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2018.4.15 「赦しあうために祈り続ける」 (全文) マタイによる福音書6:12-15

1:  罪とは

 今日の箇所では、「罪を赦して下さい」と、「誘惑から守ってい下さい」という二つの祈りが記されています。今日は、この二つの祈りから、神様の与えてくださっている、恵みの大きさをもう一度受け取っていきたいと思います。まず「罪の赦しを求める祈り」について見ていきたいと思います。

 イエス様は、12節において「6:12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。」という祈りを教えます。私たちにとって、「罪」という概念は、とてもあいまいなものとなっているかもしれません。皆さんにとって罪とは何でしょうか。罪とは、法を犯さないこと、また、他人に迷惑をかけないこと、また人に後ろ指をさされるような事、恥ずかしいことなどと考えるかもしれません。これは人と人との関係における行為になります。私たちは多くの場合、人と人の間にあることを「罪」と考えているのかもしれません。もちろんそれも大切なことです。ただ、「罪」というものがそれだけだとすれば、人が見ていないところでは、自分は何をしてもよいということになってしまうのです。実際に、現在の社会は個人主義となり、だれかと関わることがないようにと考えるようになっています。他者と関わることは疲れることです。誰かに傷つけられることもあれば、自分が誰かを傷つけてしまうこともあります。誰かを傷つけないように考えていくこと、また傷つけられることで痛みをもつこと、それでも関わっていくということ、それは簡単なことではないのです。それならばいっそのこと関係自体、持たなければ、何も問題が起きないと思ってしまうでしょう。そうすれば、嫌な思いもすることはないし、誰かを傷つけることも、傷つけられることもない。つまり、罪を犯すことも、罪を犯されることもないと思うのです。

 しかし、聖書が教えているのは、この個人主義が生み出す「自分だけ」という考え自体が「罪」となっていると教えているのです。聖書が教えている「罪」とは根本的なところで神様との関係が破れてしまっていることです。聖書で「罪」は「的外れ」という意味を持ちます。つまり神様の御心から「的外れ」の方向を向いて生きているということです。そして神様の御心を簡単に言えば、「他者を愛する」ことであり、的外れな生き方、罪は「自分だけを愛する」こと「自己愛」に生きることです。神様は、他者と関係を持ち、傷つけ、傷つけられながらも、お互いを大切に思い、関係を作っていくこと、共に喜び、共に泣く者となることを求められているのです。

 

2:  赦し

 「互いに愛し合いなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」と神様が教える中で、教えられた祈り、それが今日の祈りです。「わたしたちの負い目を赦してください」「わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。」(12)この祈りが「わたしたちの負い目を赦してください」で終わっていれば、それほど考えずに、お祈りすることができるでしょう。しかし、ここでは「わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。」と続いているのです。このようになると、まずは、私たち自身がどれだけ人を赦すことができているか考えさせられるのです。そのため「人を赦さなければ、赦されない」「自分には人を赦すことができない」と考えてしまい、この主の祈りを祈ることができないと、なってしまうこともあるのです。

 この祈り「赦される者として赦す」ことを理解するためにイエス様は一つの例話を話されました。マタイ18:23-35に記されているお話ですが、お話を要約してお話しますと...

 「ある家来が王様に一万タラントン、今の日本円で言えば、だいたい3,000億円ほどの借金をしていたのです。あるとき、王様が借金を返済するように命じたのですが、家来は、そのような多額の借金を返済することはできませんでした。王様はそのような家来を憐れみ、その多額の借金を帳消しにしたのです。しかし、その家来は、そこから帰る時、自分に100デナリオン、日本円で言えば50万円ほどの借金をしている仲間に出会ったのですが、その家来は仲間の首を絞めて「借金を返せ」と言い、結局その仲間を赦さないで、牢屋に入れてしまったのです。そして、その話を聞いた王様は、怒り、仲間を赦さなかった家来を牢屋にいれたのです。」

 このようなお話ですが、ここでは、3000億円とされていますが、それは、私たち人間では考えられないほどの大きな借金です。その返済などできないほどの大きな借金、つまり、赦されるはずのないほどの、大きな「負い目」つまり「罪」を、私たち人間はもっているということです。そして主人である神様は、その考えられないほどの借金、人間の罪を赦されているということなのです。

 私たち人間は、神様に赦されて、愛されて、生かされているのです。しかし、このたとえに出てくる家来は、その赦しを、恵みとして受け取ってはいかなかった。主人の憐れみの心を理解しなかったのです。そして、自分に借金をしている人を赦すことができなかったのです。

 私たちはこの神様の赦してくださっている偉大な恵みに気付いているでしょうか。今日の祈りでは、「わたしたちの負い目を赦してください」「わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。」とあるように、「赦される」ことと「赦す」ことがつながっているのです。「赦される」ことと「赦す」ことがつながっているのは、私たちが確かに赦されていることに気付いているのかを確かめる祈りでもあるのです。神様に「赦してください」と祈るとき、それは「赦す」ことにつながっている、そして「愛してください」という祈りは「愛する」ことにつながっているのです。

 

