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2018.2.25 「神の恵みの善い管理者」 (全文) Ⅰペトロの手紙4:10-11

《私たちは賜物を授かっている》

 今日の聖書箇所には、こうあります。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。

 聖書は私たちに、「あなたがたはそれぞれ、賜物をさずかっているのだ」と言います。神様から賜物を与えられているのは、誰か選ばれた人だけではありません。わたしたち一人ひとり、それぞれに賜物が与えられているのです。一人一人、賜物を授かっているのだから、その賜物を生かして互いに仕えるようにと、私たちは勧められています。それは、何も考えずにただ人に仕えるのではありません。「神のさまざまな恵みの善い管理者として」、私たちは互いに仕えるのです。

 私たちはそれぞれ、神様から賜物を授かっています。そして神様は私たちを、神の恵みの管理者として召しておられるのです。

 

《賜物とは》

 では、賜物とは何でしょう。皆さんは「賜物」と聞くと、何を思い浮かべるでしょうか。おそらく多くの人は「賜物」と聞くと、自分の長所だったり、自分の特技などを思い浮かべるかと思います。何か自分にできること、何か人より上手なこと、何か人に負けない良いところなど、自分が持っている何かキラリと光るものを「賜物」と言ったりするのではないでしょうか。言い換えれば、人に誇れることや、人の役にたつこと、人が喜んでくれることなど、人の目に「良い」と映るものを、「賜物」だと考えていると思います。

 もちろんそれらは、その人に神様が与えてくださったキラリと光る、素晴らしい「賜物」に違いありません。しかし「賜物」とはそのように、人の目に「良い」と映るものだけではないのだと思います。

 

 私は牧師になる事を決め、西南学院大学に入学して福岡にきました。その時私は、自分のギターを沖縄の実家に置いてきました。

 私は抜群に上手いというわけではありませんが、それなりにギターを弾く事ができます。家にいるときには、テレビなんかを見るよりかは、ギターを弾いてる方が好きでした。そんな私でしたので、福岡にギターを持ってきてしまっては、ましてや寮の自分の部屋にでもギターを置いてしまっては、勉強など手につかなくなると考えたわけです。そこで私は、福岡にいる間はギターに触らない事を心に決め、自分のギターに別れを告げてここに来ました。

 西南に入った最初の年、私は姪浜教会で研修をさせていただきました。私はすぐに、教会の隅にギターが置いてあることに気がつきました。けれども私は、今はギターから離れなければいけないと思っていたので、しばらくそのギターに触れることはありませんでした。

 しかしある日、私は我慢できなくなり、教会で時間を持て余してる時に、少しギターを弾いてしまいました。その時に、私がギターを弾けるということが、公になってしまったわけです。それでも私は、必要でない限りギターを触らずに過ごしていました。

 ある日、教会の一人の青年が私にギターを教えてほしいと言ってきました。頼みごとをむげに断りたくもなかったので引き受け、その人に礼拝の後などにギターを教えはじめました。すると、他の青年もギターを習いたいと言いはじめ、1人また1人とギターを始める青年が増えていきました。気が付けば教会の青年会は、ギターサークルのようになっていました。そして青年たちは、礼拝後に教会堂に残って、ギターの練習をする事が習慣になりました。

 そうやって青年たちが、礼拝後にも教会堂に残って活動していたので、礼拝に来れなかった人が午後に顔を出したり、また青年たちが兄弟や友人を連れてきたりと、教会が嬉しい交わりの場となっていきました。そのことで、青年たち同士、また牧師や他の人たちとの関係も深まっていきました。何より、みんなでギターやパーカッションを奏でながら、楽しく賛美の歌を歌うその時間が、とっても嬉しい時でした。

 

