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2018.9.23 「繋げられてきた福音~『復活』~」(全文) Ⅰコリントの信徒への手紙15:50-58

1:  福音の中心 復活

 今日の箇所、51節において聖書は「わたしはあなたがたに神秘を告げます。」(51)と言います。神様の神秘。この神秘という言葉は、口語訳、新改訳では「奥義」と訳されていますが、神様の神秘、その奥義によってなされた一番の出来事は、イエス・キリストの復活です。この「復活」こそがキリスト教における福音の中心と言うことができるでしょう。神様はイエス・キリストを十字架につけられ、死に、そして三日後に復活なされたのです。このイエス・キリストの復活によって、神様は自らの愛を示し、愛に生きる新しい命を創造されたのです。

 このキリストの復活、新しい命の始まりの出来事を、キリスト教のすべての信徒が「福音」として宣べ伝えてきました。そしてこの東福岡教会の信仰の先達の方々もまた、この復活という愛の出来事を「福音」として受け取り、そして伝えてきたのです。これが神様からいただいた「主の業」です。聖書はこの「主の業に励みなさい」と教えます。今、私たちがいただき、伝えるべき福音もまた、このキリストの復活を中心とした、神様の神秘の業、愛の出来事です。この復活こそ福音の中心であり、私たちが伝えるべき事柄なのです。わたしたちはこの主の福音を宣べ伝える「主の業に励んでいきたい」と思います。

 

2:  復活の否定

 しかしまた、この福音の中心である「復活」は、キリスト教の歴史において何度も否定されてきた事柄でもあります。そしてそれは、今日のこの聖書が記された、コリントの教会においても起こっていたのです。当時のコリントの教会では復活を否定する考えが多数ありました。復活はある意味、一番人間の考えにおいて理解できない、人間の理解を超えた出来事でもあるでしょう。そして、「復活」とは、ただ人間が理解できないのではなく、実のところ人間は「必要としない」出来事だと言うことができるものだとも思うのです。 

 復活というと、この世においての理解では、一度この世に生きて、召された者が、もう一度生き返ることだと考えることが多いのです。このような理解の「復活は」できれば「必要」とするでしょう。しかし、キリスト教でいうところの復活とは、そのような、いわゆる「蘇生」のような出来事ではないのです。この世において、多くの人が求めているのは「永遠の命」です。そういう意味で、この世において死んだ者を生き返すことは、多くの人が求めている事なのです。わたしたちにとっても、この教会で召された、愛する兄弟姉妹がもう一度生き返ることがあれば、もう一度お話することができれば・・・と思うこともあるでしょう。しかし、そのようにただ時間的に命が長くなること、または「死」から戻って来ることは、キリスト教においての本当の意味での「復活」ではないのです。ただ時間的に命が長くなること、またはいわゆる「不老不死」を求めた行為、これは人間の歴史においても、この世の権力者の多くの者が求め続けている「生き続ける」ことです。それは今、自分がもっているものを手放すことができない、人間の弱さでもあるでしょう。多くの人間は、このような「永遠に生きること」または「年をとらないこと」などを求めているのです。

 しかし、キリスト教で言うところの「復活」とは、このようなものとは、まったく違うものなのです。キリスト教でいうところの「復活」とは、イエス・キリストに始まり、すでに召された者も、また今、生きている者も、同じように、主イエス・キリストが来られる時に、新しい者、朽ちることのない「愛」に満たされた者として新しく変えられる。神様による新しい命の創造、「愛」の完成の出来事なのです。

 

