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2018.2.4 「祈りから生きる力を得る」 (全文) マタイによる福音書6:5-8

1:  偽善という誘惑

 イエス様はマタイの6章で「偽善」について、「施し」「祈り」「断食」という3つの事柄を通して、「あなたがたは偽善者のようであってはならない」(5)と教えられました。前回は「施し」から学びました。イエス様は「偽善者となってはならない」ということから、「あなたはなぜ施しをするのか・・・そこにどのような思いがあるのか、そしてそれはなぜあなたは生きているのか・・・神様はその心を問われているのだ」と教えられている、ということを学びました。

 今日は、「祈り」から、私たちが「祈る」意味をもう一度考えていきたいと思います。今日の箇所でイエス様は「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」(マタイ6:5)と言われました。イエス様は「祈り」において「偽善者は会堂や大通りの角に立って祈りたがる」と言うのです。私たちの中で、会堂や大通りの角で大きな声で祈る人がいるでしょうか。会堂ならまだしも、大通りで大きな声をだして祈る人は現在の日本においては、まずいないと思います。そして、だから・・・私たちは偽善者ではない、祈りを偽善として行ってはいないと、そのように簡単に考えるものではないのです。当時のユダヤの人々は、決まった時間になると、会堂や大通りで祈っていました。それが当時の祈りの姿であったのです。「いつも、みんなが決まった形として行っている祈りの姿」、それが「会堂や大通りで祈っていた姿」なのです。そのため、イエス様が「会堂や大通りで祈ること」と言われた言葉から、現在の私たちに問いかけていることは「あなたが祈っているそのいつもの祈りの姿」その「祈り」として、私たちが行っているその姿が、今、あなたにとって偽善となっていないか、そのことを問いかけているということなのです。それはただ、祈りの形を問われているということでもありません。どのような形でも姿であっても、神様は私たちの祈りを喜んで受け入れてくださいます。そのうえで、イエス様が問われているのは、祈る時のその心を問われているのです。

 

 会堂で祈ること、大通りで祈ることは、ユダヤの人々の習慣であり、大切な祈りの姿でした。しかし、その決まった祈りの姿に誘惑は忍び寄ってくるのです。習慣的に行う信仰の行為、ここでは「祈ること」ですが、その信仰の行為が習慣化するときには落とし穴があります。当時のユダヤの人々は、祈ることが習慣化し、祈ることによる神様との関係の必要性、信仰を得るということを心から求めることから、ただ祈ることの姿、習慣化された、律法をただ守るためにと思いが移行していた。人々は信仰の行為から、偽善の行為へと誘い込まれていたのです。誘惑は人間の心の隙間に入り、人間と神様を引き離していく悪の力、悪魔と言ってもよいでしょう。

 マタイの6章からは「祈り」、「施し」、「断食」という神様と繋がる大切な信仰の行為を、「偽善」の行為にしていく誘惑の恐ろしさを教えます。イエス様は、その心の隙間に忍び寄る誘惑に気を付けなさいと教え、そして今、あなたは何のために、祈っているのか、何を祈っているのかをもう一度、確認するように教えられているのです。このイエス様の言葉を聞く時に、わたしたちはまず、自分が今、何のために祈っているのか、もう一度考えてみたいと思うのです。

 

