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2018.4.22 「証しする共同体」 (全文) マタイによる福音書5:16

1:  立派な行い

 今日は、今年度の主題聖句として提案している箇所「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」(マタイ5:16)という聖句から「証する共同体」ということについて学んでいきたいと思います。今年度で私が就任して6年目となりますが、これまで教会では「共に生きること」「分かち合うこと」「祈り合うこと」をテーマに、どちらかというと教会内で、「お互いのために歩む」ということを学んできました。今年からは、そこからもう一歩前進して、「お互いに分かち合った信仰を証すること」をテーマに、キリストを外に向けて証する、そのような教会になっていきたいと思っています。その思いを込めて、今年度の標語は「証する共同体」としたいと思っています。聖書は、私たちが神様からの光を受けて、その光を輝かす者となるように教えているのです。

 今日の箇所は、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」という言葉を教えています。そして、続けて「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」と教えているのです。聖書はここで「あなたがたの立派な行いを見て」と続くのです。この「立派な行い」と言われると、ちょっと自分ではできないのではないかと思ってしまうことがあるかもしれません。この世の価値観における「立派な行い」はどのような行いを指しているのでしょうか。

 立派な行いとはどのようなものか、ちょっとインターネットで調べてみたのですが・・・そこでは・・・「責任をしっかり果たすこと」、「誰からも信頼や尊敬され、頼りになること」、「自分の失敗をしっかりと謝罪することができること」、・・・ほかには「トラブルを回避する能力」、「相手をイヤミなく立てることができる」、そして「休むときはしっかり休める」、「遊びと仕事を分けて考えられる」、「規則正しい生活ができる」など・・・様々な言葉が出てきました。

 さすがインターネットだと思います。調べて検索してみると本当にいくらでも情報を得ることができます。今の時代は、情報が溢れています。情報を得ることは、ただ探すのではなく、そこから、その情報を正しく選ぶことが必要になってくるのだと、感じました。この世の価値観では、「立派な行い」とは、「自分が人に信頼され、尊敬されるように生きること」とまとめることができると思うのです。これは本当に正しい情報でしょうか。

 ここで言うところの、この世における「立派な行い」は「自分のため」、「自分が尊敬されるため」「自分が良くみられるため」と感じるのです。しかし、聖書が教える「立派な行い」。それは「神様のために生きる」ことです。神様は、私たちの努力、頑張りを見ていてくださり、認めてくれます。私たちが頑張って生きる姿、行いを喜んでくださりっています。聖書における「立派な行い」とは、そのうえで、それが、何のためなのかを考える必要があると教えているのです。

 何をするにしても、自分が自分で誇り高い者となるためだけであるとき、それはどこかで、とてもむなしいものとなってしまうのではないでしょうか。

 聖書は、何よりもすべてが神様のために・・・という価値観のもつことを教えているのです。そしてそれは自分が良い者となることも、他者のために生きることも、そのすべてが神様のためにだと言うことです。

 

2:  イエスを主と告白する

 私たちは、誰か愛する人のため、大切な何かのために生きるということは理解できるかもしれません。しかし、「神様のために」・・・と言われてもなかなかピンとこないのではないでしょうか。それほどに、人間は自分自身のために生きている、それが当然だと思っているのです。実際、皆さんは、なぜ生きているでしょうか。何のために生きているでしょうか。どこに向かって生きているのでしょうか。

 わたしが青年のころは、よく「自分探し」という言葉がはやっていました。友人の間では「あなたは『自分』をもっていますか?」と問われました。自分を探して生きる。自分が何者であるのか、どこに向かって、何のために生きているのかを探しているということです。だいぶ前になりますが、サッカー選手の日本代表であった中田英寿選手も、引退の時に「自分探しの旅に出かける」と言って、引退しました。私たち人間のなかには、自分が生きている意味、その存在の意味を求め、その存在の必要性、「何かのために存在していたい」という思いがあるのです。皆さんは、今、何の為、どこに向かって生きているのでしょうか。聖書は、その答えは「神様のため」だと教えているのです。

 そして、この神様のために最後まで生きた方、神様に従い続けた方、・・・それがイエス・キリストなのです。イエス様はこの世の「偉人伝」などでも、様々な人と一緒に載せられています。しかし、イエス様は単に偉人として、すごい人物として生きたのではないのです。イエス様に一番に見るべき所は、その「信仰」なのです。イエス・キリストこそが、人生の最後まで神様のために生きて、神様の愛を表し続けて生きられた方なのです。イエス様は確かに、罪人と共に生き、病人と共に苦しみを分かち合いました。そして弱い者を励まし、苦しい者と共に苦しまれたのです。それはすべてが神様の愛を表すためでした。そして、その「神様のため」その「愛」を表すために、イエス・キリストは十字架の上で苦しみ、死に、そして復活なされたのです。それもまた、すべてが神様の愛がそこに表されるためであったのです。

