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2018.1.14 「恐れおののきつつ、喜べ」 (全文) フィリピの信徒への手紙2:12-18

 今朝読んでいる箇所に、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように務めなさい」と言われています。ところが、その聖書箇所の最後には、「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(17b-18)と勧められています。忙しい人ですね、パウロは!「おそれおののけ」と言ったら「喜べ」という。一体どっちなんだ!こういう時、説教題に困ります。「おそれとおののき」にしようか、「喜べ」にしようか、えい、一緒にして、「おののきつつ、喜べ」にしちゃえという訳です。今朝は、この「おそれとおののき」と「喜べ」の両方に焦点を合わせて聖書を味わってみましょう。

 いつの頃からか年末には、ベートーベンの第九合唱付きが歌われます。「喜び」の歌、[Freude]です。しかし、あの喜びの歌は何か戦慄を覚える「凛」(リン)としたものを感じさせますね。それは、喜びは苦難、悲惨、困難の中で歌われるからではないでしょうか。おそれとおののきの中でこそ喜びが沸き上がってくるのではないでしょうか。

 

1.だから、わたしの愛する人たち

 パウロは、「わたしの愛する人たち」と呼び掛けています。フィリピ4:1で再び同じ呼びかけが登場しますが、パウロには珍しい表現です。圧倒的に多いのが、「兄弟たち」(Iコリント15:1、IIコリント8:1、ガラテヤ1:11、ローマ7:1,12:1)です。「わたしの愛する人たち」。まさに親愛の情を籠めた呼びかけです。私たちは、手紙で、教会で、どのような呼びかけをするでしょうか? カール・バルトの説教は、「Liebe Gemeinde!」で始まります。「愛する教会員の皆さん」というようなことでしょう。笠井先生は、ふつうは「皆さん」でしょうか?私は、時々、「愛する兄弟姉妹たち」と言いますね。「わたしの愛する人たち」という呼びかけは、Ⅰコリント10:14では、「わたしの愛する人たち、偶像礼拝を避けなさい」、Ⅱコリント7:15では「愛する人たち、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりなさい」と言っています。少しきついことを言う前に、互いの親しい関係を伝えたいのでしょうか。それはともかく、パウロは、親愛の情を籠めて、「わたしの愛する人たち」と呼びかけています。

 

2.救いを達成せよ

 救いはもはや動かしがたい出来事として起こっています。フィリピ2:6~11で引用された、イエス・キリストの遜りの賛美歌の通りです。そのすでに起こっていることが自分たち中で、具体的に結果となって現れるようにせよ。「自分自身の救い」となるようにせよということです。

 マルクス・バルトという人の話を聞いたことがあります。神に義と認められることと救われること、聖化されることは、どのような関係でしょうか?」という質問にこんな風に応えてくれました。 ある人が、裁判で「無罪」・義であると認められても、具体的に「留置場」から出て、その自由を自分のものとして生きなければならない、それが義認と聖化の関係だというのです。私たちは自分で自分の「救い」を達成することなどできません。そうではなく、すでに起こっている神と人の関係の修復を実際に働かせることがここで語られていることです。だから、パウロは「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行っておられるのは神であるから」と言葉を繋ぐのである。

 

3.従順

 「いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけではく、いない今はなおさら従順でいて」「従順でいること」は私とって最も苦手なものです。「人の言うことを聞くより、自分のやり方でやる」これが私流でした。幼稚園の通信簿では「天邪鬼」と書かれていたくらいです。友達が庭遊びをしている時は、自分一人で部屋の中におり、皆が部屋に入ってくると一人砂遊びをする。そんな小ども、いるでしょう?幼稚園の先生は良くお判りでしょう。いや孫たちが私に実に良く似ているのです。「従順」は大切なことですから順一、順平、順子、順子(よりこ)など名前にも用いられ、親や配偶者や上司などに従順であることが美徳のように考えられるのが日本社会です。私は自分で従順はいやですが、配偶者には「従順」であって欲しいと願っています。勝手なものです。まあ、彼女は私に全く従順ではないので、あきらめていますが、従順というのは、問題のある、親、夫、上司、牧師には都合の良い徳目です。

 だから、「従順」ということを考えるときに、誰に「従順」であるのかが問題となります。儒教で「順天」という言葉があります。天に対して「従順」でなければならない。というのです。ちなみに私の祖父の兄の松見文平は「順天中高の第二目の校長」でした。順天堂大学とは違う歴史のようですが、儒教では「天」に対して順であれと教えるのでしょう。

 この箇所では、フィリピの信徒たちがパウロに信頼し、パウロに従順であったとことが直接言われているのだと思います。しかし、彼等彼女らがパウロに従順であったのは、彼が語る「福音」、「イエス・キリスト」に対して従順であったからであると思います。「従順」とは「耳を傾けて良く聴くこと」であり、人の成長には極めて大切なことです。何かを語る前に人の言葉や姿勢、顔つきから「聴くこと」が大切です。そして、キリストに何よりも従順であり、キリストに信頼し、聞き従うのです。キリストに信頼し、委ねて生きることです。そのような意味で「従順」と「信仰」とはほとんど同じ意味であると言えます。

