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2018.7.1 「命を負う」(全文) 創世記3:20-24

命の重さの問題

 

 現代人の問題として、「命の軽さ」がよく言われます。耳に入るニュースには、人の命が軽んじられているような、悲しい事件が後を絶ちません。先月には、虐待を受けてきた5歳の女の子が、親に許しを乞う手紙を残して亡くなったことが報じられました。

 これは特別なケースではありません。日本では、1日に1人の割合で、虐待により子どもが命を落としている可能性があると、日本小児科学会は発表しています。

 

 では昔は今と違って、命が重んじられていたのかと言うと、そうだとは言えないと思います。小さな者、弱い者の命が虐げられてきた歴史があります。命の重さ。これはいつの時代においても、人類共通のテーマではないでしょうか。

 

 

 そしてこの、命の重さの問題は、最初の人、アダムとエバからすでに始まっています。

 

負わされた命の重み

 

 1番最初に創られた人「アダム」と、その次に創られた女性は、蛇にそそのかされて、神様に食べてはいけないと命じられていた、善悪の知識の木の実を食べました。これが、人類最初の罪でした。そこで神様は、蛇を呪い、女性を苦しんで子を産む者にし、アダムを苦しんで食べ物を得る者にしました。今日の聖書箇所は、それに続く話です。

 

 20節でアダムは、「女」と呼んでいたその人に、一人の人間としての名前を付けました。それが、「エバ」でした。日本語で言えば、「命」という名前です。アダムがこの女性を「エバ(命)」と名付けたのは、「彼女がすべて命あるものの母となったから」だと言います。

 では、エバはいつ、すべて命あるものの母となったのでしょうか?

 今日の聖書箇所の少し前の15節では、神様が蛇に対してこう言います。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。

 神様はここで、蛇の子孫と女の子孫について述べます。女(エバ)に子孫が続くことを前提に語っています。命は、アダムとエバで終わるのではなく、エバを通して次につながっていくことを、神様は約束されました。その意味でエバは、私たちすべての人の母となりました。

 しかしエバは、ただ産みの親となったのではありませんでした。16節で神様は、「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。」とエバに言いました。

 エバは、苦しんで子を産む者とされました。命を産む苦しみを負わされました。それは言い換えれば、命の重さを背負わされたのです。

 

 妊娠・出産は、苦しみを伴います。私には決してわかりませんが、その苦しみとは、身体的な痛みだけではありません。それまでの生活が変わり、行動が制限され、様々なこと、細かいことに気を使い、精神的に大きな負担を負います。何より、1人の人の命を自分の中に宿しているというストレスは、計り知れないものがあると思います。精神的負担は、決して軽くはありません。

 実際、妊娠中や出産後にうつ病になる人は、非常に多いです。そして悲しいことに、日本における妊娠中や産後の母親の死因では、自殺が上位に入っています。また、精神面は大丈夫であっても、世界一安全な出産ができると言われる日本でさえ、年間50人前後が、妊娠・出産で命を落としています。

 子どもを産むということは、自分の命が脅かされるほどの苦しみです。この、決して軽くはない苦しみが、エバに背負わされました。彼女は命の重みを負ったのです。そしてその時、彼女は「すべて命あるものの母」となり、エバ(命)と呼ばれるようになりました。

 

 この、「命の重み」を背負わされたのは、エバだけではありませんでした。アダムは、「生涯食べ物を得ようと苦しむ」者にされました。食べ物を得るために、苦労して土を耕し、汗を流さなければなりません。彼に背負わされたのは、命を守ることの苦しみです。彼もまた、命の重みを背負わされたのです。

 

 また不思議なことに神様は、アダムとエバに皮の衣を作って着せられました。しかし2人はこの時すでに、いちじくの葉をつづり合わせて腰を覆っています。ですので、わざわざ神様が衣を作る必要はありません。それでも神様は皮の衣を作り、2人に着せました。これには意味があるはずです。

 神様が2人に作ったのは、皮の衣です。皮ですので、何かの動物が犠牲になったということです。神様はアダムとエバに、犠牲となった動物の皮を着せました。まさに、命を負わせたのです。そしてその命は、人のために神様が備えた命でした。

 こうして人は、命の重みを背負う者とされました。私たちは、命の重さを知っています。命の尊さを知っています。そんな私たちは、どんな小さな命であろうとも、ないがしろにはできないはずです。私たちには、全ての命を大切にする義務があるのです。

 

 

