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2018.7.29 「主イエスの処に戻ってくる」(全文) ルカによる福音書17:11-25

 物語の中心は、らい病を患っている十人の人がおり、「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」という出来事です。これはもう現在の世界的な現実であると思いますが、クリスチャンになることも困難ですが、クリスチャンであり続ける、教会に集い、礼拝者であり続けることはもっと困難なことであると思います。そのような現実、葛藤を踏まえて、今朝は、「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」という言葉に焦点を当てて、テキストを味わってみたいと思います。

 

1.サマリヤとガリラヤの間を通られた

 今日の物語は、「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリヤとガリラヤとの間を通られた」という導入で始まります。みなさん、たぶんご承知のように、エルサレムに行くにはサマリヤを通るのが早道ではあるのですが、ユダヤ人とサマリヤ人は、ある歴史的、宗教的、文化的相違から対立関係にありました。福岡から北九州にいくのに、飯塚のほうから北九州に入ろうとしたようなものでしょうか。「サマリヤとガリラヤとの間」という微妙な表現が使われています。「ディア メゾン」というギリシヤ語の「メゾン」は「メゾソプラノ」という表現が現代でも用いられているように、まさにある領域とある領域の中間という意味です。ある文化人類学者は社会の変化は、ある文化の中心からではなく、周辺にいる人たち、周辺に追いやられた人たちから起こると言います。教会もそうかも知れません。新しく教会に来られた人やどこか周辺にいる人たちから新しい風が吹いてくるのです。そもそもユダヤ社会にあって、イエス様が活動されたガリラヤも周辺化された地域であり、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われたくらいでした。こうして、「イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた」という表現からして、何か波乱というか、私たちに問いかけるものがあるのだと思います。

 

2.彼らは遠くの方で立ちとどまり

 物語は、畳み掛けるようにして、「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま」と言います。昨今、ハンセン氏病の人だけではありませんが いわゆる優生保護法で避妊手術を強要されたこと、その事実の認定と賠償の問題がニュースとなっています。彼らは病気以上に、家族や友人たちから差別され、隔離され、家族から縁を切られ、見放された経験をしたわけです。聖書でいう「レプラ」はハンセン氏病を意味してはいるのですが「らい病」ということで差別をしてきた経緯もあり、また、もっと広がりのある病気であるということで、新共同訳では最近では「重い皮膚病」と翻訳しています。レプラは非常に感染力の弱い病気ですが、つい最近の日本社会でもそうですが、聖書の世界では、彼らもまた隔離されていたのです。その悲しみ、痛みが、イエスに近づきたくとも近づけない、彼らは「遠くの方で立ちどまったまま、声を張り上げて」という表現の中に語られているわけです。また、「声を張り上げた」という表現の中に彼らの必死の想いが表現されています。私たちにとっては、先立つ一方的な恵みによってイエス様との距離はとても近いのですが、私たちにはひょっとして、主の憐れみを求めるという必死さが少々欠けているのかも知れません。「キリエ エレイソン」(主よ、憐れみ給え)という讃美歌があります。改革派教会では毎週この「キリエ エレイソン」を歌う伝統があり、また、ある改革派では毎週歌わなくても良いのじゃないかという議論もあるくらいですが、十人は声を張り上げて、「主よ、憐れんで下さい」と叫んだのでした。もっともここでは、「主よ」は、「キュリエ」ではなく、「エピスタタ」が用いられておりますが、それはともあれ、わたしたちには、「憐れみたまえ」という必死さが多少欠けていないか反省させられます。ハンセン氏病を患っているとは言え、自分たちも憐れんで下さい。まさに人の憐れみが期待できないその処で、主イエスを通して神に頼り、憐れにすがることしかできない彼らでありました。

 

3.イエスは彼らを見られた

 彼らの、遠くからの叫びに対して、聖書は、「イエスは重い皮膚病を患っている人たちをみて」と言います。たぶん面倒に関わりたくなければ、目を背けることもできたし、見て見ないふりをすることもできたことでしょう。いや、それが私たちの姿かも知れません。しかし、イエスは彼らを見ながら、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。これは、「自分は知らないよ、祭司の処に行きなさい」といういわゆる患者の「たらい回し」の言葉ではありません。当時、重い皮膚病の癒しの見極めと社会復帰は祭司の判断でしたから、この言葉はこのまま、「もうあなたがたは清い、癒されたのだ。社会復帰の手続きとして祭司の所に行きなさい」という救いの宣言でした。遠藤周作の小説の中に主人公がハンセン氏病の、確か瀬戸内海の岡山の長島愛生園でしたか、高松の大島青松園でしたかを訪問して、ハンセン氏病患者と野球をやる場面が登場します。主人公はヒットを打つのですが、二塁ベースに滑り込もうとしてちょっと躊躇する。するとハンセン氏病の方が「大丈夫、タッチしませんから」という場面がありました。人間だれしもハンセン氏病患者に接触することに躊躇してしまう弱さを持っていることを遠藤は語るわけです。「イエスは彼らを見て、言われた」という表現の中に、決して、見て見ぬふりをしない、目を背けない、十字架の死に至る道、エルサレムに行かれる主イエスの道行の有り様が描かれているのです。イエスは彼らをしっかり見られたのです。

 

