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2018.9.9 「賜物を生かし、用いる」(全文) マタイによる福音書25:14-30

 今朝は有名なタラントンの譬えを選びました。敬老の礼拝ですので、それに相応しい聖書個所を、と祈り求めておりましたが、この1か月ほど、このタラントの譬えが心に引っかかっておりました。今さら、ご高齢の皆様に「賜物を生かして、生きよ」というメッセージもどうかな、とは思いましたが、まあ、この譬え話に耳を傾けてみましょう。

 皆さんすでにご存じのように、「タレント」という言葉はこのタラントンの譬えに由来しています。英語の辞書を引くと、タレントとは生まれつきの才能、種々の才能、才能のある人を意味しています。皆さんは、どのようなタレントが好きでしょうか?福岡出身の博多華丸・大吉は毎日NHKの「アサイチ」に出演するようになりました。聖書は、「皆さんお一人お一人がタレントである。神様から賜物をいただいている」と言いますが、皆さんはそれをどのように聴きとるでしょうか。

 

1.譬えの文脈

 まず、この譬えが語られた文脈を考えてみましょう。マタイ25:1~13には、これも有名な10人のおとめの譬えが語られています。イエス様が再び来られ、救いを完成して下さるというる希望の中で、それがなかなか到来しない。花婿の到来を迎えるために夜の闇を照らす油を準備していた賢いおとめと準備を怠っていた愚かなおとめの譬えです。また、マタイ25:31~46はこれも有名な「最後の審判」の譬えです。ミケランジェロの描いたローマのヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」の天井画は2度ほど見たことがありますが、これもこの世の終わり、終末の出来事について語られたものです。つまり、タラントンの譬えも世の終わりを待望するという文脈の中に置かれているわけです。先日発表されたアンケート調査では「世の中うまくいっている」と考えている人が60%を超えているということですが、テレビを見ていると「終末」の恐怖を煽っている「世の終わり」を煽っているようにも思えます。あの「想定外」の津波と恐るべき原発事故以来、南海トラフ地震の予想や異常気象、「危険な暑さ」であるとか、「いまだ経験したことのない…」などの表現の仕方、そして北朝鮮の脅威など、世の終わりを煽って、国の役割の強化、戦争へ準備、コントロールの必要性を感じさせるような雰囲気づくりです。まさに、オウム真理教以来の終末論流行りです。そのような雰囲気の中で、60%以上が世の中、上手くいっている、現状を壊されたくないという思いが支配しているわけです。マタイ福音書が書かれた時代の雰囲気はどのようなものだったのでしょう。世の終わりどのように到来するとしても、到来しないとしても、私たちの人生は必ず死をもって終わります。これは全く確実なことです。そして、今までできたことができなくなる。老化現象の中で衰えていく。体も心も弱っていく「喪失体験」の連続です。そして、希望を見失い、生きることに落胆し、投げやりになることがありうる。そのような文脈の中でこの譬えを読み、聴くわけです。

 

2.財産を預ける

 いまここで働きつつある天の国、神の国はまた次のようにたとえられる。「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」。ある人が「自分の家を離れ、旅に出ている」。面白く、考えさせられる内容です。ある人が、今ここにはいない。この不在を人はどのように考えるでしょうか。ある人がここにはいない。だからその人は存在しない。神は目に見えないし、感覚で感じることも難しい。だから、神は存在しない。少なくとも多くの日本人はそう考えるでしょう。ヘブライ11:3には、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」とあります。信仰によらないとそれは分からないのです。私たちは自分で生きているのではなく、生かされている。私たちの「いのち」、「能力」は、見えない神から、「預かっている」のであり、決して、自分のものではありません。再びご自分の処に帰ってくるお方から預かっているのです。ここで、「僕たち」を呼んで、とありますが、通常、「奴隷たち」と翻訳される言葉です。人間は、自由な主体者でありますが、同時に、見えないものに支えられ、いのちを貸し与えられている僕に過ぎない。この両方を見ていないとおかしなことになるのです。今、ここに、生きる私たちは、「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」。そのような枠組みで理解できるというのです。私たちは、自分のものは自分のものだと言い張るでしょうか? そんな気持ちで生きているでしょうか? しかし、神の国に生きる人、神の国を求めて生きる人は、自分自身を主人から財産を預かっており、やがてそれらをお返しする僕であると理解するのです。

 

3.人間の中の差異

  「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、もう一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出た。」この世界の現実では、個人個人には歴然として違いがあります。決して「平等」ではありません。五タラントン預かった者と、二タラントン預かった者と、一タラントン預かった者がいる。そして、それぞれ、五タラントン、二タラントンを儲け、一タラントンの者はそれを土の中に隠しておいたのです。私が、高校生の頃、学校の教員の大部分は神の存在を信じない人たちでした。高校のクラス担任がクリスチャンになった私に吐き捨てるように言いました。「くだらない、このタラントンの譬えは、資本主義そのものだ。持っている人が益々豊かになる、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。怪しからん」というのです。そのように思う人にはルカによる福音書19:11~27の「ムナの譬え」をお勧めします。そこでは、10人が等しくそれぞれ1ムナを与えられたということになっています。たぶん、人には平等に与えられているもの、聖霊であるとか、一方的な赦しであるとか、そういうものと、他方、歴然と個性と言うか、差があるという現実の両面があるのです。担任の先生には、「イデオロギーや経済体制を超えて、人間には差異があるという現実は動かしがたい」と言っておきました。わたしたちは、この現実を受け留めることから目を逸らせてはならないのではないでしょうか?! いろいろ差異があるから面白いのではないでしょうか!