2: 何のために祈るのか

 わたしたちはなぜ祈るのでしょうか。

 以前、私のいた教会での話ですが、とても信仰熱心な夫婦がいました。いつも一緒に教会にきて、二人ともいつも笑顔で、神様に仕え、教会の中心的な存在でもありました。わたしが若いころの話ですので、わたしからすれば、お父さん、お母さんのような年齢でしたので、やさしく神様について、ほかにも趣味や生きる喜び、神様に仕えることの意味や恵みをいろいろと教えていただきました。しかし、そのお父さんのほうが突然、天に召されたのです。私自身とても仲良くしていたのでショックでした。しかし、それ以上にその家族、特にそのお連れ合いの方のショックはとても大きなものでした。いつも笑顔で、楽しそうにしていた二人でしたが、残されてしまったお連れ合いの方から笑顔は消えてしまいました。これまで本当に笑顔で毎週教会に来ていましたが、その笑顔は全くなくなってしまったのです。その中で、わたしにも「なぜこんなことになってしまったのでしょうか」と聞いてくることもありましたし、何度もお話をしましたが、わたしも何も答えることができませんでした。ただ、それでもその方は、お話をしたあとに、最後に「では一緒にお祈りしましょう」と祈ることを止めませんでした。「なぜなのだろうか」「なんでこんな苦しいことが起こるのか」「神様教えてください」と、神様に訴え、祈り続けたのです。そして心の中が張り裂けそうな思いで、それでも教会に通い、礼拝し続けたのでした。その姿は、最初は、日に日に少しずつ体も衰退していき、痛たく、苦しく、それでも切実に神様に求める、叫びの姿でありました。そしてその中で、少しずつですが、心も体も回復していく姿があったのです。今でも、時々会うことがありますが、昔の笑顔が戻ってきているのです。

 ここに教会に行き続けること、祈り続けることの力を見るのです。

 祈りとは神様との会話です。人間の信仰にとっては呼吸をするのと同じようなものです。祈るという行為によって、私たちの信仰は生きたものとなるのです。人間が呼吸をしなくなれば、苦しくなり、意識は遠くなり、最後は死に至ります。信仰にとって祈りはまったく同じ意味を持つのです。祈りによって、私たちは生きるのです。祈りによって生きる意味を知り、生きる力と勇気を受け取るのです。だから私たちは祈るのです。祈りを失えば、神様が見えなくなり、その心は枯渇し、最後には希望を、生きる力を失ってしまうのです。祈りによって、神様に向き合い、神様に訴え、叫び、そこから神様の愛をいただいていく。私たちはそのために祈るのです。

 

 今日の箇所ではこのように教えます。6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。(マタイ6:6-7)

 イエス様はここで祈りの姿を教えます。その一つとして、「奥まった自分の部屋に入って祈りなさい」と教えます。自分の部屋に入って祈ること。それはただ場所の問題を言っているのではないのです。会堂や大通りで祈ることが間違っていて、隠れて祈ればよいということでもないのです。イエス様は、そこにある祈りの姿勢を教えてくださっているのです。祈りは神様と自分との関係をつなげる信仰の行為です。その行為をだれかに見せたり、褒められるためにする必要はないということです。ただ神様との関係の中で祈ること、その大切さを教えているのです。

 また、くどくどと祈ってはならないとも教えます。くどくどと祈ることは、時間的に長くとか、短くとかそのようなことを言われているのではないのです。くどくど祈る時、それはただ自分から一方的に祈るだけの祈りになっていると教えているのです。祈りは神様との会話です。くどくどと祈ることは、私たちからの一方的な願いの言葉を押し付けているのです。私たちの祈りはくどくど祈るのではなく、神様の御心を聞く必要があるということです。祈りには、私たちが神様に語りかけることと、またその中で、神様の御心を聞き求める必要があるということです。

 イエス様は、ゲッセマネで神様に祈りました。その祈りは十字架の前にイエス様が神様に祈った苦しみ祈りです。イエス様はその中で「39 父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(39)このように祈ったのです。 イエス様の祈りは、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」という願いと、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」という神様の御心を求める祈りなのです。

 私たちは祈りの中で、神様の御心を求めているでしょうか。私たちの祈りは、どうしても一方的なものとなってしまうことが多いと思います。そしてだからこそイエスア様は、一方的に祈るのではなく、神様の御心を聞いていく、その姿勢を教えてくださっているのです。

 

3: 祈られている者

 イエス様は「祈るときに、偽善者のようであってはならない」と教えられました。では私たちはどのように祈ればよいのでしょうか。イエス様はこの後「主の祈り」を教え、その中で、「このように祈りなさい」と教えます。主の祈りは、その一つの特徴として、祈りは「わたし」ではなく「わたしたち」のために祈ることであるということを教えています。

