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2018.8.5 「平和をつくりだす」(全文) マタイによる福音書5:9

 今月は8月、第二次世界大戦が終わった月、「敗戦記念日」の月になります。この時に、私たちは、共に聖書から、「平和」について考えていきたいと思います。

 

1:  世界は敵意に満ちている

 毎年、この8月になりますと、テレビでは第二次世界大戦の特集が組まれ、悲惨な戦争を繰り返さないようにとの、メッセージが流されます。ちなみに、この敗戦記念日は、アジア諸国にとっては、「解放記念日」となっています。第二次世界大戦が終わり、そこから世界は、どれだけ平和に向かってきたのでしょうか。悲しく悲惨な、戦争という出来事が終わり、そこから今73年がたちました。この73年の間に、私たち人間は、どれほど平和を求め、平和に向かい生きてきたのでしょうか。現在の世界を見てみますと、この世界は今も変わることなく、敵意に満ちており、そこに悲しみと痛みを生み出しているのではないでしょうか。 

 「敵意」とは、相手を傷つけることではなく、相手を傷つけようと思う、その心のことを言います。「誰かを傷つけ、害を与えよう」とする、その心を「敵意」と言うのです。そして、この「敵意」が集まり、行動を起こす時、「敵意」を持った集団が歩きはじめる時に、そこに「傷つけあい」「戦争」「テロ」が起こっていくのです。 

 聖書で、イエス様はこのように言われました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(5:21-22)イエス様は、「これまでは「殺すな」と行動を止めるように言われている。しかし「兄弟に腹を立てる者」、つまり「敵意」を持つこと、そこにすでに「殺すこと」の始まりがあることを教えられているのです。ここでは「兄弟に」と言われているのですが、この「兄弟」は教会の兄弟姉妹としても読み取ることも出来るでしょうし、現実の家族、兄弟としても読み取ることができるでしょう。実際、世界においては、「家族間、兄弟間」の敵意、ケンカが、大きな戦争に発展していったという例が沢山あるのです。

 聖書においても、家族間でありながら敵意を持ち、怒り、殺してしまったという場面があります。最初に出てきた、アダムとエバの子ども、カインとアベルにおいても、カインはアベルに嫉妬し、アベルを殺してしまいました。またアブラハムの孫にあたる「エサウ」と「ヤコブ」という双子においても、ヤコブが長子の権利を奪い取ったことから、エサウは怒り、ヤコブを殺そうと考えました。また、こちらは親子関係ですが、ダビデ王とその息子アブサロムも、ダビデはアブサロムを愛していたとありますが、それでもアブサロムはダビデに反旗を翻し、結局アブサロムが殺されることになります。

 このように見てみますと、聖書の中には、「敵意」が満ち溢れており、そして「嫉妬」「怒り」「殺し」の記事がたくさん記されているのです。聖書には、ただ聖なる書物として良いことばかり書いているのではないのです。人間のうちに、この世界には「敵意が満ちている」。聖書はこの現実に、目をそらすことなく記し、そのような者がどのように生きるべきかを、教えているのです。

 私たちの生きているこの世界は「敵意」で満ちている。「怒り」「裏切り」「権威争い」「どちらが正しいのか」といった、争い、敵意にこの世は満ちている。そして聖書はそのことを記し、教えているのです。

 

2:  平和 日々の生活を保つ?

 この世は敵意に満ちている。その中にあって、今日の聖書はこのように言うのです。「5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」「平和を実現する」。口語訳では「平和をつくりだす」と言います。この敵意に満ちた世の中にあって、「平和をつくりだすように」神様は望まれているのです。

 では、平和とはどのような状態のことをいうのでしょうか。小学校などでは平和教育という教育が行われています。以前、知り合いの子どもが、平和教育を学んできた後に話した言葉が、とても印象的でした。「平和は、今、自分が普通に生きて、普通に生活ができていることなのかな。今のこの生活、ご飯を食べることができること、寝るところがあること、家族と仲良くできること、勉強したり、テレビをみたり、遊んだり、その普通のことを感謝しないとね。」「戦争」や「災害」に出会った人々の言葉を聞いて、今、生きている、この日常の生活の大切さを学んだようです。

 わたしは、この子どもの言葉を聞いて、とても感動しました。そして、私自身も、もう一度、今、与えられている、命、生活を大切にし、喜ぶことに気付かされたのです。今、生きている、そこにすでに大きな恵みがあるのです。

 

 ただ、今回のこの神様の御言葉から説教を考えて、学んでいく中で、「本当にそれだけでいいのだろうか」という思いが与えられました。今の日常が守られ、保たれること、「それだけでよいのだろうか」という疑問です。日々の生活、普通の日々、当たり前のようにご飯をたべ、寝て、笑い、遊ぶ。このような当たり前の出来事が守られることはもちろん大切なことだと思うのです。しかし、今、この世界において、自分が喜んでいるとき、別の場所で悲しんでいる人がいるのです。日本では、今は、戦争は起こってはいません。しかし、今も現実に多くの場所で殺し合いが起こっているのです。また、日本において戦争がないといっても、それは、権力や軍事力、経済力といった重圧で他者、他国を押し付け、戦争という出来事が起こっていないだけなのです。それこそ日本は、経済力を盾に、多くの人々の気持ちや痛みを踏みつぶして、そのうえで自分たちの生活を守っているのではないのではないかと、考えさせられるのです。