 そんなとき、青年達から「夕礼拝をしたい」との声があがりました。そして礼拝形式やプログラム、主の祈り等についての学びをし、昨年(2017年)の3月から、青年会の運営で夕方の礼拝が始まりました。その夕礼拝は、メッセージ以外は青年たちが担っています。司式と賛美リードをする人、ピアノやギター等で賛美の伴奏をする人、ポスターを作ったり、ホームページに案内を載せる人、それぞれが賜物を用いて、素敵な礼拝がなされています。そしてその夕礼拝は、若い人や初めての人が参加しやすいように工夫されています。実際に、青年たちが友人を連れてきたり、また他の教会の人や神学生も参加したりしています。

 

 私はこんなことになるなんて、思ってもみませんでした。私はただ、ギターの弾き方を教えはじめただけでした。自分にできる以上のことは、何もしていません。今日の聖書箇所にあるように、「神がお与えになった力に応じて奉仕」しただけです。しかもそれは、私が、「神学生の間は、必要無い」と考えていたものでした。しかし神様がそれを用いて、教会の青年たちの活動を促し、青年一人ひとりを、積極的に教会の業を担う者へと変えていきました。そして、夕礼拝という大きな実りを私たちに与えてくださいました。

 

 神様は、私たちが自分では必要ないと思っていることさえ、豊かに用いてくださいます。私たちが必要無い、恥ずかしい、欠点だと思うような部分でさえも、神様からの賜物なのです。

 姪浜教会の青年の中には、お世辞にもギターが上手くなったとは言えない人もいます。だけど誰よりもその人が熱心に取り組み、本当に楽しそうにギターを弾くんです。私や他の青年たちは、本当にこの人に励まされました。その青年は今は、ギターを弾くことよりも修理する方に趣向が変わってきて、自分で修理したギターを他の青年にあげたりしています。これもまた、賜物を生かして人に仕える姿だと思います。

 

《管理者として召されている》

 ペトロは手紙の中で、あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。と言います。読者に対して、「あなた方は賜物を授かっており、管理者なのだ」と言います。

 この「管理者」という言葉は、新約聖書で度々使われています。例えばイエスの例え話の一つ、「不正な管理人」の「管理人」や、パウロが手紙の中で、「監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです」と語るところなどです。

 このように「管理者」という言葉が使われているところでは、そのほとんどが、「管理者」とはある特定の人を指しています。神に選ばれた人だったり、例えの中で登場する特定の人物などです。

 しかしペトロは、その読者すべてに対して、あなたがたは管理者なのだと言います。これは注目すべきことだと思います。

 

 ペトロがこの手紙を書いたのは、遠い異国の地に散ったキリスト者、あるいはそこで信仰を持った異邦人キリスト者を励ますためでした。手紙の冒頭には、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」とあります。ここに挙げられた国は、エルサレムなどのあるパレスチナ地方から離れた国々です。その異国の地に住むキリスト者、その地の教会にむけて、この手紙は書かれています。

 当時はまだ、イエス・キリストを救い主と信じる人は少数でした。さらに異国の地に散っていき、そこに住むキリスト者は、肩身の狭い思いをしていた事でしょう。この手紙からも、当時のキリスト者が困難の中にあったことが伺えます。彼らはその信仰の故に、迫害にあったり、また偏見や政治的圧力の中にいました。

 日本に生きる私たちも、その信仰の故に苦しむという経験があるかと思います。私は中学生の時、学校の修学旅行で太宰府天満宮に行きました。そこでお参りしたわけではありませんが、当時の私にとってそれは、心の痛むことでした。自分の信仰に反することに、当たり前のように参加させられるのは苦しいことです。このとき私は、そこに行くのを断ることもできたかもしれません。しかし、一人だけ行かないことで、後で迫害を受けるかもしれないという恐れもあったわけです。

 ペトロもこの手紙で、「今しばらくのあいだ、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれません」と言っています。現代の私たちと同じように、あるいはそれ以上に、ポントスやガラテヤ、カパドキア等の異国の地に散っていった、よそ者のような当時のキリスト者は、その信仰の故にさまざまな苦しみにあい、困難の中にいました。彼らはその国の文化や宗教、政治などによって、抑圧され、虐げられていたのだと思います。社会的に見ると彼らは、多数派や権力者に押さえ込まれた、力の無い小さな存在です。つまり管理される側の人間であったわけです。

