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2018.5.13 「神は必ず助けて下さる」(本文) 詩編46:2-12

1:  神様の愛

 今日の聖書の御言葉の、「46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」という言葉は、先ほどひかり組の子どもたちが元気に言ってくれましたが、5月のひかり組の暗唱聖句となっています。東福岡幼稚園は「キリスト教保育」として、神様の愛を伝えています。子ども達に、一番に学んで欲しいことは、「あなたはいつも愛されている存在である」ということ、そしてだからこそ「隣人を愛して、お友だちを大切にして生きる」ということを、学んで欲しいと願っています。

 「46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」という御言葉は、どのような時にあっても私たちと共にいてくださる、神様の愛を表している言葉なのです。

 

2:  必ず助けてくださる

 ここでは「苦難の時、必ず助けてくれる」と言っています。この詩が詠われた時、イスラエルの人々はアッシリアという国に包囲され、国が滅ぼされる寸前の時であったのです。つまり、この詩編の詩を詠っている人は、この時、絶体絶命の時、明日生きているかどうか、それすらもわからない時でした。この詩はそのような時にあって「それでも神様は、苦難の時、必ず助けてくれる」と詠われた詩なのです。この詩の作者は、神様は「どのような時にあっても、必ず、わたしたちを助けてくださる」ということを信じて詠いました。心の中ではおびえや不安でいっぱいであったでしょう。それでも、「神様は私たちを愛し、私たちの存在を喜び、私たちのために共に生きてくださる」と信じて詠いました。

 私たちは、この神様の愛を忘れてしまっているときがあるのではないでしょうか。

 今、私たちが生きている世界を見てみるときに、現代社会はとても不安定であり、未来は不透明な時代になっていると感じるのです。ニュースを見ると、いつも、子どもが傷つけられたり、テロや銃による悲しい事件、自然災害によって苦しんでいる人の姿が報道されています。何か、この世界は、神様の愛に満たされているのではなく、悪に満ち溢れてしまっていると感じてしまうのかもしれません。そしてそれが当然の現実があるのです。

 わたしは、スポーツ、その中でもサッカーが好きなのですが、今年は、サッカーでは4年に1度の世界チャンピオンを決める、ワールドカップがある年となっています。今年はこのワールドカップはロシアで行うことになっていますが、ロシアとイギリスとの国の関係の悪化から、イングランド代表が出場をボイコットする可能性があるとされています。せっかく4年間も待って、予選を勝ち抜いてきたのに・・・出場しないかも知れないというのです。サッカーファンとしては、国の争い、その政治のために、そのようなことになるのは、とても残念です。

 

 また、現在、日本の年間の自死者は3万人ほどとされ、日本の幸福率はとても低いものとなっています。現在は出生率が低下傾向にありますが、その理由の一つに「経済的理由」が上げられ、「自分が子どもを幸せに育てることができると思わない」という理由が挙げられています。このような現実の中で、希望を持つこと、愛に満たされているということを覚えて生きることはとても難しいのかもしれません。

 しかし、それでも聖書は「神は必ず助けてくださる」と教えているのです。人間の理解では、目の前は暗く見えて、希望が持てない中にあっても、神様はそこにいて、必ず助け手くださるのです。

 

3:  共におられる

 今日の聖書の御言葉は、「46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」と教えます。ここでは「苦難の時、神様は必ず助けてくださる」と教えているのです。神様は、苦難の時、私たちが未来に希望を見ることができないような時に、私たちを「必ず」助けてくださるのです。今日の聖書8節と12節において言われていますが、「主はわたしたちと共にいる」のです。神様は何があっても、私たちと共にいてくださるのです。困難の中、暗闇の中、私たちが一番苦しくなるのは、本当は経済的な問題などではないのです。一番苦しいのは、「自分は一人である」という「孤独感」に陥ること、自分が一人であると感じていくこと、他者との関係が崩れてしまうことです。

 わたしたちは自分の隣に、だれがいてくれていると感じ取っているでしょうか。一緒に笑う人、一緒に泣く人、一緒に考える人、一緒に生きる人。そのような関係の存在がある時、それがどれほどの苦しみの中にあっても、私たちは希望を持つことができるのです。

 

