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2018.3.18 「神の恵みを分かち合う」 (全文) マタイによる福音書6:11

1:  パンの大切さ

 イエス様は祈りを教える中で、「6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」と祈るように教えられました。ここまでは「6:9 御名が崇められますように。6:10 御国が来ますように。御心が行われますように」とあるように、「神様」のことを祈りました。そして今日の祈りから「わたしたち」の祈りと変わっていきます。そしてここから、イエス様は、「わたしたちを赦してください」「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と「わたしたち」の祈りを教えていくのです。「わたしたち」の祈りに移っていく中で、イエス様は、その一番最初に「必要な糧」つまり「パン」のために祈ることを教えられます。イエス・キリストによる十字架と復活を福音の中心とするキリスト教においては、「罪の赦し」「誘惑からの守り」のほうが大切だと言ってもよいのでは・・・とも思うのです。しかし、ここではそれらよりも「パン」についての祈りが先に来ているのです。ここから、「パン」つまり「食べ物」の大切さを教えられるのです。「暮らす」ことは「食らう」こと、つまり「食べる」ことからきているともいわれているのですが、生きることは、食べることと切実に結びついていて「食べること」を抜きにして、暮らすこと、生きることは成り立たないのです。私たち人間において、「生きる」ことと「食べる」ことは強く結びついているのです。

 そして、それは「必要な糧を今日与えてください」(11)と言うのです。ここにおいて「必要な」と訳されている言葉は、聖書の別の箇所にも、そのほか古い文献のどれにも出てこない言葉であり、訳すことがとても難しい言葉なのです。そのため似たような言葉から意味を解釈していくのですが、その解釈は大きく4つに見ることができます。

 一つ目には「今日の」「日毎の」という意味です。そして二つ目には「明日の」「将来の」とも解釈することができるのです。そして三つ目に「生きるのに必要な」「生活に不可欠な」と、そして四つ目には、「次の」・・・つまり昼なら夜、夜なら次の日の朝。このように四つの解釈をすることができるのです。この四つの解釈の中で、「必要な」「日毎の」という理解と共に、「次の」や「明日の」という解釈があることに、私たちが求める「食べ物」「命」の広がりを見ることができます。

 わたしは、どこかで、今、現実、今回の糧だけを求めることが「生きることに必要な糧」を求めることになると思っていました。そのような中で「今日の」「日毎の」糧と同時に、「明日」「次」の糧を求めることが「必要な糧」を求める祈りであるということに、その祈りの広がりを感じるのです。「次の糧」を求めることは、私たちが「生きるのに必要な糧」を求めることにつながる。「明日の糧」を求めることが「生活に不可欠な糧」を求めることにつながるのです。

 

2:  パンを得ることの切実さ

 ただ、わたしたちは現実において、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」という祈りを、どれだけ切実に祈ることができているでしょうか。特に、現在の日本においては、どうにかすれば、何らかの食べ物を得ることができると言うことができる。最近では、貧困の子どもたち、食べることがままならない人が増えてきているといいます。しかし、それでもやはり、今の日本の現実において、まったく何も食べることができない人は、少ない、ほとんどいない、と言えるでしょう。そのような現実のなかで、私たちは、この祈り、「必要な糧を与えてください。」という祈りをどこまで切実に祈ることができるでしょうか。どちらかと言えば、食べ物を得ることよりも、罪の赦し、そして誘惑から逃れることについてのほうが、必要だと思うのかもしれません。

 しかし、それは、「わたし」、そして今の日本における現実です。この主の祈りは「私たち」の祈りなのです。「私」は今、食べ物が目の前にある。だから、それでよいということではないのです。「私たち」と祈る時、私たちは、わたしの現実だけではなく、隣人を見て、他者を見つめ、世界を見わたす必要があるのです。

 現在の世界を見渡す時に、必要な糧、食べ物を得ることができている人がどれだけいるのでしょうか。現在この地球には70億人ほどの人口となり、その中で、飢えに苦しむ人は8億人以上に達し、一分間に17人の人が飢餓でなくなっているのです。世界の一番の死亡原因は飢餓だと言われています。これが、私たちの現実です。目の前には食べ物があったとしても、「私たち」の現実としては、これほどの隣人が日々の糧を得ることができず苦しんでいるのです。実際、私が学生のころの話ですが、砂漠化する中国の北西に、木を植えに行った時のことですが、そこにいた人々の生活の貧困は、わたしの想像を超えたものでした。そこで出会った子どもたちの食事は、一日大根一切れだけでした。それでもまだ食べ物があるだけいいと言っていました。これが世界における貧困に生きる人々の姿です。しかも、地球上の食べ物を全部合わせると、地球人70億人の全員を養うことができるだけの食べ物があると言われています。つまり、飢えや飢餓は、ただ食べ物がない、食料不足だということではなく、食料の分配ができていないということができるのです。確かに日本では多くの食べ物が、消費期限を過ぎて、捨てられているのです。ここに、私たちの生き方が問われているのです。

 私たちは、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」と祈るのです。それは隣人の食べ物、他者の必要な糧を、今日与えてくださいと祈っているのです。この祈りを祈るときに、私たちは、必要な糧が与えられるために、分かち合うこと、食べ物を共に喜ぶことが求められているのです。

 「分かち合う」こと「共にいただくこと」が求められているのです。しかし、食べ物は人間の弱さ、エゴイストをとてもよくあらわすのです。食べ物は、人間を一番に分かち合う者から、取り合う者とするのです。助け合い、力を合わせると言っても、食べ物の問題となったときに、「まず自分のための食べ物の確保が先になってしまう」姿があるのです。自分を捨ててまで、他者を助けることができる人がどれだけいるでしょうか。自分人間の弱さをあらわにするのが、「食べ物」であるのでもあります。

