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2018.3.4 「神様の御心を求めて」 (全文) マタイによる福音書6:10

1:  わたしたちが求めているもの

 前回から「主の祈り」を学んでいます。今日の箇所では2つのこと「御国が来ますように」、「御心が行われますように」と祈ります。二つの祈りの中心にある思いを簡単に言いますと、「私たちが、自分自身が求めているものではなく、神様の御心を求める者となるように」ということです。

 私たちがお祈りをするとき、普通どういうお祈りを考えるでしょうか。「なになにをしてください」というお祈りが多くなるのではないでしょうか。たとえば「健康が支えられますように」「仕事が守られますように」「明日は遠足だから、晴れますように」「病気にならないように」「大きな事故が起こらないように」・・・また「大学に合格できますように」「試合で勝てますように」・・・このような祈り「神様お願いします」という祈りが悪いということではありません。

 わたしたちは、どのようなときにあっても「神様助けてください」「守って下さい」と祈ること、頼っていくことは一つの大切な信仰の祈りの形だと思います。

 ただそれが、「私の思いが実現しますように」「願いをかなえてください」・・・そして「私の思い、願いを聞いてくれなければ、わたしは神様を信じません」「神様なんだからできるでしょう。できなければあなたは本当の神様ではない。」となると少し意味が変わっていくのです。このようになると、その祈りは、神様が私たちの願いを聞く者であり、神様が私たちの言うことに従うことを願っていくものとなっているということができるのです。このような祈りのうちには「わたしが求めているものが良いものだ」という思いがあるのでしょう。しかし実際、私たちが求めているものは、それが本当に一番良いものなのでしょうか。

 アマゾンの環境と開発について研究し語る、ある先生は「私たちの願望は非常に短い期間のことでしかなく、非常に狭い視野に基づいている」と言われています。人間は、「こうすればより住みやすくなる」「こうすればより幸せになる」と考えて開発をするのですが、その視野はとても狭く、しかも自己中心的なものばかりだと言うのです。

 漁業開発のために日本がアジアの国に大型漁船を送ったところ、確かに魚がよく獲れて、最初はその地域の人々の生活も楽になったそうです。しかし、魚が獲れすぎて、五年後にはその地域に魚がいなくなってしまったそうです。また、アフリカのある国の食糧難に対して、人道的に食料援助をしたところ、爆発的な人口増加をもたらし、かえって大きな問題になってしまったという話もあります。(松本敏之著「マタイ福音書を読もう」p.170参照)

 

 私たちの見ることができる未来は、とても狭く短いものなのです。一時的に良くなったと思ったことでも、その後もその良さがどこまで続くか、保証はできないのです。そのような私たちにイエス様は「御心が行われますように」と祈るように教えるのです。「神様の御心を求める」ことは、「自分の力で生きよう」「自分で生きなければならない」という縛られた思いからの解放へ導くのです。

 以前の教会でのことですが、ある方が、人生の問題の中で、八方ふさがりの中、自分でどうにかしようとすればするほど、苦しく、どうすることもできなくなっていった。その中で、聖書の御言葉「6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:31-33)という御言葉に出会ったそうです。

 この御言葉に出会った時に、自分が求めていた順番が、逆だったことに気がつかされたそうです。人生の中で様々なものを求めていた。困難になればなるほど、その思いが強くなっていた。苦しければ苦しいほど、神様に求めるより、礼拝するより、祈るより、自分でどうにかしようと思っていた。しかしこの御言葉によって、まず神様の御心を求めることが先だったと気づかされたそうです。なによりもまず神様を求める。神様の御心を求めること。それは自分の思い、「自分の力で生きよう」、「生きなければ」という思いから解放されます。私たちの生きる道は、神様が守っていてくださるのです。神様が私たちの命を守り、今も日々の命を養ってくださっているのです。私たちは神様に信頼することが許されているのです。

 

2:  神様の御心

 イエス様は「神様の御心を求めるように」と教えます。では、この神様の御心はどこにあるのでしょうか。神様の御心を一言で言えば「私たち一人ひとりを愛してくださっている」というところに神様の御心があるのです。イエス様はこのように言われました。「18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ18:14)「6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:39-40)神様の御心は、「小さな者が一人も失われることなく、永遠の命を得ること」なのです。神様は私たちの誰ひとりとしても見捨てることはありません。すべての者が神様の愛によって喜んで生きることができることを求めておられる、それが神様の御心です。

 わたしたちはこの神様の御心、愛を素直に受け取っているでしょうか。先ほども話しましたが、私たちは自分の狭い視野で、「自分で生きなければ」と思い込んで、時に、神様を必要としないことがあれば、時に、自分にはだれからも愛される価値もないと思ってしまうことがあるのではないでしょうか。私たちには、「神様の愛を必要としない」ほど、傲慢になることもあれば、「自分は愛される価値がない」と考えてしまう「弱さ」を持つのです。

 先日、ある保護者と話をしている中で、「わたしは人間と人間が関係を作り、互いに愛し合うことができるようになるのは、すべてその人の努力によるもので、神様などは関係ないと思います」と言われました。確かに、お互いを大切にするためには、一人一人の努力が必要だとも思います。ただ、この言葉を聞いたとき、わたしには、自分の力だけに頼る傲慢な言葉に思えたのです。わたしたち人間が、お互いを愛すること、お互いの関係を作りだすことには、どこかで限界があると思うのです。「なぜお互いを大切にするのか。弱い者、貧しい者、病の中にある者と共に生きるのか。」それは、自分自身も、隣人も、その他、すべてのものが神様に愛されているからです。私たちが、他者を受け入れるためには、神様に愛されているという土台が必要なのだと思うのです。