 東日本大震災をはじめとして、熊本地震、朝倉での豪雨と、日本では自然災害が続いています。ただ、このような災害という困難など、大きな困難に出会う時、人々はお互いを助けようとします。津波や地震、大雨などの自然災害の中にあって、人々は力を合わせて共に生きていこうとするのです。このようなことは簡単に言うことではないのですが、このような関係を見る時に、私は痛みのなかにあって、絶望だけではなく、希望も見ることができるのです。共に生きる人がいる、共に生きて行こうとしている時、ここに、希望を持つことができるのではないでしょうか。

 しかし、同時に、とても悲しいこととして・・・そのような大きな困難から少し離れてしまうと、今度は、人間は、自分のためだけに生きることを始めるのです。他者を陥れて、他者を蹴落としてでも、自分が勝ち組になることを考え始めてしまう。自分のために誰かを傷つけてでも、幸せになろうとしていく姿があるのです。困難を目の前にしたときに、人間はお互いに力を合わせることによって、苦しみを乗り越えようとしながらも、その困難を乗り越えたら、今度は自分のためだけに生きていこうとするのです。そしてこれが人間の限界だとも思うのです。

 

 そのような私たちに、神様は「私はあなたを必ず助ける」と、どのような場面にあっても、あなたを愛している、「必ず」あなたと共にいると言ってくださっているのです。そして、神様は、確かにその命を捨ててまでも、私たちを愛してくださる。この神様の愛を、主イエス・キリストが表されたのです。神様はイエス・キリストをこの世に送り、共に生きてくださり、「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束してくださっているのです。この神様の約束。宣言を受け取る時、私たちはどのような状況にあっても、「私は一人ではない」という希望と勇気をいただくことができるのです。

 

 このあと「主われを愛す」という讃美歌を詠います。以前、幼稚園の子どもたちに讃美歌のお話をしました。そのとき、わたしの好きな讃美歌としてこの讃美歌を子どもたちに紹介しようとしたのですが・・・子どもたちがみんなで突然この讃美歌を歌いだしたのです。昨年、10月にこどもたちに、教えた讃美歌なのですが、子どもたちはこの讃美歌を覚えていました。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ、わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」

 わたしは、苦しい時、いつもこの讃美歌を思い出します。わたし自身いつも神様の事を忘れてしまい、自分勝手に生きてしまいます。自分で何でもできると思い、自分のためだけに生きてしまうのです。そして困ったときだけ「神様助けてください」と、「困ったときの神頼み」のような信仰しかもっていません。

 それでも、そのような「弱い者」をも神様は、愛してくださっている。人間が神様を愛するのではないのです。神様が、私たちを愛してくださっているのです。神様は、私たちがどのような状況にあっても、私たちを愛し、離れず、いつも共にいてくださる方です。そしてそれがイエス・キリストによって示された神様の愛なのです。

 子どもたちが本当に苦しく、困ったときに、この神様の愛を思い出してほしいと願っています。そしてまた、皆さんにも、神様が私たちを愛してくださっているということを覚えていてほしいと思います。私たちは自分の力だけでは希望にあふれる人生を歩いて行くことができない者かもしれません。しかし神様はそのような弱く小さな者を愛し、勇気と希望を与えてくださるのです。

 

4:  力を捨てよ 神を知れ

 最後に、10節からの言葉を見ていきたいと思います。聖書はこのように言います。「46:10 地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。46:11 「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」46:12 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」 

 最初にお話ししましたが、このとき、人々はアッシリアという国に滅ぼされる寸前にいたのです。そのような者に神様は「弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。『力を捨てよ、知れ、わたしは神。』」と語りかけられるのです。希望をもつために本当に必要なこと、それは弓や槍ではないのです。人間の力ではないのです。それは人を自分のために人を傷つけてしまうものでしかないのです。神様は、お互いを傷つけあうことではなく、お互いに愛し合うことを望んでおられるのです。私たちは、神様がいつも一緒にいてくださることを、知り、受け入れたいと思います。ここに決して変わることのない、「互いに愛し合う」という、本当の希望を見ることができるのです。聖書は、「力を捨てよ」と言います。それは「自分の力」の限界を知ること、そしてそのうえで、本当に私たちを愛してくださっている、神様を信頼するように語っているのです。神様はどのような時も、「『必ず』私たちと共にいてくださいます」。この神様に信頼していきましょう。 (笠井元)