3:  赦しによって憎しみから解放される

 そしてまた、「赦すこと」は、実は自分自身を苦しみから解放することにつながっているのです。先日ある相談の電話がありました。その内容は「自分は小さいころから親にも嫌われ、兄弟の中でも損をして生きてきました。そして学校ではいじめられて、そのような嫌な人生ばかりでした」というのです。そして「どうしてもあの人たちを赦すことができません。」「今でもいじめていた人が憎く、恨んでいます」。そして、「そのような人を恨んでしまう自分が好きになれない」というのです。「恨み」「憎しみ」「憎悪」は人間の心を奥深くまで支配していきます。「赦すことができない」こと。それはとても苦しいことです。どうしてもいつも頭の隅に、「怒り」、「憎しみ」が生まれてしまうのです。

 イエス様はマタイにおいて、主の祈りを教えるにあたって、まず9節で「6:9 だから、こう祈りなさい。」として、祈りを教えられています。これはイエスア様による「このように祈りなさい」という、命令としての祈りでもあるのです。イエス様は、心に憎しみが残っていて、苦しく、赦すことなどできないという私たちに「赦します」と「祈りなさい」と言われているのです。苦しくても、心の中ではどうしても「憎しみ」が生まれてしまうとしても、そしてそれだからこそ、あなたは「赦します」「赦してください」と「祈りなさい」と言われているのです。私たちがイエス・キリストを自らの主と告白することは、このイエス様の命令を受け入れることでもあります。「わたしたちの負い目を赦してください」「わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。」という祈りは、「赦し」の決意の祈りでもあり、それは「解放」をいただく祈りでもあるのです。

 

4:  誘惑に遭わせないでください

 次にイエス様は「6:13 『わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』」と祈るように教えられました。

 この「誘惑」という言葉は、もともとの言葉では「試練」と同じ言葉となっています。そのため、「試練」と「誘惑」はとても近い言葉であり、実際、私たちが祈っている主の祈りでは「試み」という言葉となっているのです。「誘惑」とは、私たちを神様の愛、神様の恵みから引き離すものです。 「つらい経験、苦しいこと、失敗、空腹、貧しさ、そして怒りや憎しみ」は、私たち人間を「こんな人生を与える神様など信じられない」という心にさせていきます。そして逆に「良いこと、成功、満腹、富んでいること」もまた「自分には力がある」「神様なんて必要ない」という心にさせていくのです。

 旧約聖書の箴言では、このように祈っています。「30:7 二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。30:8 むなしいもの、偽りの言葉を、わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください。30:9 飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません。」(箴言30:7-9)

 この祈りは「誘惑の恐ろしさ」と「私たち人間の弱さ」をよく捉えている祈りだと思います。「誘惑」というものは、あらゆるもの、「富や満腹、成功や力も、そしてまた、貧しさや空腹、失敗や無力」、そのすべてのものが「誘惑」、「神様から私たちを引き離すもの」になってしまうことがあるのです。しかも、聖書が教える「誘惑」は、わたしたちに「偶然に」「たまたま」出会うものではなく、「私たちに会いにくる」もの、わたしたちのところに来て「引きずり込む」ものなのです。だからこそ、わたしたちは「誘惑に遭わせないでください」と祈る必要があるのです。

 この祈りを教えられているイエス様ですが、イエス様ご自身もまた「誘惑」に出会われたのです。イエス様の前に「誘惑する者」が現れました。「誘惑する者」は人間が神様から離れるように、日々働いているのです。イエス様には「石をパンにするように」誘い、最後には、「私を拝むなら」と誘うのです。そして、それだけではなく、イエス様は、十字架に向かう中で、「死」と「恐怖」という「誘惑」の中で、「この杯を取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈り、心に葛藤を持ちながら、その誘惑に向き合いながら、そのうえで、十字架の道を生きて行かれたのです。イエス様は、最後まで主なる神様に従い続けました。イエス様は、誘惑に打ち勝たれたのです。

 しかし、そのイエス様の弟子たちは、イエス様が一番苦しいときに、イエス様を見捨てて逃げ出したのでした。「恐怖」という「試練」、その「誘惑」に弟子たちは打ち勝てなかったのです。これが私たち人間です。私たち人間は、その弟子たちに表されるように、苦しみ、痛み、恐怖の中で、その誘惑の時に、神様から離れてしまう者なのです。そして、だからこそ、私たちは「6:13 『わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』」と祈るように、祈り続けるように、教えられているのです。

 

5:  祈り続ける

 わたしたち人間は弱く、もろい者なのです。どれほど心を燃やしても、その肉体は弱いのです。どれほど信仰を強く持っていても、その思いは簡単に打ち砕かれてしまうのです。主は、そのような私たちに「誘惑に遭わせないでください」と、そしてそれは「弱い私を赦してください」と、そして「あなたを愛する心、従う心を与えてください」と「祈る」こと、「祈り続ける」ことを教えられているのです。 私たちは、誰一人として、一分一秒でも、その命を自分で生きている人はいないのです。すべてのものが、神様に命を与えられ、守られ、生かされているのです。そしてそれは、神様が、その者を愛して生かしてくださっている。その存在を喜んでくださっているということなのです。神様は、私たちを愛し、共にいて守ってくださっているのです。私たちは、新しい一日が始まる時、神様に「今日一日、守ってください」と祈りたいと思います。「神様、今日もすべてをあなたに委ねます」と祈り続けたいと思います。

 主が私たちを愛してくださっている。その恵みに信頼し、祈り続けていきましょう。(笠井元)