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2018.5.20 「イエスを主と告白する」(本文) Ⅰコリントの信徒への手紙12:1-11

 今日はペンテコステです。聖霊のくだった、このペンテコステの時を共に祝いましょう。

 

1:  教会の誕生日

 ペンテコステという言葉は、わたしたちにはあまりなじみのない言葉かもしれませんが、「ペンテコステ」とは、ギリシア語では「50」という意味をもちます。ギリシア語では「ペンテ」が数字の「5」の意味をもち、現代では、アメリカの国防省の五角形の建物が「ペンタゴン」という名前となっています。この言葉も同様にギリシア語に由来しているのです。

 このペンテコステの日は、イエス・キリストが復活してから50日目に「聖霊がこの世に注がれた」、その時を覚えてお祝いするときです。イエス様の復活の後弟子たちは集まり、祈っていました。そしてその復活から50日目に聖霊がくだったのです。それがペンテコステ「聖霊降臨祭」です。この「ペンテコステ」の日に聖霊がくだり、キリスト教の伝道が開始されたのです。このペンテコステの時に教会が誕生したのです。 今日は、ペンテコステ、教会の誕生日をお祝いする日です。

 

 私たちすべての人間に誕生日があります。誕生日は、とても特別な日です。子どもからすると、誕生日ケーキやプレゼントをもらえる時で、毎年指折り待ち続けている日かもしれません。誕生日は、命が誕生し、一人の人間の存在が始まった日です。神様からいただいた大切な命が始まったときなのです。

 幼稚園の誕生会では「うまれるまえから」という歌を歌います。この歌はこのような歌詞です。 「うまれるまえから かみさまに まもられてきた ともだちの たんじょうびです おめでとう うまれてきょうまで みんなから あいされてきた ともだちの たんじょうびです おめでとう」わたしはこの教会に来て、幼稚園でも働くことになったのですが、その中でも特に感動した出来事としての一つに、この歌との出会いがあります。 私たち一人ひとりの命は、「生まれる前から神様に守られてきた命」であり、そして「生まれて今日までみんなから愛されてきた命」なのです。誰もが、自分から「さてそろそろ生まれよう」として生まれた人はいないのです。命の誕生には、まず、そこに神様の意志があります。人間は動物の中でも、一番未熟な状態で生まれてくる者だと言われますが、生まれてすぐに「話しだし」「ご飯を食べ」「トイレに行き」「歩き出した」人はいないのです。人間は、多くの人々によって守られ、愛されて、育てられなくては生きていけない者なのです。この弱さは、他者の助けを必要とすることを覚えるために、大切な姿でもあると思います。私たちの命は神様によって創られ、守られ、そして多くの人々に愛され、支えられてきた命なのです。なんとなく、何事もなく暮らしていると、自分のこの命が神様から与えられた命であるという、その恵みを忘れてしまうことがあります。幼稚園の誕生会でこの歌を歌う時に、その恵みを何度も思い出します。

 今日は、教会の誕生日です。もちろん教会も神様に守られ、愛されて、生み出されたのです。教会には二つの大切な働きを与えられています。一つ目は「主イエス・キリストの福音をすべての人々に伝える」「伝道」です。そしてもう一つは「お互いに祈り合う関係に生きる」「牧会」です。この「伝道」と「牧会」。そのために教会は生まれ、そして働くのです。そして、そのために神様は、教会に、そしてその教会につながる一人ひとりに、聖霊を注いでくださったのです。

 

2:  聖霊の方向性

 今日の箇所では、この霊の働きを明確に教えています。3節ではこのように言います。12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

 聖霊は人が「イエスは主である」と告白するために、人間を導くのです。それが聖霊の働きです。この聖書の言葉が記されたとき、コリントの教会では「霊」の働きがとても重要視されていました。ただ、その働きの多くは、「異常現象」としての「霊」の働きを指していましたのです。

 「聖霊」の働きが、何を意味しているのか、「聖霊」の働きが何のために起こされているのか、ということは関係なく、その「異常現象」自体がすばらしく、力ある業と考え、感じていたのです。 確かに、このペンテコステの始まりの時にも、イエス様の弟子たちは様々な言葉を話すという行為を行ったのでした。ある意味、人間の常識を超えた出来事が起こったのでした。いわゆる「異常現象」が起こされたのです。だこの弟子たちの上に起こった現象には、大切な意味があったのです。弟子たちは、様々な言葉で語りだしました。それは聞く人の故郷の言葉であり、内容は「主の福音」、「神様の偉大な業」を語ったのです。つまり、ペンテコステの時、聖霊が注がれた時に、弟子たちに起こされた出来事を簡単に言うと「すべての者が一番理解できる言葉で、わかりやすく、主の福音を宣べ伝えた」という出来事が起こったのでした。 これが聖霊によって起こされた出来事です。

 

