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2018.1.28 「キリストによる新しい契約」 (全文) エレミヤ書31:31-34

1:  契約とは

 今日、私たちが学びます、エレミヤ31章の箇所には「新しい契約」という言葉が出てきます。私たちが、今、持っている、この聖書は大きく「旧約聖書」と「新約聖書」と、二つの書物に分けることができます。「旧約聖書」と「新約聖書」といのは、「旧い(ふるい)契約」の書と、「新しい契約」の書という意味です。そして、この契約というのは、神様と人間の間における「救いの契約」を意味しているのです。

 「契約」という概念は、私たち現代社会においては、割とあたり前の考えとして使われています。私たちは、家を建てるにしても、車を買うにしても、契約を交わします。そして、この契約というものは、双方の、同意をもとになされるものです。わかりやすく言いますと、お互いが契約書にサインをして、両方のサインがあって、初めて契約が成り立つのです。約束という意味で考えれば、子どもたちが「指きりげんまん、うそついたら針千本のます、指切った」とするときに、どちらかが小指を出さなければ、その約束は成立しないのです。お互いが、小指を出して約束をすること、お互いの意志が一致していることによって、はじめて約束が成立するということができるでしょう。

 この『契約』という言葉を広辞苑で調べますと、興味深いことに、このようなことが記されているのです。『契約』の第一番目の意味は「約束、約定(やくじょう)」です。第二番目は、法律用語としてこのように記されています。「対立する複数の意思表示の合致によって成立する法律行為。贈与・売買・交換・貸借(たいしゃく)・請負(うけおい)・雇用・委任・寄託などがその例」。そして第三番目に宗教用語として、このようなことが記されているのです。「キリスト教で、神が救いの業をなしとげるために、人間に対して示す特別な意志。イスラエルの民族に対してモーセを通じて立てられたものが旧約(旧い契約)で、後にイエス・キリストによって立てられたものが新約(新しい契約)である。」。

「契約」とは、まさに神様と人間との関係をつなぐ事柄であり、神様が、人間を救うために、人間に対して示された特別な意志による事柄なのです。

 

2:  イスラエルの旧い契約

 さて、今日の聖書の箇所を見ていきますと、「新しい契約」のことと「旧い契約」のことが出てきます。31節では、このように記されているのです。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」(エレミヤ31:31)

 ここにイスラエルの家」と「ユダの家」という二つの家が出てきます。もともとイスラエルの国は一つの王国でした。このイスラエル王国は、サウル、ダビデ、ソロモンという王様によって統治されていたのです。しかし、その後、国は乱れ、イスラエルは北イスラエルと南ユダとに分裂していったのです。そのため今日の箇所のように「イスラエルの家」、「ユダの家」という時に、それは、北イスラエル王国と、南ユダ王国を指しており、「イスラエルの家、ユダの家」という言い方で、イスラエルの民全体を表しているのです。

 そして、この時、エレミヤが預言した「とき」というのは、すでに北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされ、南ユダ王国が、今まさにバビロニアに滅ぼされようとしている時でした。そのような「時」にあって、この「新しい契約」の預言は、エレミヤによってイスラエル全体に向けてなされたのです。

 エレミヤは32節で、「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。」(32)と主の言葉を語るのです。この文章で、新しい契約について語っているのですが、これは、「これこれこのようなものではない。」と、少しわかりづらい言い回しになっているのです。「これこれこのようなもの」とは何かといいますと、それは「わたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだもの」、つまり「旧約」のことです。先ほどの広辞苑の言葉を借りて言えば、「神が救いの業をなしとげるために、人間に対して示す特別な意志。イスラエルの民族に対してモーセを通じて立てられたもの」です。この言葉を理解するために、少し言い換えますと、それは、「イスラエルの民は、以前エジプトで奴隷の状態であった。神様はイスラエルをそこから、解放され、救い出された。その時にイスラエルと契約を立てられた」、その契約です。そして、ここでは、「新しい契約」はそのようなものではないと、神様は語るのです。

 

3:  破棄された旧い契約

 ではなぜ、この旧い契約の代わりに、新しい契約を結ばなくてはらなくなったのでしょうか。それは、この旧い契約が破棄されてしまったからです。32節の後半にはこのように記されているのです。「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」(エレミヤ31:32b)

 神様とイスラエルは契約を結び、その関係を成立させたのです。しかし、イスラエルは神様を、裏切り、契約を破っていったのでした。神様はイスラエルの民を、エジプトの奴隷状態から導き、救い出されました。旧約とは、このエジプトからの救い、そしてその後に神様に向き合って生きるために結ばれた神様との約束、それが旧い契約、旧約なのです。しかし、イスラエルは、この神様の恵みの業を忘れて、神様の前に悪を重ね、他の神々のもとへと走っていったのです。その結果、国は乱れ、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国も、バビロニアに滅ぼされるのは、もう時間の問題となっていったのです。これはイスラエルの民が引き起こした、自分たちの問題です。神様とイスラエルの人々との間の契約は、イスラエルの裏切り行為によって、一方的に破棄されてしまったのです。普通なら、その時点で契約は破棄されるものです。

