気付き、イエス・キリストを必要としたのでした。

 

 私たちは嵐の中で、何を求めるのでしょうか。地震の時は、まず避難場所、食料、水を求めるのでしょうか。停電になれば、ローソクなどが必要になるかもしれません。住んでいた家が壊れてしまった場合は、仮設住宅を必要とするでしょう。他者との関係が破たんしてしまったときには、どうすればよいのでしょうか。その関係を回復するために、きちんと話し合うのが一番よいと思いますが、関係を回復することはとても難しいことでもあります。また、信じられないような事故や病気や、死に出会ったときはどうしていけばよいでしょうか。

 聖書は、何よりもまず「イエス・キリスト」を求めなさい、「主よ、助けてください」と祈りなさいと教えているのです。「嵐」の中で、前にも後ろにも行くことができなくなったときに、抜け出すための様々な方法を考えることも大切ですが、それよりもまず、「神」「主イエス」を求めなさい、「主よ、助けてください」と叫ぶことを教えているのです。

 

 この、嵐の中で救いを求める者の叫びを聞く時に、イエス様は、起き上がり、嵐を凪に静められたのです。「嵐」という、人間ではどうすることも出来ない困難が襲い掛かる中で、イエス・キリストは、その嵐を静められたのです。これが、主に助けを求めた者に与えられる恵みです。主イエス・キリストは、困難、苦しみの中にある者の叫びを聞いてくださいます。そしてその嵐を静めてくださるのです。

 

5:  共に生きる方

 この時、人々は、8:27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。】のです。私たちは、この問い、「この方はどういう方」なのだろうか、という問いに、どのように答えることができるでしょうか。

 ここでは、イエス様は人間の想像を超えた力で、嵐を静めてくださいました。しかし、イエス様は、どのような困難も、超自然的な力をもって、まるでテレビに出てくる、すべてを打ち砕く、いわゆるスーパーマンのような、ヒーロー的な救い主ではないのです。ドラマなどでは、特殊な能力を持った人間が、問題を解決していくというお話がたくさんあります。悪い人が次々に倒されていくようなお話は、確かに見ているととてもスカッとします。

 ただ、イエス・キリストがなされた人間の思いを超えた救いとは、そのようなものではないのです。イエス・キリストの救いとは、キリストが自らの命をかけてまで、人間である私たちを愛されたという行為によるのです。主イエス・キリストは私たちを愛し、私たちと共に生きて、そして、死んでくださった。そのことが表されたのが、十字架であり、復活という出来事なのです。イエス・キリストはそのような意味で「完全なる方」すべてを捨ててまで、隣人である私たちを愛された方なのです。イエス様は私たちと共に生きてくださるのです。私たちが本当に苦しい時、そこにイエス・キリストは共にいてくださるのです。どのような嵐の中にあっても、主は共にいてくださるのです。私たちにとって、最も苦しいことは、その苦しみ、痛みが理解されないということではないでしょうか。イエス・キリストは、私たちの心の奥底まで、すべてを知り、共に生きてくださる方です。主は、私たちと共に苦しみ、共に泣き、共に笑い、共に生きる方として、この世に来てくださったのです。 

 私たちが「嵐」に出会う中での、最大の救いの恵みは「主が共におられる」ということです。主は、同じ船の中にいて、同じ嵐の中にいてくださるのです。ただ、その中で、私たちがそのことを忘れてしまうとき、イエス様は眠ってしまっているのです。だからこそ、わたしたちが「助けてください」と叫べば、私たちが必要とすれば、そこに主は共にいてくださることに気が付くでしょう。そして、そのとき、嵐は静まるのです。私たちは、この共に生きてくださる救い主に、「助けてください」と叫びましょう。主は共に生きてくださっている。その恵みを受け取りたいと思います。(笠井元)