 また、現在では「積極的な防衛」として軍事力を整えること、そして危険があれば、こちらからその危険を取り除く。簡単に言えば、自分たちを守るために戦争を行うことも必要だとしているのです。

 まったくそんなつもりはなくても、私たちは、自分の日々の普通の生活が、多くの人々の苦しみや痛みの上に成り立っていることを覚えていかなければならない。私たちが、日々の生活を守ろうと、自分が被害者にならないように、どうにか頑張って生きる中で、私たちはいつの間にか、加害者になってはいないだろうか。戦争や殺し合いはしていなくても、自分の「したいことをする」ために、普通にご飯を食べ、寝て、遊び、笑い生きていくために、私たちは、他者を傷つけ、その生活を奪い取り、多くの人々の喜びや笑いを奪い取っているのではないのか。考えさせられるのです。

 

3:  平和をつくりだす

 今日の聖書は「5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(5:9)「平和を実現する」「平和をつくりだす」ように教えられているのです。神様が求められていることは、「今の自分の生活を守る」だけではなく、もっともっと積極的に「平和をつくりだす」ことなのです。「平和をつくりだす」ことは、今の生活を守るため、自分の喜びが続くように、というだけではないのです。神様の言葉「平和をつくりだす」とはもっと積極的で、具体的に、何かをしなければならないことを教えているのです。私たちは、隣の家で何が起こっているのか、隣の国で、そしてこの世界で何が起こっているのか、まったく知らずに、ただ自分が普通に生きていれば、それでよいと言うことができるのでしょうか。平和をつくりだす。つくりだす。実現するということは、もっと積極的なこと、それは他者とのかかわりの中につくりだされることなのです。自分が平和でいたい。だからといって、そのために、誰かを傷つけていては、それは本当の平和ではないでしょう。神様は、わたしを愛し、また、隣人を愛し、そしてすべての人間に何の差もなく、同じように、愛してくださっているのです。その神様の求める「平和」は、すべての人間が喜び、幸せになることなのです。

 

4:  イエス・キリストによってつくりだされる 平和

 神様は、私たちが共に生きて、共に平和を喜んで受け取ることができるようになるために、この世に自ら来られました。神が人間イエスとしてこの世に来られたのです。神様のなされた出来事は、自らの力で、相手をねじ伏せよう、押さえつけよう、相手を言い聞かせようという行為ではありませんでした。この世に「平和」が来てほしい。平和をつくりたい。すべての人間が喜んで生きてほしい。その願いの実現のために、神様は自らが弱い者となり、仕える者となり、自らが小さい者となられたのでした。イエス様がこの世にこられたということ。それは神様が、私たちのところまできてくださり、顔と顔を合わせて、共に生きることを実現されたということです。神様からすれば、私たちは、弱く小さく、そして間違いだらけの罪ある者です。しかし、神様はそのような者と向き合い、その心の闇を担い、心の痛みを背負い、また暗闇の心を赦して、共に生きる道を選んでくださったのです。神様は、人間に歩み寄ってくださった、私たちのことを知ってくださった。そして積極的に、平和を実現されたのです。これが神様の示された「平和をつくる道」です。「5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(5:9)

 平和を実現するために、この神様のつくりだされた平和の道を歩き出すこと、そこに神の子と呼ばれる道が開かれていくのです。

 

 神様は、私たちと向き合ってくださっています。私たちは、この神様の開かれた道を歩いて行きたいと思うのです。そしてそれはこの世にあふれている「敵意」の中で、お互いに「ばか」と言い合うことから、「大好きだよ」と言い合うことへと、変えられていくことから始まっていくと思うのです。私たちは、だれかと共に生きる中で、ケンカや悪いことをされて、「相手を赦すことができない」という感情が生まれるのは当たり前だと思うのです。「赦せない」「受け入れたくない」「関係を断ち切りたい」。そのように思う中で、生まれているのは「敵意」なのです。イエス・キリストは、その「敵意」を打ち砕くために、この世に来られたのです。

 エフェソ2:14-16

 「2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

 

 イエス・キリストは、その十字架の出来事を通して、罪なき者である自らが手を差し伸べてくださったのです。そして、そこに敵意を滅ぼし、平和を実現されたのです。これが私たちに開かれた平和を実現する道です。 わたしたちは、「敵意」「怒り」「憎しみ」を心に抱く時、今一度、自分に与えられている神様の愛、十字架の出来事に立ち返りたいと思います。そしてその十字架という良い知らせ、福音を受け取り、「平和をつくりだす道」を歩き出していきたいと思います。

 そのためには、まず、わたしたちは「自分だけ」という思いから、「隣の人と共に生きる」という思いに変えていく必要があるでしょう。そして、それは隣の人を知ること、今何を考えていて、何に困っているのか。何を必要としていて、どんなことに悲しんでいるのか。またどんなことによろこんでいるのか。その隣の人のことを知るということ、関係をつなげていくこと、そのために他者と向き合い、他者に仕えて生きていくことが必要なのです。イエス様は、私たちの事を知り、私たちを赦し、私たちに仕え生きられました。私たちはこのイエス・キリストに従い、お互いに心から向き合い、時に傷つけ合い、時に間違ったことをしながら、それでも手を取り合い、共に生きる、そのような道を歩いて行きたいと思います。(笠井元)