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2017.11.5 「無条件、無制限の愛」 (全文) マタイによる福音書5:38~48

1:  同害報復

 今日の箇所では、まず「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯をと命じられている』(38)と言いました。

 当時の律法による規定として、「目には目を、歯には歯を」と命じられていました。この「目には目を、歯には歯を」という言葉は、現代の日本における理解としては、「やられたら、やり返せ」という理解であり、「復讐」を推奨している言葉となってしまっています。少し前になりますが「半沢直樹」というドラマで「倍返し」という言葉が流行ったように、「やられたら、やり返せ」、「やられた以上に、その何倍にもお返ししてやれ」という考えがあります。「やられたら、何倍以上にもしてやり返せ」。何かをされたときに、このように思ってしまうのが、私たち人間の本能なのかもしれません。そのようななかで、今日の箇所の言葉は「目には目を、歯には歯を」と教えているのです。この言葉は、「倍返し」という、どんどんエスカレートしてしまう人間の感情を抑えるための教えでした。「一つの目を傷つけられた時、やり返すのは、せめて一つの目までにしなさい。怒りにまかせて二つの目を傷つけることがないように」また「歯を折られたら、同じだけで終わりにするように」と過度な報復をしないように教えているのです。人間の感情としては、自分が傷ついたよりも、もっと傷つけてやりたい、自分が苦しめられたよりも、相手をもっと苦しめたいと、そのような思いになってしまうのです。当時の教えは、そのような思いを抑え、同じだけの痛み、同じだけの報復で終わるように教えた言葉なのです。

 これが当時の基本的ルールでした。現代社会においては、自分たちの感情に任せ、「やられたら何倍にもしてやり返せ」とあり、またそんな思いも通り越して、「やられる前にやってしまえ」「やりそうな者は徹底的に力でねじ伏せてしまえ」と、考えられているのではないでしょうか。そのような意味では、「目には目を、歯には歯を」という、この教えを基本とした当時のルールは、現代よりもまともな教えと言うことができるでしょう。

 そして、そのうえでイエス様は当時の基本的ルールを打ち破った教えを教えられるのです。イエス様は言われました。38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

 イエス様は報復すること自体を放棄するように教えられたのです。これがイエス・キリストの教える生き方、ルールなのです。

 

2:  敵を愛しなさい

 イエス様は、次の箇所では、このように言われました。5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

 イエス様は、報復行為をしないように、教えられるだけではなく、敵である者を愛しなさいと言われたのです。私たちは、「愛する」ということに条件や制限をつけていないでしょうか。何かをしてくれるから、何かをもっているから、何かができるから。または、自分と気が合うから、自分にとって大切な存在だから、自分のことを理解してくれるから・・・と。このこと自体、別に悪いことではないと思うのです。しかし、イエス様が教えられている愛は敵をも愛する。つまり、愛に制限をつけない、条件のない愛を求めているのです。愛することに隣人や敵という区別は必要ない。だれであれ、どのような者であれ、愛しなさい。これがイエス様の求める愛なのです。

 

3:  愛するという積極的行為

 そして、イエス様は、敵を愛するという行為として、3つの例をあげます。一つ目に、39節。「39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」2つ目に、40節。「40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」3つ目に41節。「41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」

 そして、これら、敵を愛する行為として、最後に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(44)「祈りなさい」と教えているのです。

 私たちにとっての愛することは、どこかあやふやで、とりあえず、憎まないこと、傷つけないこと。一緒に喜び生きるのではなくても、傷つけてもいない。生きているか死んでいるかも知らないが、憎んではいない。そのような消極的な行為を愛するということにしてはいないでしょうか。

 イエス様はこのような消極的な行為を愛しているとは言わないのです。愛することは、もっと積極的なもの、しかも行為が伴うもの、それが「愛」なのです。敵を愛するということは「敵のために祈る」ことです。それは「嫌いな人」「恨みを持つ人」「憎しみで許せないような人」そのような者のために、神様の御前に立ち、祈ることです。

 

 私たちは敵を積極的に愛することができるでしょうか。神様は、そのような私たちを積極的に愛されました。それはイエス・キリストという方をこの世に送ることによって表されたのです。