 聖書は別の箇所ではこのように教えています。「10:31 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)聖書が教えている「立派な行い」とは・・・神様のために生きること、生きていることだと教えているのです。そして、わたしたちが「立派」に生きることは、ただこのイエス・キリストの信仰に与ること、神様の愛を受け取って生きることによるのです。私たちが何かをしたから、すごいことを行ったからといって、本当の意味で「立派」ですごい者となるのではないのです。聖書が教えている表すべき「立派な行い」。それはこのイエス・キリストに従い、神様の愛を受け取り生きること、ただそのことによるのです。

 

3:  与えられた賜物

 今日の招詞で読んでいただきました、ローマの10章の言葉ではこのように教えています。「10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10:9-10)

 このようにローマ書では「イエスは主であると口で言い表し、心でイエスの復活を信じるならば、救いが与えられる」と教えているのです。

 神様は、私たちに、さまざまな能力を与えてくださっているのです。皆さんは、自分の長所、隣の人の長所を言うことができるでしょうか。短所、悪い所であればたくさん出てくるのかもしれませんが・・・、長所となると、なかなか出てこないかもしれません。私自身も、以前にアルバイトの面接で、「あなたの長所はなにですか」と聞かれて言葉に詰まってしまったことがありました。当然、不採用とされました。そのあと家に帰ってから、母親に「自分の長所はなにかある」と聞いたのですが・・・だいぶ考えてから・・・「やさしいところかな」と言われましたが・・・、それではアルバイトの面接でいうことはできません。「やさしい」と言われて本当は喜ぶべきことなのでしょうが・・・このときは、とりあえず、曖昧に答えた答えで、なんだかごまかされた気がしました。

 しかし、私たちには、確かに良い所、神様から与えられたすばらしい能力があるのです。皆さん一人ひとりにも、必ず神様が与えてくださっている素敵な力があるのです。

 そしてそれはもしかしたら、今は、自分では短所と思っているところかもしれません。私たちは、「自分はこのように悪い所がいっぱいある」と思ってしまうこともあるかもしれません。しかし、聖書は「神様の恵み、神様の力は、わたしたち人間の弱さのうちに表される」とも教えています。「自分は欠点がいっぱいある」と思っていたとしても、だからこそ・・・わたしたちは主イエス・キリストに愛されて、赦されて生きているのです。神様の前にあっては「弱さ」や「欠点」は、信仰としての長所になるのです。

 私たちは、「イエスは主である」と信じて告白するときに、「自分のためだけ」という思いからの解放を得るのです。「自分のために生きる」という自己中心の思いは、すべての出来事において、私たちを苦しみに縛り付けます。私たちの、良いことも、悪いことも、長所も短所も、欠点や弱さも、そのすべては「イエスは主である」という告白のため、そしてそれは私たち自身の「解放」のためにあるのです。そして「イエスは主である」「すべては神様のために」という信仰のうちにあって、すべてが素晴らしい賜物となる。「立派」なものとされるのです。

 

4:  証する共同体

 「イエスは主である」と告白する救いに、私たちを導くのは、イエス・キリストご自身であり、またそれは聖霊の働きでもあるのです。私たちは、「イエスは主である」と信じて告白する者とされていきたいと思います。そして、私は、この信仰を、一人ではなく、教会という信仰共同体として告白していきたいと思うのです。私たちはこの世にあって、一人で生きているのではないのです。どこかで誰かと関わって生きているのです。誰かと関わっているからこそ、誰かを愛し、誰かに裏切られ、時に、喜び、時に傷つき、悲しむのです。そのような私たちが共に生きるためには、「自分自身のためだけに生きる」という思いから解放される必要があるのです。自己中心の考えから、私たちを解放してくださるのが「イエスを主」と告白する信仰です。そしてそれは聖霊の導きなのです。聖霊は、私たちを神様の愛につなげてくださるのです。そしてそれは「神様」と「私」という関係を作りだし、そして「神様」と「私」という関係から、「私」と「あなた」という関係にまで広げてくださるのです。

 

 教会は、信仰を基とする、共同体です。「イエスは主である」と信じて告白する者の集まりなのです。教会において、あの人と気が合うから、とか、一緒にいると楽しいから、とか、趣味が同じだからということもあるでしょう。しかし、その根本には、「イエスは主である」という信仰の繋がりによる共同体なのです。私たちは聖霊の働きよって、信仰に導かれ、そしてその聖霊の導きによって、共に生きる者とされていくのです。

 先日、森澤兄が礼拝において証しをしてくださいました。5分というお願いの中で、わたしの時計では4分57秒という、時間的にとてもばっちりの素晴らしい証しでした。そしてそれはもちろん時間だけではなく、内容的にも、とてもわかりやすく、森澤兄の教会に行くきっかけ、そして最後には、イエス様に賭けた、決心。その決心が信仰となったことを知ることができました。

 皆さんはこの兄弟の最初のイエス様との出会い、信仰を知っていたでしょうか。これから教会では、皆さんと、お互いの「信仰」を分かち合い、そこにイエス・キリストを証していきたいと思います。私たちは、これから新しい一年として、「証する共同体」として、共に「イエスを主」と告白するものとされて生きていきたいと思います。そして信仰者として生きる中で、共に神様に照らされたその光を輝かしていきていきましょう。(笠井元)