 

4.恐れおののきつつ

 「おそれおののく」という言葉は現在では、ほとんど死語に近いと思います。何にも動じない人間像が理想であり、主流です。神など信じることは弱い人間のすることだと言わんばかりです。いや、逆に、現代社会は何か破滅の予感というか、危うい力の均衡の上に何とかすれすれで立っているという点で、今日こそ、誰もが恐れおののきつつ生きていると言って良いでしょう。Ⅰコリント2:3では「恐れに取り憑かれて、ひどく不安でした」と言われ、Ⅱコリント7:15では「テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています」と言われ、エフェソ6:5では、「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい」と勧められています。人間の他の人間に対するおそれとおののきが問題となっています。それは、他の教会員に対する謙遜さを意味しているのでしょう。しかし、今朝読んでいる箇所では、「神を神とする」というか「神のみを頼りとする」というような意味で重要ではないかと思います。つまり、神を神として恐れおののくことがないので、諸々の恐れにおののいているのではないかと思います。神に対して、恐れおののくこと、恐れおののいて備えられた救いを生きることは、自立した、自分を大切に生きることとは矛盾せずに、神を神とする時に他の者から自由になり、救いがすでに備えられているからこそ、自分を大切にして生きることができるのです。救いが与えられることは当たり前のことではなく、奇跡的なことであり、だから、恐れおのおきつつ、感謝を持って達成できることなのです。

 

5.よこしまな曲がった時代

 パウロはフィリピの町、あるいはローマ帝国の支配する社会を「よこしまで曲がった時代」と呼んでいます。ローマ帝国の下での社会は、ある意味では政治力、軍事力という力の下で外面的平和が保たれていた社会であると言えるでしょう。しかし、パウロはその社会を「よこしまな曲がった時代」と言います。力の脅かしによる平和は本当の平和ではありません。そのように考えると、現在のこの世界もまた、時代を超えて「よこしまな曲がった時代」であると言えないでしょうか? 確かに、かなり長期の景気回復社会であるという説もありますし、確かに、株価が上昇しています。しかし、年金基金を株に注ぎ込み、赤字国債を日本銀行が買うという、本来してはいけない操作による景気回復ではないでしょうか?40%が正規社員ではなく、安手で働かされているのが現実です。大企業は庶民の犠牲の上で儲けているということを考えずに、内部留保で儲けた金を十分な賃金としてはきだしていないんです。あくまでも、短期的な自己利益の追求、お金と効率第一主義が支配しており、人が人間らしく生きにくい、まさに、「よこしまな曲がった時代」なのではないでしょうか。

 

6.暗い夜空に輝く星のように

 しかし、パウロには明確な希望がありました。人は基本の処で、しっかりしたものに触れ、信頼すべきお方に信頼していないと、数々の自己弁護のため、不平や理屈をグダグダ言うようになります。しかし、神を愛し、隣人を愛すること、私たちの人生の目標がそのような明確な土台の上に立つ時に希望があります。そのとき、信仰者たちは、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子らとして、輝く星のように暗闇を照らし、進むべき道を示すことができるのです。そして、いのちの言葉をしっかり保ちながらそうするのです。

 パウロの弟子たちが、そのようにしっかり信仰に立って歩むなら、パウロは自分の働き、苦労が無駄ではなかったと喜ぶことができるというのです。これは伝道者、牧師の何よりの喜びでしょう。

 

7.おそれおののき、喜ぶ

 おそれおののくということは、神を神として決定的に砕かれることであり、私たちのために祈って支えてくれている兄弟姉妹の前で謙虚に生きることでした。そして、そのことができていれば、一見すると矛盾するように見えるかも知れませんが、「喜ぶ」ことができるのです。いや神の恵みにおそれおののく者こそが喜ぶことができるのです。「労苦したことも無駄ではない」とは何と言う喜びでしょう。それは事実であると同時に「キリストの日」に花咲く希望のことがらでもあります。

 パウロは投獄されているのでした。7節では、イスラエルの伝統的礼拝において、動物の犠牲が捧げられたことを思い起こしながら、パウロは牢屋で殺害されたとしても、フィリピの信徒たちの礼拝にそのような形で加わることが出来るので、「わたしは喜ぶ」と言います。そして、「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と勧めます。喜びの大合唱です。喜びとは困難、苦難の中から歌われるからこそ素晴らしいのです。安楽に暮らしている人が「喜び」の歌を歌っても人を慰めることはできません。新生361に「喜べみな、たたえよ主を」という讃美歌があります。この讃美歌では、「リジョイス」という英語をそのまま歌うようにしています。これでやろうと賛美歌編集委員であった私も賛成して、こんな形の歌になりました。おじいさんもおばあさんも、子どもたちもみんなで「リジョイス」=「喜べ」です。いつか共に歌いたいと思います。(松見俊)