 聖書ではこのように教えます。ヨハネ3:16「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 神様は、独り子イエス・キリストをこの世に送られた。それはイエス・キリストによって、すべての人間に愛を表されたのです。神様は、命をかけてまでこの世界を愛されたのです。神様の愛はとても積極的です。神様は、心から、私たちを愛し、祈り、その命が祝福され、喜んで生きることができることを願い求めておられるのです。神様の愛は、積極的です。特に「自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言われているように、主は、私たちのために祈っておられるのです。

 主イエス・キリストは、私たちのために、命をかけて祈られた。それは十字架の上で「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られたように。命をかけて、私たちのために祈って下さっているのです。

 

4:  無条件の愛

 神様の愛はとても積極的なもの、そして条件づけられないものなのです。45節ではこのように教えます。「45b 父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」

 神様の愛は、人間の善悪に条件づけられない、制限のない愛なのです。当時の律法主義では、人間のそれぞれの行いに対して、神様の愛は応答されるものだと考えていました。いわゆる因果応報という考え、原因があり、それに対する、結果があるという考えです。それは、考え方としては、今、生きる私たちも変わることはないのかもしれません。私たちの間でも善いことをすれば、それだけ良い報いがあり、悪いことをすればそれだけの罰が与えられるという考えがあるのではないでしょうか。確かに、良いことを積み重ねれば、良いことが起こることが多いかもしれませんし、悪いことばかりしていれば、悪いことが起こる可能性もあるでしょう。きちんとした食生活をしていれば、健康が守られ、体に悪いものばかりを食べていれば、病気になりやすいものです。

 しかし、神様の愛は、そのような、人間の行為によって条件づけられるほど小さなものではないのです。神様は私たちを無条件に愛しておられるのです。

 

5:  父なる神の子、完全な者となる

 神様の積極的な愛。その目的は、私たち人間が「天の父の子となる」「あなたがたも完全な者となりなさい。」ということです。神様が人間を愛すること。それは神様の願いであり、招きを表しているのでもあるのです。神様は私たちに「完全な者」と願い、招かれているのです。私たち人間が「完全な者」になることができるのでしょうか。私たちが自分自身を見つめる時には、とてもではないけれど、そんなことはありえないと思うのではないでしょうか。確かに自分自身の行為や行いによって、「完全な者」になれることはないのです。

 しかし、神様は、人間を自らの形に似せて創造されました。私たち人間を、神様の愛に生きる道ことができるようにと、自らの愛を注いでくださっているのです。神様は、私たちが愛に生きるように願っておられ、そこに愛を注いでくださっているのです。

 聖書はこのように教えます。

 Ⅰコリント6:12、19-206:12「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

 神様は私たち人間を無条件に、無制限に愛されています。私たちは、その愛を受けてどのように生きることができるでしょうか。どこまでも愛されているのだから、なんでもかんでもやりたい放題に生きていくのでしょうか。赦されている者として、好き勝手にいきるのでしょうか。自分自身が思うこと、自分を中心に生きるのでしょうか。私たちは一体何のために生きるのでしょうか。

 聖書は「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。(12)あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。(19)あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(20)このように教えているのです。

 神様は、私たちを愛されているのです。それは私たちがただ、強制的に善い行いをするためではなく、また心なく他者を愛しているふりをすることでもないのです。神様は、私たちが愛のうちに生きることを望まれているのです。それは本気で神様と向き合い、他者と向き合い、生きること。つまり、間違いを犯しながらも、悔い改めて、生きていくこと。誰かを裁き、排他的に生きるのではなく、共に生きること。敵のために祈りあうことです。神様は、わたしたちが愛という光の道を求めて、生き続けていくことを願っておられるのです。

 私たちは、神様の愛を、素直にいただいて、従い生きていきたいと思います。神様の愛に向き合い、そしてその招きに応えて生きていきたいと思います。共に生きてくださっている方、祈って下さっているイエス・キリストに従い、祈りあい、励まし合い、愛の道を歩いて行きましょう。(笠井元)