3:  復活の意味

 【「死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。】(15:54b~15:56)復活は「死」からの解放です。ここで言うところの「死」は、私たちがこの世において死ぬこと、召されることだけを言っているのではないのです。ここでは「死」は「罪」であり「罪は律法」だと言います。つまり、「罪」としての「死」からの解放が「復活」なのです。イエス・キリストの復活は、まさにこの罪からの解放、罪に勝利した出来事なのです。「復活」は神様の神秘、奥義の出来事です。神様は神秘の出来事として、イエス・キリストをこの世に送り、「罪」を打ち砕かれたのです。イエス・キリストは、この世において、罪人とされる者、だれからも目を向けられない者、悲しみのなかにある者、ひとり孤独に生きている者と共に生きたのです。そしてそのうえで「罪びと」として、十字架の上で死に、すべての人間の痛みを知る方となられたのです。そして、神様はこのイエス・キリストを復活されたのです。神様は、すべての人間の痛みを知り、すべての者と共に生きる方、イエス・キリストにより新しい命の創造、愛の完成をなされたのでした。神様は人間を愛された、人間を憐れみ、慈しんでくださったのです。

 

 神様は人間を愛された。そしてその人間、すべての者が愛に満ち溢れて、互いに愛し合い生きる道を「復活」という形で開かれたのです。そしてだからこそ、このキリスト教でいう「復活」は多くの人間には、受け入れられず必要とされないのです。多くの人間が求めていることは、神様に憐れまれ、愛され、共に愛し合い生きることではなく、自分だけを愛し、自分で生きていきたいように生きて、好き勝手に生きること。そしてそれが永遠に続くことを求めているのです。

 この当時のコリントの教会でも、復活は否定されたのです。そしてこの復活を否定した人々は、自分の命は自分のもので、自分勝手に生きる者となっていったのでした。 イエス・キリストによる復活。それはこのような自分勝手、自己中心の生き方からの解放の出来事です。イエス・キリストの復活によって、私たちに与えられたのは、この世において、神様が共におり、私たちを愛してくださっている。今、生きる、私たちの、この命において、神様がその存在を愛してくださっていることなのです。

 

4:  福音の業に励む

 【「15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」】(15:58)このイエス・キリストによる復活を宣べ伝えること、福音伝道の業は、この世において必要とされないのです。この世が求めるのは、権力であり、財産であり、そして何よりもただ自分だけのために長く生きること、自分だけが喜ぶこと、自分のためだけの喜びが求められるのです。これがこの世の現実です。

 しかし、神様が本当に私たちに与えてくださっているもの、それは神様の復活による愛、「他者、隣人を愛する心」なのです。

 今日は、召天者記念礼拝ですが、この教会において召されてきた方々が伝えてきた福音は、この神様の愛、復活による新しい命、新しい価値観なのです。聖書はこの「主の業に常に励みなさい」というのです。

 神様の愛。それはイエス・キリストによって示されました。それは十字架というへりくだりの行為であり、また復活という新しい命の創造、愛の出来事です。神様の愛をいただいて、生きること。そこには本当の愛に満ち溢れているのです。まず自分を愛し、そして他者を愛し、生きることを喜ぶ。その基として、神様が、私たちのために死んでくださり、そして甦り、新しい命を創られたのです。そして神様は今も私たちを愛し、共に生きてくださっている。これが神様の愛です。この神様の愛を喜んで生きる。そこに本当の喜び、新しい命の始まりがあるのです。

 この世において生きる限り、私たちは様々な壁、困難にぶつかり続けて生きていくのです。それは時に、私たち人間に絶望を与えるほどの困難となります。しかし、そのような時にこそ、私たちは神様の復活の愛を覚えたいと思うのです。神様は「死」に勝利された。それは私たちの絶望に対する、神様の勝利です。私たちは、この神様による復活の希望、愛を伝える「主の業に励みなさい」そして「この福音を繋げていきなさい」と言われているのです。それがどれほど苦しくても、それがどれほど他人の目からすれば無価値なものに見えても。 

 神様の復活という新しい命に生きること。その愛を伝えることは決して無意味ではないのです。 私たちは、これまで、この地において伝え続けられてきた神様の福音を、今一度、受け取りたいと思います。これまで多くの兄弟姉妹の信仰によってつなげられてきた福音伝道の業に、これからも励み続けていきましょう。(笠井元)