 この時、コリントの教会では、霊の働きとして起こされる異常現象の出来事に囚われてしまっていたのです。その異常現象の意味の方向性はばらばらで、教会は混乱してしまったのです。コリントの教会の人々が求めていたのは、ある意味、偶像なのです。素晴らしい力、魅力的な出来事は、人間の価値観を惑わすのです。そのようなコリントの教会に送ったこの手紙では、何が聖霊の働きの基準となるのかを教えているのです。そしてそれは「イエスは主である」と告白しているか、それとも「イエスは神から見捨てられよ」と言っているかどうかということ、これが聖霊の働きを見分ける基準だと教えているのです。この基準は単純ですが、これがすべてなのです。

 「イエスは主である」と告白している、その言葉、その働きが、どれほど小さくて、力なく見えたとしても、それは「聖霊による」働きなのです。そしてどれほど驚くような素晴らしい出来事を行っていても、それが「イエスは主である」と告白していなかったら、その働きは聖霊によるものではないのです。これが聖霊の働きによる方向性です。聖霊は「イエスは主である」と告白させるのです。

 

3:  「イエスは主である」と告白する

 この「イエスは主である」という告白は、他の何でもなく、聖霊の働きによってのみ、告白することができるのです。 の手紙を書いたもう一つの理由として、当時の社会構造も理由の一つであったのです。この手紙が書かれた当時、イスラエルはローマ帝国に支配されており、「カエサル、ローマの皇帝が主である」と告白しなければいけなかったのです。ローマの皇帝「カエサル」がこの世の絶対的な支配者であり、すべての人間の主人である、これがローマ帝国において生きていくなかでの基準、価値観だったのです。しかし、それに対して、聖霊は「イエスは主である」と言うと教えているのです。

 「イエスは主である」と告白することは、ローマ帝国に対して抵抗することであり、社会的危険分子とされるのです。そのような意味でこの「イエスは主である」という告白は、命をかけて行った行為なのです。だからこそ、聖霊、神様の導きと力がなくては、この告白はできないのです。

 

4:  与えられている賜物

 今日の箇所では、この聖霊の具体的な働きとして与えられている、「賜物」「務め」「働き」について教えます。4節からはこのように教えます。「12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」(Ⅰコリント12:4-6)「賜物」も「務め」も「働き」も、すべては同じ「霊」、同じ「主」、同じ「神」が与えて下さっている。そして、それぞれの者に与えられている「賜物」は、なにかがすばらしくて、なにかが劣っているという、何かを特別視するものではないのです。聖書は、そのうえで、「“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださる」(11)と教えます。

 何かが特別に素晴らしいということはできません。しかし、それぞれに与えられた賜物は、各自に与えられた大切な恵みです。私たちは、まず自分自身に神様の霊による恵みが与えられていること、自分には素敵な賜物が神様から与えられていることを覚えたいと思うのです。神様は、私たち一人ひとりを創造し、その存在を喜んでくださっています。そこにはその存在の素敵な意味があり、そこに素敵な賜物が必ず与えられているのです。だれかと比べてみると、社会的に必要とされていて、「素晴らしい」と人々に言われることであったとしても、また、今の社会にはあまり必要とされないために、誰にも素敵だと思われないとしても、それぞれに与えられているのは、確かに同じ神様から与えられた「恵み」であり、素敵な「賜物」なのです。そして、それは同じ「聖霊」によって与えられているものなのです。

 わたしたちは、今一度、このペンテコステの時に、神様の前に立ち、心を静かにして、自分の存在を考えてみたいと思うのです。今、私たちはまず、自分の存在を、心を静めて考えてみたいと思うのです。自分が一人で神様に向かい合い、祈りの時をもって、神様に生かされている一人の人間としての喜びを、まず受け取りたいと思うのです。神様は、私たち一人ひとりを、その個人をそれぞれの存在として、喜んでくださっているのです。

 

 そして、そのうえで、わたしたちは、お互いの存在に目を向けていきたいと思うのです。私たちは、自分の存在の素晴らしさを確認しましょう。そして、そのうえで、お互いの存在をどのように感じているか。お互いの存在を喜ぶことができるか、・・・隣人に目を向けていきたいと思うのです。「聖霊」は「イエスは主である」と告白するために、働かれています。そして、それは私たちがお互いの存在を喜ぶことができるために働かれているということでもあるのです。

 イエス・キリストは、一人の弱い者、一人の貧しい者の存在を喜ばれました。聖霊は、私たちを、このイエス・キリストを「主」と告白して生きること、お互いの存在を喜ぶ道を導いているのです。神様は私たち一人ひとりに聖霊を送って下さいました。それは、私たちが個人として、自分の存在を喜ぶとともに、共に生きる喜びを感じるための恵みであるのです。

 このペンテコステの時、私たちは今、自分の存在の素晴らしさ、そしてお互いに共に生きる、その恵みを喜んでいきたいと思います。そして心から「イエスが主」であると告白し、賛美し、生きる者とされていきたいと思います。(笠井元)