 わたしの知り合いに「自分には価値はない」とよく言う人がいました。いつも暗い顔で、他者との関係も作ろうとはしませんでした。そのなかで神様の愛、神様についての話を聞いていく中で、「自分は生きていていいんだ」「神様の前にあって自分は愛されていて、価値ある者とされているのだ」と思うようになったのです。

 神様は人間を愛されたのです。神様は人間を愛し、イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。イエス・キリストは、貧しい者、病気の中にある人、そして罪ある者とされた者と共に生きたのです。神様は誰ひとり見捨てることなく、すべての者を愛し、全ての者と共に生きているのです。わたしたちは神様に愛されているのです。私たちの人間の一番の間違いは、この神様の愛を受け取らないことでしょう。自分は自分の行いによって生きる価値のある者とされているのだから、神様など必要ないと思うこと、また自分の罪や間違いから、愛される価値もない、愛される必要もないと考えること、この思いが最大の間違えなのです。神様の愛は、私たちが考えるほど小さいものではないのです。神様の愛は主イエス・キリストの命がかけられたほどに大きく、重たいものなのです。わたしたちがこの愛の広さをきちんと知ることが、本当の悔い改めとなるのです。

 

3:  御心が行われますように

 私たちはこの神様の愛を喜んで受け取りたいと思うのです。では、私たちが生きる中で、神様の御心に従って生きるためには、具体的に何をすればよいのでしょうか。私たちは「あれをしなさい、これをしなさい」「あなたはこちらに行きなさい。あなたはあちらに行きなさい」とはっきりとした形で、神様の声を聞くことができるわけではないのです。そのような意味では、私たちは、神様の御心を受けて生きていこうと決心しても、時に間違え、時に自分勝手に生きてしまう者でもあるのです人間には、すべてがすべて神様の御心に生きることができるわけではないですし、神様ご自身も、人間がすべて自分の思い通りに生きることを求められているわけではないと思うのです。

 聖書は「8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)と教えます。「万事が益となる」。神様の御心を求めつつも、別の道を選んでしまい失敗ばかりしてしまったとしても、神様は、その私たちの間違いや失敗を「益」としてくださるのです。

 「御心が行われますように」。私たちが神様の御心に生きるためには、この祈りを祈り続けることによってなされるものなのです。人生の分岐点、生きる道を選ばなくてはならない時、決断して歩きだす時、何度も何度も祈り、神様の御心を求めます。しかし、祈りはそこでは終わりではないのです。その後、決断の後にも「御心が行われますように」と祈り続けることによって、「間違っていた時には、もう一度御心の道へと導いてください」、と祈り続けるのです。

 「御心が行われますように」という祈りは、私たちにとっては愛をいただく、救いの祈りでもあると同時に、私たちが生きたくない道へと導かれていくかもしれない、それでもその道を受け取る、とても厳しい選択を迫られる祈りとなるのです。イエス様は、その心の葛藤の中で、神様による愛を受け取り祈りなさいと教えてくださっているのです。

 

4:  御国が来ますように

 順番が逆になりましたが、今日の箇所において、イエス様は「御国が来ますように。」と祈るように教えます。「御国」とは、いわゆる「天の国」「神の国」です。10節最後には、「天におけるように地の上にも。」と教えられていますが、「天の国」とは、すでに神様の愛が完成され、神様の愛で満たされていることを意味しています。「御国が来ますように。」という祈りは、この神様の愛が地上に置いても、満ち溢れますようにという祈りになります。

 イエス様は神の国について、このように教えます。17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(マタイ17:20-21)神の国は「ここにある」とか「あちらにある」と「あの国にある」「あの山の上にある」と、そのようなものではないのです。そうではなく、神様の国、その愛の支配は、私たちの間にあるのです。わたしとあなた、その人間と人間の間にあって、神様の愛が表されるのです。

 

 私たちが、「御国が来ますように。」と祈ることは、神様の「御心」を求め続けて生きることだと言うことができるでしょう。私たちが神様の御心を求め続けて生きることは、「やがて神様の愛があふれるようになるように」と願い、生き続けることにつながるのです。神様の愛は、イエス・キリストによってすでに表され、その愛の恵みは始まったのです。すでに始まった神の国、神様の愛は、やがて、すべての人間の心の中に来て満たして下さるのです。やがて「御国が来る」ことを信じることは、希望の出来事です。

 他者から裏切りにあい、考えもしなかった病気になり、苦しみ、痛み、絶望の淵に立たされていようとも、わたしたちは「御国が来ますように」と、祈り、生きる希望をいただくのです。神様の愛が完成されることを願い「御心を求めて」、希望をもち、歩き出したいと思うのです。

 私たちが本当に願うことは、「御国が来ますように」・・・神様の愛によって、この地上が満たされ溢れるという願いです。わたしたちは、主イエス・キリストによる愛を信じて祈り続けましょう。そして、私たち自身が、その祈りに与り、主の愛を表す者として働いていきたいと思います。私たちはすでに神様の愛を教えられたのです。この愛を受け取り、やがてくる神様の愛の完成のために生きていきたいと思います。(笠井元)