4.戻ってきたのは、一人であった

 さて、物語はさらに展開します。そしてここに焦点を当てたいと申しあげました。十人それぞれが清められ、癒されたのですが、癒されてイエスの処に戻ってきたのは十人の内、一人であり、しかもユダヤ人が敵対し、差別していたサマリヤ人であったというのです。直訳すると、「大きな声で(メタ フォーネス メガレース)、つまり、メガ・フォーンで神を賛美しながら、戻ってきて、イエスに感謝しながらイエスの足に彼の顔をつけるようにひれ伏した」です。私は、これは、礼拝を意味していると解釈しています。「ドクサゾー 賛美する」、「ユーカリストー 感謝をささげる」という表現も共に礼拝用語であるからです。私たちはイエスの元に戻ってきて、感謝し、賛美をするでしょうか。確かに思い皮膚病が清められ、癒されることは嬉しいことでした。しかし、イエスご自身が救い主なのです。イエス様との関係の中に留まること、「神を賛美しながら戻ってくること、イエス様との生きた関係に生きること、それが本来の救いではないでしょうか。

 

5.主イエスの嘆き

 「清くされたのは、十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか」。これはイエス様の欠乏感、喪失感、嘆きではないでしょうか?「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」。これは、イエスの嘆きであると言えば言いすぎであれば、これは、当時のルカの教会、そして、今日の教会の嘆きに通じるのではないでしょうか? あるいは、もっと厳しく言えば、教会で礼拝しているクリスチャンたちよ、本当の礼拝者、それは私たちの目には見えないけれど、イエスの元にひれ伏しているのは、あなたがたではなく、あなたがたがサマリヤ人であると言って目を背けているあの人である!というチャレンジでしょうか?恐ろしい警告の物語です。それぞれが、この主イエスの欠乏感、喪失感、嘆き、あるいは、少なくとも一人は戻ってきたという喜びをどのように聴くでしょうか? 「あなたの信仰があなたを救った」という御声をだれが聞くでしょうか? どのように聴くとしても、大切なことは、救いはイエスのもとにあり、イエスとの関係性の中にあることに気づくことです。それを私たちは喜び、感謝し、賛美したいものです。それがなかなか難しい課題であると考えていますので、あえて、主イエスの欠乏感、喪失感、嘆きの言葉として、「ほかの九人は、どこにいるのか」を理解したいと思います。あるいは、「神を賛美するために戻って来た者は、この外国人のほかにはいないのか」を私たちキリスト者へのチャレンジとして聞き取りたいと思います。

 

6.立ち上がって、行きなさい

 最後に「立ち上がって行きなさい」という呼びかけに耳を傾けてみましょう。救いはイエスの元にある、イエスの元に戻ることが礼拝であるという理解は、教会にとって、特に、牧師の視点としては重要であると思います。教会は神礼拝のために集められた者たち、そのために呼び出された者たちだからです。主日礼拝はある意味で「戻ってくる」(ヒュポステレフォー 15節、18節)ことです。

 しかし、教会はまた世界に散らされていきます。礼拝すること、神に仕えること、隣人に仕えること、愛されている自分を大切にすることは、日常生活を含めた全生活の中でなされることです。主は、戻ってきた、帰ってきた人に、信仰によって「行くこと」を命じます。私たちは、集められ、散らされていく、目に見える世の光としての群れとなり、見に見えない地の塩として生きるリズムの中で生活することが重要です。一方で、礼拝とは生活全体における神への奉仕ですが、それだけではこの世界に埋没してしまでしょう。他方、「あなたの信仰があなたを救った」という声を聴き、「立ち上がり、行くこと」が重要です。そうでなければキリスト者はこの世から遊離してしまいます。主日礼拝に集まり、そこから散らされて、それぞれの使命を果たさなければ、教会とその信仰は自分たちの中に閉塞してしまうでしょう。教会と教会の礼拝がイエス様を独占しているわけではありません。私が牧師をしていた栗ヶ沢教会に転会してこられた他教派の女性の祈りに、「イエス様、ここから出て行き、一人一人に行き巡って下さい」と祈る方がおりました。この祈りで教えられ、考えさせられました。牧師をしていますと、つい礼拝に来る人しか見えなくなる危険があり、一人一人がどのような想いで、どのような苦労で礼拝に来られるのか想う感受性が弱くなる一種の職業病に陥ります。「行け」というこのイエス様の言葉と共に、主イエスご自身が出かけていかれるのです。特に、超高齢社会で、礼拝に来ることができない方も増えています。礼拝に来ることだけが強調されるとかえって傷つき、痛んでみまうこともあるでしょう。その意味で、私は、礼拝の最後の祝祷は派遣の祈りであり、礼拝の終わりは、それぞれの持ち場に生きることの開始であると考えています。そして、たぶん、主イエスも共に「行って下さる」のです。 あのゲッセマネの祈りが終わった時の主イエス様の言葉は「立て、行こう」でした。(マルコ14:42、参照ヨハネ14:31)東福岡教会に集う皆さんは礼拝へと集められ、ここから散らされていくことを喜ぶような信仰者になってほしいと思います。主日礼拝に来られない方が、イエス様と共に本当の礼拝をしているかも知れないことを恐れる者でありたいと思います。(松見俊)