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2017.10.15 「福音にふさわしく生活をする」 (全文) フィリピの信徒への手紙1:27~30

 パウロは、牢屋に捕らえられるという苦難の中にあって、死を願うよりも、フィリピの信徒たちのために生きることを選び、フィリピ教会をもう一度訪ねようと願っています。しかし、パウロがフィリピ教会を訪問したらすべてのことが解決するわけではありません。彼らはただパウロを待っているだけではなく、主体的に、キリストの福音にふさわしく生活するように勧められています。牧師、伝道者はできる限り、皆さんの傍らにいようと努力します。しかし、同時に一人一人が自分の信仰生活を送らねばなりません。牧師と信徒たちは共に働く同労者です。

 

1.生活を送ること

 パウロはフィリピ1:27節で「生活を送りなさい」、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と勧めています。ライフという言葉は、「いのち」と翻訳したり、「生活」と翻訳したりします。私は、「いのち」というと何か自分の中に働いているものというような感じで生きてきましたが、ある時、実は、「生活すること」、日常の生活の中で、与えられている「いのち」を生を生き生きと活かすことが大切なんだということに思い当たりました。当然と言えば、当然ですが、私たちは毎日の生活をしっかり生きているでしょうか?ギリシヤ社会には、アテネ、コリント、フィリピなど「「ポリス」と呼ばれた都市がありました。ここでパウロは、「ポリスという町の市民として生活しなさい」と勧めています。Live as a citizenです。キリスト者だからと言って、世捨て人として生きるのではなく、市民として責任を持って生きなくてはならないのです。また、個人的生活と共に、社会生活というか、共同生活、人と共に生きる生活をしなくてはなりません。人は幼稚園や保育園で、共同生活を学び、学校へ行き、勉強し、また、職業の技術を高めながら給与を得て、生活するのです。「市民として生きること」、これもキリスト者の課題です。「ひたすら」(新共同訳)と言われ、口語訳では、「ただ」と翻訳されている「モノン」という言葉は 何かを制限・限定するだけではなく、以下に書かれたことを強調しています。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」。

 

2.福音にふさわしく

 しかし、パウロは、ここで、「ひたすら福音にふさわしく」生活を送れと言います。キリスト者はこの世の価値観と違った価値観、違った姿勢で、「福音にふさわしく」生活するのです。日曜日は礼拝をし、月曜日から全く別の生活が始まるというのではありません。「ひたすらキリストの福音に対応して、相応しく」生活しろと言います。「福音」、つまり、一人一人が、神から愛されていること、その独り子イエス様の命と等しいほどに大切にされていること、このことに相応しく、市民生活をするのです。あるいは「キリストの福音」とは喜ばしい内容であるキリストのことだけではなく、今も福音の前進のために働きつつある神の力に留まりながら、恵みの中で生活を送れとも理解されます。キリスト者と非キリスト者の市民生活の仕方はこの世の人からは同じように見えるかも知れませんが、生きる動機づけ、また、根拠が違っているのです。ふさわしく、重さ、価値、という言葉から由来しており、イエス様が命懸けで私たちを愛して下さっている。その重さ、価値に対応しく生活せよ、と呼び掛けられています。ローマ16:2では、「どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしくフィベという女性執事を迎え入れて欲しい」とパウロはローマの教会に語り掛けています。エフェソ4:1では、「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩め」、Iテサロニケ2:12では「神の御心にそって歩むように」と勧められています。神から大切にされている事実に応答、対応して生きるわけです。そして、今も福音として働く神の力の下で、市民生活を生きよというのです。

 

3.信仰の証人として

 フィリピの信徒たちが、ひたすらキリストの福音にふさわしく生活を送っているとどうなるのでしょう。パウロは、それは、証人(あかしびと)の生き方であり、キリスト者の仲間たちにとっては救いのしるしであり、反対する迫害者にとっては、「これはかなわない」と滅びのしるしとなると言います。