神の責任

 では神様は、「命」に対する責任を放棄して、全て私たちに投げ出してしまったのでしょうか。

 23節にはこうあります。

 「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。

 神様は、アダムをエデンの園から追放しましたが、耕す土を彼に与えました。アダムは与えられた土を耕し、作物を育てて生き延びることができます。神様は人に罰を与えながらも、人が生きる道を備えてくださいました。神様は、「もういい、勝手にしろ」とは言いません。人の必要を満たし、人の命を養います。神様は決して、私たち人間の命に対する責任を放棄したのではありませんでした。

 

 しかし私たちの方は、神様が備えた生きる道さえも、破壊しているということはないでしょうか。

 

 2011311日、福島原子力発電所が爆発し、東日本全土が放射線で汚染されました。今まで耕してきた土が汚染され、死の土となりました。あまりにも大量の死の土は、処分ができずに今、全国にばらまかれようとしています。また土だけでなく、海や空気も、今もまだ汚染され続けています。そこで犠牲になるのは、原発の安全を信じ込まされてきた地域住民や子どもたち、そして現場で命を削って働く、貧しい労働者です。

 このような問題の根本には、力のある者が力ない者を抑圧し、搾取し、それによって富を得るという構図があります。そこでは、誰かの命が軽んじられているのです。人の罪の結果です。原発だけではありません。これは、基地問題や格差・貧困、あらゆる社会問題に当てはまります。

 

 神様は私たちに耕す土を与え、生きる道を備えてくださいました。決して私たちを見捨ててはいません。神様は、私たち全ての人の命の責任を負っています。生きる道を備えておられます。

 しかし、その神様の備えた生きる道を破壊し、命を軽んじているのは、私たちのほうなのです。

 人の罪、私たちの持つ罪の性質は、それほどまでに深く、深刻なのです。 

 

残された命の木

 この私たちの罪の性質は、アダムとエバから始まりました。2人は、神様の戒めを破り、善悪の知識の木から食べるという罪を犯しました。神様は、罪を持った人間を、エデンの園から追放しました。さらに、ケルビムという天の使いと、剣の炎を置き、人が命の木に近づくことができないようにしました。それは、人がエデンの園にある命の木からも取って食べて、永遠に生きるようになることを防ぐためでした。

 面白いことにここで、エデンの園から追放されたのは、アダムの方だけであったように描かれています。エバについては述べられていません。エデンの園を追われたのは、アダムだけだったと読むこともできます。

 しかし神様がエバを創造したのは、人が一人でいるのは良くないからでした。アダムがエバと出会った箇所では、「二人は一体となる」と述べられています。それ故、ここでエバがアダムと離れたとは考えにくいです。おそらく2人は一緒にエデンの園を出ていったことでしょう。

 アダムの追放は、アダムとエバの追放でした。それはつまり、全ての人が追放されたということです。

 

 人はエデンの園から追放されました。そして、命の木に至る道が塞がれました。人は罪を持ったため、神の楽園、エデンの園にはいられなくなりました。そして、永遠に生きることが禁じられました。確かにそれは、重い罰でした。しかし神様は、単に人を見限って排除したのではありません。

 

 神との関係から離れ、罪を持った人間の歩みは、滅びでしかありません。神様が備えた生きる道をも破壊し、自らを苦しめます。そのような人間が永遠に生きる者になってしまっては、人は永遠に滅ぶ者となってしまいます。

 

 永遠の命。それは、神様との関係が破れてしまった人間にとって、あまりに重いものなのです。そこで神様は、人をエデンの園から追放し、命の木から遠ざけました。そうやって、人が罪を持ったまま永遠に生きる者となってしまわないようにしました。

 

 しかしここで神様は、命の木そのものを取り去りはしませんでした。永遠の命の恵みは、残してくださいました。人が神と和解し、神との関係の中で永遠に生きるようになる道を、神様は備えてくださったのです。

 

 そして神様は、関係の破れた私たちのために、1人子イエスを地上に送り、十字架上でその命を捧げられました。それは、私たちが神と和解し、永遠の命を得るその道を備えるためでした。このイエス・キリストによって私たちは、神と和解し、神との関係の中で永遠に生きる者となるのです。私たちにはこの、永遠の命の希望があるのです。

 私たちは、決して軽くない命を負っています。命の重みを知っています。この命の重みを知る私たちには、全ての命を尊び、全ての命を大切にする義務があります。

 それでも私たちが負っているのは、期間限定の命です。一人一人、与えられた時間の命を負っています。永遠の命は、私たちが負うにはあまりにも重いのです。

 しかし神様が、私たちの命を負ってくださいます。それは、期間限定ではなく、永遠にです。神の元で私たちは、永遠に生きる者とされるのです。

 

 これが、エデンの園から追放された私たちに、なお残された希望です。私たちは、この希望を抱いて、今与えられている命を精一杯生きたいと思います。(安里道直)