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2018.7.8 「キリストに捕えられて進む」(全文) フィリピの信徒への手紙3:12-16

 「完全」という言葉で皆さんは何を考えるでしょうか?『広辞苑』という辞書では「すべてそなわっていて、足りないところのないこと、欠点のないこと」を意味しています。この世に存在するものでは、円(丸)や(地球のような)球体をイメージするでしょうか。あるいは円運動ということで「ろくろ」がイメージされます。粘土で完璧な左右対称というか美しいかたちを造るわけです。皆さんの中に陶器を焼いている方がおりますが、とても美しい湯飲茶碗をいただきました。どうも、フィリピ教会の中で、「すでに得た」とか、「すでに完全な者となっている」と主張する信徒、あるいは指導者たちがいたようです。今日では、そのように主張する人はあまりいないかも知れない。かつて、私が東京の大学生時代、ミッションスクールの「東京女子学院」の卒業生の女性が、学校で習ったキリスト教で、キリスト教のくだらなさを知っていると豪語する人がいました。そのようなことを言う声が聞こえてきました。聞き捨てならないということで、「キリスト教について何か問題があれば、屋上へ来なさい。私が毎日、そこで、聖書の話をしているから」と言いました。1970年代前後の学生運動もどこか完全なものを求めて、既存のものを全部批判・否定してしまい、結局挫折してしまったような気がしています。神学部の同級生で全盲の田中聞多さんという人がおりました。、彼は学生たちの徹底的な反対運動に直面して、ヘブライ語の伝道の書(コヘレトの言葉)7:16の言葉を引用してくれました。「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか」。盲目という大きなハンディキャップのある方でしたが、味のある聖書個所を引くものだとつくづく感心しました。当時は正義が肩をいからせ、風を切って闊歩するような、そんな雰囲気であったのでしょう。自分が完全であると主張する人は、東福岡教会にはいないと思いますが、「信仰ってこんなもんだ」と考えがちな人は私を含めて、信仰歴何十年という信徒たちは問題であるかもしれません。今日はクリスチャンの「完全」とはどのようなものかに焦点を当てて聖書テキストを味わってみましょう。

 

1.フィリピ教会で「完全」であることを誇る人たちがいた!?

 パウロは、12節で、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とか捕えようと努めているのです」と言います。パウロは、「自分は違う」というのですが、どうもフィリピの教会の信徒たちあるいは指導者たちの中に、自分たちはクリスチャンになって、もう「完全だ」と主張する人たちがいたようです。15節でも、「だからわたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです」と言い、「完全」という言葉が登場します。この言葉は「目的」あるいは「目標」(telos)という言葉から由来しておりまして、完全というのは目的・目標に到達している状態を意味しています。ある意味でクリスチャンは人生の目的・目標である神様、神様の愛を示し、生きて下さったイエス様を知らされているわけですから、人生の目的・目標を知っているとも言えるわけです。このような人々はコリントの教会にもいたようですから(Iコリント2:10参照)、混迷の時代にクリスチャンになった喜び、熱狂がこのように考えるようになる素地がこの時代、この地域にはあったのかも知れません。わたしたちの生きる社会では、不完全であること、あの人たちのように生きられないと考えて生きにくくなる人たちがいるとともに、自分は「完全な者だ」と主張して群れに問題を起こす人たちもいるのです。そして、どうやらそのような人たちの方が大きな問題を引き起こすのです。要注意です。ともかく、「既に得た」、「既に完全な者とされている」と考える人たちがいたのです。

 

2.キリストに捕えられている

 パウロは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリストに捕えられているからです」と語ります。「得ようとする」(lambano)、「捕えよとする」(katalambano)、「努める」(12節)、「得るために」(14節)(共にdeōkō追い求める)と同じような言葉が重ねられ、そして、「完全な者になる」つまり、「目標に到達する」(teteleiōmai)と続いています。人間というものは、何かを追い求めて生きるものなのです。目標がないと生きられないのでしょう。それは確かでしょう。しかし、パウロは、「自分がキリスト・イエスに捕えられている」、その動かない事実が、捕えようと言う動機付けになっている、と言います。捕えようとする姿勢や努力があって、目標に到達するのではなく、キリストにと絶えられているという安心に根差して、捕えようと努力すると言います。キリスト者の歩みは、「完全ではない」という否定形だけではなく、「キリストに捕えられた」という決定的事実に根差して、目標を目指して、捕えようと努める人生なのです。米国のバプテストにリック・ウオーレンという人がいて、成功した大きな教会の牧師さんです。彼は「目的に駆り立てられているキリスト者」(パーポスドリブンライフ)というか「目的目指して駆り立てられている教会(パーポスドリブンチャーチ)というものを提唱して日本でも人気がないわけではありません。長崎教会時代の友納靖士先生などが取り入れて教会形成をしています。クリスチャンには神から与えられた使命・目的がある、教会も当然神から与えられた使命・目的があるということはその通りなのですが、あまりに目的合理的で、お尻を叩かれると、どうも息が詰まるし、何かを見落としてしまう、割り切ってしまう危険があると思います。毎日、毎月、毎年の目標を決め、それに向かって励むことは必要ではありますが、「キリストに捕えられている」ということが決定的に重要なのです。が上から召して下さるという大きな目標を忘れてはならないであろう。パウロはこれを過去の確かな事実を表現する過去形で語っています。((katelēmphthēn1per.s.aor1.ind.pass.