 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(11)「わたしたちの負い目を赦して下さい」、「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」・・・と続きます。

 祈りは、神様との会話であり、信仰の呼吸です。それと同時に、祈りは「わたしたち」の祈りでもあるのです。私たち人間の交わり、その関係をつなげる行為、それが祈りなのです。聖書ではイエス様ご自身が多くの場面で祈られています。時に奥まった場所で、時に弟子のため、または群衆のために、祈られたのです。イエス様は、今、このとき、私たちのために祈られておられるのです。そしてだからこそ、私たちもまたお互いのために祈る者とされていきたいと思うのです。

 祈りの恵みを、隣人と分かち合うことができるとき、私たちは他者から祈られていることを知り、祈ることができるとき、自分がいただいた恵みを分かち合い、その喜びはもっと大きな喜びで満たされるでしょう。

 わたしたちは苦しくて、祈ることができないときがあります。そのような時にイエス様が、そして兄弟姉妹が祈って下さっているのです。私たちは他者の祈りによって支えられて生きているのです。祈ることももちろん大切ですが、私たちは祈られていることを忘れないようにしたいと思います。私たちは祈られているのです。イエス様が祈って下さっている。そして兄弟姉妹の祈りによって、日々生きる力を得ているのです。祈りは、私たちをつなげる大切な行為です。

 私自身何度も神様から離れてしまった、心を閉ざしたことがありました。ただ、そのような時に、祈ってくださっている兄弟姉妹がいることを知る時に、神様の愛をもう一度感じることができたのです。祈られていることを知る時、私たちは、もう一度、祈る力、そして生きる力を得ることができるのです。祈りは神様との関係を作り、そして私たちお互いの関係を作るのです。

 

4: 祈りを知っていてくださる方

 最後にイエス様はこのように言われました。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(6:8)神様は祈る前から、私たちの必要なものを知ってくださっておられるのです。このような言葉を聞くと、「それなら祈る必要はないのではないか」と考えてしまうかもしれません。しかしそうではないのです。神様がすべてを知っていてくださり、私たちの必要を知っていてくださる。

 それは、一つには、神様は私たちと会話をする準備ができていること、神様はすでに私たちと関係をつなげる準備ができているということなのです。そしてもう一つには、神様は、私たちを知り、私たちの存在を認め、私たちを愛してくださっていることを意味するのです。

 この箇所では、偽善者となってはならないと教えています。その偽善の心は、不安から生まれます。自分が生きていることに意味があるのか。何をすれば生きていることを認められるのか。どうすれば、自分の存在に価値があるとされるのか。私たちが、自己肯定するために何かを求め続けていくときに、その心のうちに偽善という心が生まれていくのです。神様はそのような私たちを、そのままの姿で、存在を認めてくださっているのです。すべてを知り、すべてを理解し、私たちの必要なものを知っておられるのです。そのうえで、私たちが生きていることを愛されてくださり、そして私たちのために祈って下さっているのです。 

 ルターは「祈りは神にとって必要なのではなく、われわれにとって必要なのである。」と言いました。私たちは、神様に愛されていることを知り、信頼して生きるために、そして、神様の愛を表すために、祈りたいと思います。生きる力を得る、それは「ただ自分のためだけに生きる」という、その価値観からの解放でもあります。何のために生きるのか・・・私たちは自分のため、自分自身の存在価値を見出すために生きるのではないのです。私たちは神様のため、神様に仕え、愛を表す者として生きるのです。

 日々祈り続けましょう。祈ることは一度で終わることではありません。生活の中にあって、何度も何度も、繰り返し祈り続けること、そのことによって、わたしたちは生きる命を得るのです。祈りは神様との会話であり、信仰の呼吸です。私たちの祈りを知り、受け止め、私たちのために祈り、愛してくださっている神様に目を向け、共に祈り続け、祈られる者として生きていきたいと思います。(笠井元)