 しかし、神様の対応はそうではなかったのです。前の契約が破られた。そのうえで、神様は、もう一度、新しく契約を結ぼうと、そのように語ってくださっているのです。

 

4:  新しく結ばれた契約 

 そして、新しい契約の中身というのは、このようなものでした。 33節、34節です。「33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」

 イスラエルの民は、一方的に神様との契約を破ったのです。それに対する神様の答えは、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」このようなものでした。神様が、もう一度、イスラエルの民の神様となってくださる。天と地を創造し、イスラエルの民をエジプトの奴隷から解放してくださった神様が、その悪、つまり神様との約束を破棄した、その行為を赦し、もう一度イスラエルの一人一人の神様になってくださる。神様との約束を破った、イスラエルの民は、もう一度、神の民となり、その一人一人は、神の民の一員とされる。これが新しい契約なのです。そして、その新しい契約が、新約聖書に記されている契約となるのです。

 「新しい契約」は、御子イエス・キリストが人間となり、この世に来てくださり、私たちの贖いとなって十字架にかかってくださった。そしてその死より、よみがえらされることによって、新しい契約が成就していったのです。

 ヘブライ人への手紙9:15ではこのように記されています。「9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」

 つまり、イエス・キリストを信じる者には、すべて、天と地を造られた神様が、私たちの神様となってくださる。私たちは、神様に選ばれた、神の民の一人とされるのです。これが新しく結ばれた契約です。この新しい契約を結んだ者に対して、34節の後半の言葉では、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(34b)という「罪の赦し」と「救い」が語られているのです。これこそが、神様の憐れみによる徹底的な「赦し」であり、まさに「無条件の愛」なのです。

 罪の赦しは、私たちが何かをしたから、何か素敵な行為をしたから、罪が赦されたのではない。私たちが何者かであるから、神様の無条件の契約に入れられたのではないのです。新しい契約は、ただただ、神様の愛、神様の憐れみによって、神様を裏切り続けてきた、イスラエルの民に対して、また、神様から離れ、他の神々のことを思い続けてきた、私たちに対して、与えられ、結ばれたのです。

 

5:  契約を受け入れる

 私たちがするべきことは、この神様が差し出してくださった、契約を受け入れること。つまり、この契約書にサインをすること、神様の無条件の愛を受け取るということです。そしてそれは、神様が、無条件の愛を示して、救いを完成された、イエス・キリストを信じることによるのです。契約書というのは、どれほどすばらしい内容であっても、それにサインをしなければ、お互いの意志が一致して、約束を受け入れなければ、その契約は意味を持たないのです。それと同様に、どんなに素晴らしい救いであっても、それを、私たちが、信じて受け入れることがなければ、その救いの恵みに与ることはできないのです。

 私たちは、神様の無条件の愛を受け入れることができるでしょうか。神様の愛を受け入れるためには、心の扉を開くこと、そして神様の愛が入ることができるように、受け入れる場所を開ける必要があるのです。心の中が自分の思いでいっぱいになっているところに、神様の愛は入っていくことはできません。

 心の中に神様の愛が入る場所を作ること、それは何もできない自分の弱さ、自分の無力さに気付いた時、そしてその、自分の弱さに苦しいときにこそ、そのままの姿にあって、心を空っぽにして、神様の愛を受け入れていくことができるのです。私たちは、ただ、イエス・キリストを信じ、その招きに応えていきたいと思います。神様は、この契約のために、すでに、私たちの代わりに、独り子であるイエス・キリストの血を流され、死に、そしてよみがえらせてくださったのです。私たちはその恵みをただ認め、信じたいと思います。

 

6:  神様の招きに応える

 神様は新しい契約をもって、私たちに救いを与えてくださいました。そしてその愛を今も注ぎ続けてくださっているのです。私たちは、神様に従う者として、畏れや、敬虔さを備えながら、そのうえで、神様の働きに積極的に加わっていく者として歩むことが期待されているのです。イエス・キリストによる愛を信じていきましょう。そして、神様の招きに対して、自らの意志で、応えていきたいと思います。神様の選びに対して、自らが決意と責任をもって従っていきたいと思うのです。イエス・キリストを信じて、キリスト者になるということは、新しい契約を神様と結ぶということです。私たちには、イエス・キリストの十字架と復活による契約がすでに与えられているのです。決意をもって、恵みを信じて受け取っていきましょう。そして、私たちは、主の恵みに自ら進んで従った者として、神様に従い、歩んでいきたいと思います。(笠井元)