 

3:  パンを求める 神に養われている人間

 そして、だからこそ、イエス様はこの祈りを教えられたのでもあります。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」。私たちは、この祈りによって、自分だけ、自分中心の思いから解放されていくのでもあります。私たちは「神様、私たちに必要な糧を与えてください」と祈るのです。「わたしたち」のために祈るのです。自分がだれかのために生きる、その一番最初の行為として、祈ることができるのです。わたしたちは自分がどうこうする前に、まず、「神様、わたしたちを養ってください」と祈るのです。「あなたが、私たちの養い主です」「あなたが、私たちに命を与え、生かしてくださっている」「あなたがどうか、この世界の一人ひとりを養い、生かしてください」と祈りたいと思うのです。この世を創造し、今も養い、守られている方は、この世界に「わたしたち」に必要な糧を与えてくださる。そのことを信じて祈りたいと思うのです。

 現在、夜の祈祷会では、私の時は出エジプト記から学んでいます。出エジプト記は、その名前のとおり、エジプトから脱出していくイスラエルの姿が記されているのです。奴隷としてエジプトにいたイスラエルが救い出されていくのです。イスラエルの民は、その後、荒野を歩き続けるのですが、その時に、飲み物、食べ物を得ることができないと、何度も神様に不平不満を言うのです。そのようなイスラエルの民に向けて神様は、食べ物としてマナを、そして肉としてウズラを与え、様々な場所において水を与えたのです。ここでは、神様が人間を養い、生かしてくださっていることを学びます。神様は、この世界を創られた方であり、今も私たち一人ひとりに命を与え、生かしてくださっているのです。

 そして、その、私たちの命の養い主である神様がこのように言うのです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:2-3)

 

4:  わたしが命のパンである

 わたしたち人間は、パンなしでは生きることはできません。しかし、パンだけが人の命を生かすのでもないのです。わたしたちはまず、神様の意志、神様の言葉によって生かされているのです。どれだけ食べ物、飲み物、財産をためても、その命は神様が支配されているのです。生きていくために、備えることは大切なことです。しかし、人間は食べ物だけで生きるのではないのです。私たちは神様によって生かされている。その愛によって満たされて生かされ、そして生きる命を与えられているのです。

 

 マザーテレサのお話でこのようなお話がありました。

 「忘れられないことですが、ある夜一人の紳士がやって来て、8人の子どものいる家族がいて、このところ何も食べていない様子なので、彼らのために何かしてあげてください」と言いました。そこで私は、お米を持ってその家へ行きました。母親はお米を受け取ると、ふたつに分けて、出て行ったのです。子どもたちの顔には飢えがはっきり表れていました。母親が戻ってきたとき、どこに行っていたのかと尋ねました。彼女の答えは簡単でした。「あの人たちも、おなかをすかしているのです」“あの人たち”とはお隣の家族のことで、彼女は、彼らが何も食べていないことを知っていたのです。私は、彼女がお米を分けてあげたことに驚いたのではありません。彼女がその事実を知っていたということに驚かされました。分かち合う愛のあるこの母親の顔が幸せに輝いているのを見るのは、なんとすばらしいことでしょう。私には、いったいいつから何も食べていなかったのかを尋ねる勇気はとてもありませんでした。けれど、かなり長い間であったことは確かでしょう。それなのに、この母親は彼女の苦しみの中で、悲しみの中で、肉体的なひどい苦痛の中で、なお、隣の家族も飢えているということを知っていたのです。私たちは、周りの人たちが愛を必要としていることを知っているでしょうか?この家族が示してくれた手本のように、神は、決して私たちのことを忘れたりなさいません。そして、そこにはいつでもあなたや私にできることが必ずあるのです。」

 私たちは、隣の人のことをどれだけ知っているでしょうか。「6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」それは「わたし」ではなく「わたしたち」の糧をいただくための祈りです。そしてそのためには、私たちは隣の人を知る必要があるのです。この、隣の人のすべてを知るために、私たちの隣に来てくださり、私たちを知ってくださったのが、イエス・キリストです。神様は、自らがまずこの世界にイエス・キリストを送って下さり、「わたしたち」の一人となってくださったのです。わたしたちがまずできることは、この神様の愛を信頼すること、そしてその神様の愛を受けて生きることでしょう。神様が、私たちを生かす言葉、そして私たちに与えてくださっている生きる命の言葉。それは、「私はあなたを愛している」という言葉であり「わたしがあなたを愛しているように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という言葉なのです。

 ホームレスの人々におにぎりとお味噌汁をくばる、おにぎりの会を手伝っていた時のことですが、ある方が、「わたしが本当に欲しいのは、食べ物ではなく、お話をする人なんだ」「一緒に生きる人がいなくなり、生きる意味をなくしてしまったこと、これが本当に自分が失ったものだ」とおっしゃっていました。神様は、私たちを愛し、命を与え、養ってくださいます。それはただ食べ物を送られるだけではなく、御子イエス・キリストを送ってくださったことによって示されたのです。

 神様は、自らの命をかけて、私たちと共に生きてくださっているのです。わたしたちは孤独ではないのです。神様は「あなた」を必要としている。「あなた」の存在を喜ばれている。「あなた」一人ひとりのために命をかけて共にいてくださっているのです。ここに私たちが生きる希望があるのです。

 イエス様は、ヨハネ6:3で「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)と言われました。私たちは、このイエス・キリストという命のパンをいただきましょう。そしてまた、キリストの愛につなげられている者として「わたしたち」として共に生きていきたいと思います。(笠井元)