 

4.資本主義を超えるために

 しかし、自由競争、弱肉強食を主張する資本主義と、特に今日のむき出しの資本主義と聖書の教えとは大きなズレがあると言ってよいと思います。まず、タラントンを与えられていない人はいないということです。タラントンとは、金や銀の重さで、34キログラムです。9月3日現在、金1グラム4586円ですから、1タラントンは約1億5千万円ですか。銀で言えば、1グラムは54.84円ですから、187万円でしょうか。相当な金額です。「そんなものあるか」「自分には何もない」と思うかもしれませんが、あるんです。それぞれ、タラントンが与えられているというのです。自分の感覚と聖書の考えが違っていれば聖書の考えを受け入れましょう。「神様からタレント、預かりものをもらっていない人はいません」。第二に、タラントンを比較してはいけないということです。自分は2タラントンしかない、5タラントン持っている人が羨ましいというような比較はない。自分は5タラントンあるが、あいつは2タラントンだというように少ない者を見下したりしていないことです。譬えにはそのような比較は一言も書かれていません。タラントを比べて尊大になったり、自己卑下をすることはいけません。大体5タラントン与えられたら大変ですよ。5タラントン儲けなくてはならないのですから。いくら所有しているかは問題にならないのです。持っていることを誇っても仕方ない。問われるのは、与えられているものを発見して、生かし、用いることなのです。能力は賜物であって、自分のものではなく、神から貸し与えられているものです。ですから、自分の持ち物が多いとか少ないとか、それは問題ではありません。しかし、人間というものは、どうもそこに拘ってしまうのでしょう。すべての人が、たとえ超高齢になって、「何もない」と感じているとしても、賜物、タレントを与えられていること、それを他人と比べないことが、単なる競争主義のギスギスから解放される道であるということです。

 

5.タラントンを隠しておいた人

 実は、この譬えの中心は、1タラントンを預かり、失うことを恐れて地面を掘って隠しておいた人ではないかと思います。皆さんも気になるのはこの人のことでしょう。この人の言い分を聞いてみましょう。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からからかき集められる厳しい方であると知っていましたので、恐ろしくなり、出かけていって、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」。私は、伝道者、牧師としての経験から同じようなことを感じています。一生懸命祈り、労し、努力して、この人は信仰を決心するかも知れないと予想するのですが、なかなかうまくいかない。逆に、ふらっと教会に来られて信仰を決心される。あれ、自分が蒔かないところから、誰かが努力して蒔いたものを刈り取らせていただいている。手間暇かけて、浪費するほど誠意を込めて人と関わっても、実りがあるとは限らない。何も散らさない所、どこかで誰かが努力したものをかき集めさせていただいている。まことに感謝である。でも待てよ、それなら、「待ちぼうけ」の昔話のように「何もせんでよかろうもん。」ということになりはしないか!もし、神の愛が私の想いを超えて過剰に、豊かであれば、何もしない、却って失う危険があるのだから、タラントを隠しておこうか。ここに「怠け者の悪い」考えが忍び混んでくるのです。神の愛は過剰で、溢れるばかりに豊かなのだから、喜んで良い働きをしようというのではなく、神の愛は過剰で溢れるばかりに豊かなのだから、何もしないでおこう、ということになってしまうのです。人と比べ、与えられているものの少なさを嘆く心、得るよりも失うことを恐れる心には、過剰なほどの神の愛が歪んでみえるのです。恐ろしいことです。

 

6.付録

 そこで、今日は、大胆にも、イエス様の譬えにちょっと付け加えたいと思います。ある人は3タラントンを預かりました。その人はその3タラントンで商売をしたのですが、残念ながらその3タラントンを損してしまい一文なしになってしまいました。びくびくしながら御主人様の処に行きました。すると、その主人は、「そうか、人生それぞれ、失敗はつきもの。よくやった」と言いました。すると1タラントンを地に隠していたものが言いました。「そんなら自分もやれば良かった」。すると主人は言いました、「もう遅い」! これは、ユダヤ人の得意の「ミドラッシュ」という聖書の読み方です。

 私たちは自分の能力を他人と比べたて威張ったり、卑屈になったりしないで、与えられたものを生かしで生きること、それも少しでも他者のために、他者と共に生かして用いることが問われているのです。時間は無限に与えられているわけではありません。主人が帰ってくる喜びのときが、「しまった、おそ過ぎた」という後悔の時とならないように、歩んでいきましょう。(松見俊)