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2018.9.2 「キリストという土台」(全文) マタイによる福音書7:24-29

1:  山上の説教の言葉

 今日の箇所において、5章から始まった山上の説教が終わります。この箇所は山上の説教のまとめ、あとがきのような言葉となります。ここでは、「わたしのこれらの言葉を聞いて」・・・「行う者」「行わない者」としてお話をします。まず、これまでイエス様はどのような言葉を話してきたのか、もう一度振り返ってみてみたいと思います。

 山上の説教は、5章3節「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(5:3)という言葉から、8つの「祝福」の言葉が始まるのです。そして「あなたがたは地の塩、世の光である」(5:13-14)と続き、今年度の東福岡教会の主題聖句でもある「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」(5:16)と続くのです。そしてイエス様はこのように続けられるのです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)この「律法の完成」が山上の説教の中心メッセージだと言ってよいでしょう。 

 そして、ここからイエス様は「あなたがたも聞いているとおり・・・これまでの律法ではこのように教えていた・・・しかし、わたしは言っておく・・・」という形の言葉で、これまでの教えに対比させて「律法」の本質を語られていくのです。

 そして、6章では「偽善者とならないように」と教え、その中で「主の祈り」を教えられます。「偽善者」。それは神様を第一に「主の御心を求める」のではなく、自分を一番にしている者です。そして言われたのが「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(6:33)と教えられました。そして最後に、7章で「7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(7:12)と教えました。ここに律法の完成としての言葉を締めくくられるのです。

 

2:  どこに家を建てるか

 これら山上の説教の言葉を語られて、最後の言葉として、今日の言葉があります。今日の言葉では「わたしのこれらの言葉を聞いて」・・・「行う者」と「行わない者」とを、「家を建てること」に例えて教えられるのです。ここでは、どちらの人も「家を建てる」のです。主の言葉を聞いて、その言葉に従う者も、従わない者も家を建てるのです。

 だれでも家を建てる。私たちはだれでも何かしらを行っているのです。日々の生活、その営みの中で、何もしない人間はいないのです。寝て、起きて、ご飯を食べ、遊んだり、勉強をして、仕事や家事をし、本を読んだり、昼寝をしたり・・・自分は何もしていないと思っていても、何かを行っています。それが良いことであれ、間違ったことであれ、だれかのためにとって素敵なことかもしれなければ、どうでもよいことかもしれないし、あまり人にとってよくないことかもしれない。それが何であれ、私たち人間は生きている限り、何かしらを行っているのです。そして、ここで問題とされているのは、そこで、何かをすることによって、どのような家を建てたかではなく、どこに建てたかが問われているのです。もし、どのような家を建てたかが問われているとすれば、それはまさに律法主義、私たちが、どれだけの行いをしてきたかが問われることになるのです。

 

 以前、わたしがまだ北海道にいたとき、私のところに「自分はなにもできない」「自分にも自信がない」そして、「こんな何もできない自分には生きている価値、生きている意味があるのだろうか」と相談に来られた方がいました。その人は「何もできない」ということから、学校でいじめられ、家族からも見放され、「自分の存在意義」、「アイデンティティ」を見失っていたのです。「何かをすることができない」ということから、周りの人からはその存在を否定され、自分自身も自分が生きていることを喜ぶことができなくなっていたのです。わたし自身、「自分の存在意義」、「アイデンティティ」を見失ったことはなんどもありました。みなさんも、「自分の存在意義」、「わたしは何のためにいきているのか」と悩んだことは何度もあるのではないでしょうか。

 その時は、私は・・・「あなたは、どのような人間になりたいですか。」「何かいろいろなことができるようになったとして、頭が良くなり、お金持ちになり、みんなから尊敬されるようになったとして」・・・「そのうえで、あなたはどのように生きていきたいのですか」と聞いてみました。

 そして「あなたは自分が力を得たとして、今、自分をいじめてくるような人になりたいのでしょうか。自分のため、他者を見下して生きることを求めているのですか。」と聞いてみましたが、その人は「自分のためだけに生きて、誰かをいじめて生きていくようにはなりたくない」と言うのです。