 

 ところがそのような人々をペトロは、「選ばれた人たち」と呼び、「管理者」なのだと言うのです。それも、「神のさまざまな恵みの善い管理者」です。そしてこれは直接、私たちにも言われています。私たちはこの社会で、人の権威や権力、あるいはお金などに管理されているかもしれません。しかし、この世界のどんなものにも勝る神の恵みの管理が、私たちに任されているのです。

 

《恵みの管理者とは》

 では、私たちは何をすれば良いのでしょうか。聖書にはこうあります。

 

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。」

 ここで聖書は、「賜物を生かして神に仕えなさい」とは言いません。賜物を生かして、私たちに互いに仕えるようにと教えます。私たちが隣人を気にも留めず、互いに仕えることをないがしろにするなら、「私は神に仕えている」と言うことはできません。神様が求めていることは、私たちがそれぞれの賜物を生かして互いに仕え合うことです。語る者はふさわしく語り、奉仕をするものは、その力に応じて奉仕することを神は求めています。

 では、賜物を生かして互いに仕えるとは、どういうことでしょうか。

  2ヶ月前になりますが、去年のクリスマスには久しぶりに聖歌隊を結成し、クリスマス礼拝で聖歌隊が素敵な賛美をしてくださいました(聖歌隊には私も入っていましたので、自画自賛になりますけれど)。

 でもあの時、聖歌隊の中で、「私は歌がうまい」と自負していた人は1人もいなかったと思います。それどころか、「私は歌が上手ではない」「大きな声も出ないし、きれいな声も出せない」「私が聖歌隊にいては迷惑ではないだろうか」そのように思っていたはずです。(間違っていたらごめんなさい)

 しかしそういう気持ちや弱さを抱えながらも、教会と神様に仕えたい、少しでも役に立てるならと集い、練習を重ねてきました。そしてクリスマス礼拝で賛美を捧げた時、本当に素敵な賛美となりました。普段の礼拝では、人の前に立つことも無いような一人ひとりが、弱さを抱えながらもその力に応じて仕えたことで、クリスマス礼拝で素敵な賛美を捧げることができたのです。そこでは、聖歌隊一人ひとりの歌唱力よりも、むしろ弱さの方が用いられていたのではないでしょうか。弱さを持つ者を神様が立てて、聖歌隊として整えてくださり、素敵な賛美をさせてくださった、その恵みを受けた嬉しいときでした。

 これが、賜物を生かして互いに仕えるということだと思います。神様が与える賜物によって立てられ、神様に用いられて人々に仕える。そこで神の恵みの業がなされ、私たちは神と共に働く、神の恵みの善い管理者となっていくのです。

 そして、あのクリスマス礼拝で仕えていたのは、なにも聖歌隊だけではなかったのだと思います。聴く人がいなければ、聖歌隊は必要ありませんし、聖歌隊だけでは礼拝は成り立ちません。そこに座って、聖歌隊の賛美を聴いていた聴衆もまた、聴くことによって礼拝をたてあげ、教会に仕えていたのです。それもまた、賜物を生かして仕えることなのだと思います。語る者だけが奉仕者ではありません。今この中で、自分は何もできないと思っている人も、礼拝に集い、賛美やメッセージを聞き、祈りに心を合わせることで、恵みの善い管理者として、神様と共に働いて人々に仕えているのです。

 それと同時に、今日礼拝に集うことができなかった人たちもまた、教会を形作っている一人であり、神の恵みを管理する奉仕者なのです。

 

《結び》

 私たちはそれぞれ、神様から賜物を授かっています。その賜物は私たちの目には、必要の無いものかもしれません。しかし私たちは、その賜物を生かして、互いに仕え合うことができるのです。そしてそれは、神の恵みの善い管理者として、神様と共に働くことなのです。神様がそれを望んでおられ、神の恵みを管理する者として、私たちを召しておられます。

(安里道直)