 

3.目標を目指して

 パウロは13節から14節で、競技場で競争するランナーの譬えを用いています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞をえるために、目標を目指してひたすら走ることです」。「目標を目指して」(kata skopon)とは、弓矢の「的(mark)」のようなもので、運動場の競技では、ゴールにある白いテープのようなイメージでしょうか。ここで、「ひたすら走る」とありますが、原語には「ひたすら走る」というような言葉はなく、ただ「ゴールを目指して、賞を得るために追い求める」とあるだけです。だんだん、老化が進みますと、歩くこともままならず、「走る」となるともうだめです。ですから、説教題も「キリストに捕えられて歩む」にしたのですが、ちょっと弱いかなと思って、「キリストに捕えられて進む」にしたのですが、ともかく聖書には「走る」という言葉は使われていません。少々進み具合が遅くとも、目標を目指して進むことが大切であると思います。これは走るのがもはや苦手な私の考え方ではなく、16節では、「到達したところに基づいて進め」とあり、ここでは、隊列を組んで進むこと(stoichein)ですから、このイメージを採用したわけです。目標を目指して進むのです。

 

4.「賞」を得るために 

 私たちは、いったい、何を目指して走ったり、進んだりするのでしょうか?私たちの人生の目標は何でしょうか? 興味深いことに、12節で、「わたしはそれを得たとかいうのではなく、既に完全な者になっているわけでもありません」と言われていますが、実は「それ」という言葉はありません。しかし、14節では「賞」(brabeion)と言われています。オリンピックなどで、日本選手が「金メダル以外はメダルではない」などと言うのを聞きますと、そうかな、近代オリンピックを始めたクーベルタンは「参加することに意義がある」と言ったと小学校で教わったはずなのにと思ってしまいます。それはともかく、「賞」とはどのようなものなのでしょう? 原文をそのまま翻訳すると、「キリスト・イエスにおける、神の上への召しの賞品」となります。神が上への召して下さることが賞品なのだと言うことで、復活においてキリストと一つになることが賞であることになります。あるいは、「神の上への召しがもたらす賞品」と言う意味にも取れますので、「救いの完成」ということになるでしょうか。まさに、神を信じている者として、完全に神を信じ切る者になるということでしょう。

 

5.後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けながら

 まあ、ゴールが前方にあるのですから、後ろのものを忘れ、前方を向いて進むことは当然でしょう。しかし、過去のことを忘れる単なる「未来志向」は浅薄な生き方でしょう。しかし、自分の過去にまつわる失敗とその因縁に脅かされることも愚かなことです。過去をただ悔いるのではなく、失敗から学んで、希望をもって、前方を目指して生きることが大切です。いままで、自分の成し遂げた業績をいたずらに振り返るのではなく、はるかに勝った、神から来る天への召しを希望して生きるのです。私たちは、単に未来に幻想を抱き、現在なすべきことを先送りするのではありません。将来の救いの完成へと身を伸ばし、今行うべきことを坦々となすのです。過去の後悔ではなく、感謝と悔い改め、未来への幻想ではなく、将来の希望に生きるのが信仰者の姿です。

 

6.到達したところに基づいて進む

 もし、クリスチャンで、自分は完全であると思う人がいるなら、それは自分が完成途上にあり、実に不完全であることを自覚している人のことです。ジョン・ウェスレー(1703-1791)は弟のチャールス・ウェスレー(1707-88)と共に、イギリスにおいてメシジスト運動を起こしました。キリスト者が少しでも内実のある信仰を持つようにと、人格的、信仰的清めを強調する運動です。それが現在ではメシジスト教会となり、関西学院、青山学院、そして福岡女学院がメソジストの伝統を汲んだ教育機関です。彼は、『キリスト者の完全』という本を書いています。キリスト者の完全とは、不完全であることを自覚していること、だからいつも隣人に祈られており、共に、聖書を読もうとする姿勢で生きることが大切です。クリスチャンの完全について他の考えを持っている人がいるかも知れない。パウロはそれを認めます。しかし、「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進む」と言います。素敵な言葉ではないでしょうか?口語訳は「ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである」でした。自分がどれだけ完全か、不完全かではなく、キリストにしっかり捕らえられていること。この捕えられの中で、達し得たところに従って進むのです。完璧な信仰ではなく、葛藤があり、闘いがあること、それを受け入れてなお進むのです。もしバプテスマを受けることや転入会に躊躇している方があるとすれば、それはいまだ自分の力に頼って救いを獲得しようとする誤った考え方に囚われているのです。キリストに捕えられている、キリストに知られている、キリストに愛されている、キリストに信じられている。それで充分です。だからこそ、追い求め、知り、愛し、信じようと努めるのです。この順序を間違えないようにしましょう。愛されている、捕えられている、だから、愛そうとし、捕えようと達し得たところに従って進むのです。(松見俊)