 この人は、自分自身に自信を失っていましたが、「隣人を憎んでいる」のではなく「他人を思う気持ち」を失っていませんでした。今日の聖書の話で言えば、この人は「豪華な家」「素晴らしい家」を建てなければいけないと思っていたのです。「豪華な家」を建てることが「生きている意味」だと思っていたのです。しかし、イエス様は「他者の土地を荒らして、他者から奪い取り、そのうえで豪華な家、素晴らしい家」を建てることを求めてはいないのです。そうではなく「家」を「どこに建てるか」を問われているのです。

 

 イエス様の言葉を聞いて、行う者となるのか、それとも行わない者となるのか。それは、イエス・キリストを土台とするのか、それとも、自分を土台とするのかということです。そしてそれは「他者を思い、他者と共に生きるのか」、それとも「自分のためだけに生きるのか」ということにつながるのです。

 人間は誰もが変わることなく弱さを持っています。ある意味これは人間の一つの共通点です。どれほど素晴らしく生きた人であったとしても、お金持ちでも、権力者でも、貧しい者でも、凶悪な犯罪者でも、だれでも、人間は変わることなく、完全な人間にはなれません。私たち人間は、自分の努力を重ねて「すばらしいお家」を建てたとしても、「土台から作ること」はできないということです。土台がしっかりしていなければ、その家は簡単に崩れ去ってしまうのです。

 ここで問われているのは、そのようなこと、自分が「何ができるか」、「何をするか」、「何をしてきたか」ではないのです。そうではなく、どこに家を建てたか、つまり、「どこに立って生きているか」が問われているのです。神様は、私たちがどこに立って生きているのかを見ておられるのです。

 

3:  どちらにも訪れる危機

 そして、もう一つ覚えておきたいこととして、この家を建てる者、それがどこに建てていようとも、必ず「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲う」と教えられているのです。ここでは例えとして語られていることですが・・・最近では本当に大きな自然災害が起こっています。また新しい台風が近づいているようですが、「雨がふり」「川があふれる」という大きな災害が何度も繰り返し起こっているのです。現在、日本では、多くの災害が起こっています。毎日を普通に暮らしていた。これからもその生活が続くと思っていた。それなのに、一日の大きな雨や地震、台風などによって、その生活が奪われているのです。そして、その災害にあった人が特別何か悪いことをしたのでもないのです。だれもが、その災害に遭う可能性があるのです。どこにいても、私たちは突然の災害によって、これまでの生活を失う可能性があるのです。この自然災害にあった、あわなかったということ、無事だったとか、被害を受けた、受けなかったということは、今日の箇所から「賢かった」とか「愚かであった」と簡単に結びつけるものではないのでしょう。 私たちは、災害に遭った者も、今は普通に生活をしている者であっても、それが「賢い」とか「愚か」というのではなく、誰もがその可能性を持つのです。

 今日の箇所では、どこに家を建てたとしても、「必ず雨は降り、川が溢れ、風が吹いて、家を襲う」と、私たちの知恵や知識を超えた出来事が起こることを教えているのです。ここから私たちは、この世界の自然の力の大きさ、そして人間の力の小ささを教えられます。私たちの人生において、だれにでも、人間の思いを超えた危機が訪れるのです。それが何かはわかりませんが、「事故」「病気」「災害」そして、最後には「死」と、私たちは必ず人生の危機に立たされるのです。

 

 7月の青年会でお話をした、お話の一部ですが・・・すこしお話したいと思います。ある母子家庭のお家で育った人が、その愛する母親の死を受けて、生きる希望を失ったのでした。この人は、母の死に出会い人生の危機にぶつかったのでした。そしてその絶望感から、自らも命を断とうと、電車に身を投げたのです。そのときは一命をとりとめたのですが、ただ、左腕、両足を切断することになり、残されたのは三本の指だけだったのです。ただ、その後、最初は「たった三本の指しかない」という思いであったのですが、宣教師やクリスチャンの方との出会いから「神様が三本の指を残してくれた」「神様のために生きていこう」と思うようになるようになっていったのでした。

 このお話から、この人は人生の危機において、一度倒れかけた、むしろもう「倒れてしまった」と言ってよいでしょう。人生の危機において、倒れたはずだった。しかしその人生の危機の出来事を通して、自分の人生において据えるべき本当の土台、「神様のために生きる」という土台を見出していったのでした。

 わたしたちは、必ず、すべての者に、何かしらの人生の危機が訪れます。そして、この危機に直面するときに、私たちは本当のところで、何を土台として生きているのかが問われるのです。

 

4:  キリストという土台

 今日のこの箇所においては、この土台に「イエス・キリストの言葉」そしてそれは「イエス・キリストご自身」を据えるように教えているのです。「主の言葉を聞いて行う者」。それは、何かができる者、何かをすることではなく、イエス・キリストを土台として生きる者を意味しているのです。イエス・キリストは、神の子として、この世に来てくださったのです。「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16-17)

 神様は、この世にイエス・キリストを送ってくださいました。それは、この世を愛し、そして、私たち一人ひとりを愛し、私たち人間が喜んで生きるための土台として、イエス・キリストをこの世に来てくださったのです。イエス・キリストがこの世に来られ、神の愛という土台となられたことによって、私たちは、揺るぐことのない、神様の愛の土台をいただいたことのです。この土台をつくられたのは、私たちの行為には関係ないのです。ただ、神様の一方的な愛によって、私たちにイエス・キリストという愛の土台が与えられたのです。

 

 そのうえで、私たちに問われているのは、このイエス・キリストを土台としていくか、それとも別の何かを土台とするかということが問われているのです。イエス・キリストを土台とすること。それは絶望の中にあって、共に生きてくださる方がおられることです。

 先ほどの話で言えば、最初は「母の死」に対して、人間の力の無力さから自暴自棄になり、自殺を図った。それは「自分を土台」として、自分の力の無さから絶望した生き方なのです。しかし「たった三本の指しか残っていない」と思うのではなく、「神様が三本の指を残してくださった」「神様がここに愛を示された」と受け取り信じるときに、「イエス・キリストを土台」という希望を見出していくのです。

 イエス・キリストを土台として生きること、それは私たちがイエス・キリストを土台とするのではなく、すでに土台となってくださっている、その方を受け入れることなのです。イエス・キリストを土台とする時、私たちの生き方は変えられていくのです。イエスを土台として変えられていく。それはただ、人格的に優れた者となるのでもなく、素敵な人間になれるということでもありません。イエス・キリストを土台とするときに、私たちはただただ、これまで「自分のためだけに生きてきた人生」が「神様のために生きる人生」「隣人のために生きる人生」に変えられるのです。

 

5:  何のために生きるのか

 イエス・キリストを土台としていくとき、それは「自分のためだけに生きる」ことからの解放を与えられるのです。私たちは何かを土台として生きているのです。「自分のためだけに生きる」ことは、とても自由で、とても素敵に見えて、本当はとても苦しく、囚われている状態なのです。自分の権威、財産、地位ばかりを求め続ける生き方、それはとても苦しいものなのではないのでしょうか。そして本当のところは誰もがそれを知りながら、それ以外に「何のため」に生きればよいのかがわからないのです。時にそれが「家族」「友人」「趣味」などにすることで、生きる意味をごまかすことはできたとしても、それは一時的なことで、結局「自分のため」とあまり変わることはないのです。

 私たちが本当の自由に生きる、その解放は、ただイエス・キリストを土台として、神様のために生きることにあるのです。「11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

 イエス様は「わたしのくびきを負いなさい」と言われます。イエス様は「くびき」がなくなるとは言っているのではなく「イエス様の与えられるくびきは負いやすい」と言っているのです。わたしたちは、何かのため、何かを背負い、何かに囚われて、生きていく。山上の説教では、それを「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(6:33)と教えました。主イエス・キリストは、私たちを愛し、私たちの土台となってくださいました。私たちはこのイエス・キリストという神様の愛を土台として生きていきましょう。そこに本当の希望が与えられるのです。神様からの愛をいただくという決断をもって生きていきたいと思います。(笠井元)