 「しっかり立つ」という言葉は、「信仰は常に危機にさらされている」という、彼の信仰理解が反映されていると言えるでしょう(佐竹明81頁)。一つの霊によって、心を合わせて福音の信仰のために共に戦うのです。反対者に「脅されてたじろぐ」とは具体的には、信仰を放棄してしまうことでしょう。あくまでも「キリストの福音」の支配の内にとどまる信仰姿勢が大切です。パウロがフィリピを訪問したら、そのような信仰の証人としてのフィリピの人々に会えるであろうし、今、牢屋の中にいてもそのようなフィリピの信徒たちの姿勢がパウロを励ますのです。私たちはキリストの証人、福音の信仰の証人として生きるように勧められています。

 

4.キリストのために苦しむこと

 パウロは一歩進んで、フィリピの信徒たち、そして、皆さん、私たちに、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」と言います。私たちが人に替わって十字架につけられ、苦しむことではありません。そのようなことが出来る訳がありませんし、する必要もありません。しかし、生きている社会で、信仰の証のために、苦しむことも、神の恵み、救いの印なのです。私はある時まで自分の信仰の問題、イエス様に100%捧げて生きられない自分は、聖霊をいただいているのだろうかと悩んだことがありました。そのような葛藤の中で、「私たちの中に、矛盾があり、葛藤があることが聖霊を受けている印である」とベルコフという人が言っているのに慰めを受けました。自分の中に別の神の恵みが働いているからこそ葛藤があるのです。そのような内面的闘いがあり、また、反対者の圧迫下にありながら、福音の信仰のための共同の戦いを戦う際に味わっている苦しみは、恵みであるとパウロは言うのです。市民社会において不正が横行し、強者が弱者を抑圧して、益々富み、貧しい者が益々貧しくなる、40%以上が正社員ではなく、低い給与で働かせられ、正社員も加重労働を強いられるのであれば、私たちは平然と生きることはできないことでしょう。しかし、ここで、「苦しめ」と命じられているのではなく、私たちが経験している苦しみも、自分の過ちの結果でないなら、それが、神のための苦しみであれば、それは「恵み」であることが強調されているのです。

 

5.パウロの協働者としてのフィリピの信徒たち

 もし彼らがキリストの福音に対応して市民生活をするなら、「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いているように、「その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」と言います。キリスト・イエスにあって、パウロもフィリピの信徒たちも同列に立っているのです。やがてパウロが再びフィリピに行って彼等彼女らに会えるにしても、あるいは投獄という厳しい壁に阻まれて会うことがかなわず、離れているにせよ、パウロは次のことを聞けることを期待しているのです。フィリピ教会は一つの霊によって分裂せずにしっかりと立ち(神との関係において聖霊によって一つ)、こころを合わせて(一つの魂で)福音の信仰のために(共通の目標目指して)、パウロと連帯して戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに「脅かされてたじろぐことはない」ということ。この事実は、反対者には彼等自身の滅びの証、示しとなるのです。この「示し」「示す」という言葉は、ローマ3:25,26では、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにしてと言われています。こうして、神御自身がフィリピの信徒たちや私たちの、救いの「示しを与え、証明して下さる」というのです。まさに、このことは、神から来るのです。先日は、元東福岡教会の牧師の配偶者である福本夫人が召天者追悼記念礼拝においで下さいました。東福岡教会も歴代の牧師、伝道者にもそのように期待されているのです。皆さんたちが神の救いの示し、証、証明となるように。そのことによって、伝道者・牧師と信徒たちは、共に働く者なのです。

 

6.結語 二重の市民権

 市民として生きるというテーマは、フィリピ3:20には、「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです」と再び取り上げられています。「本国」、口語訳は「国籍」と翻訳されていましたが、正しくは「市民権」です。米国で生まれると米国の市民権が与えられ、その子が大きくなったら自分で国籍を選択できると聞いています。アメリカ上空を飛んでいる飛行機の中で生まれてもアメリカの市民権を与えられると聞いたことがあります。日本に国籍を持ちながら米国の市民権を持っていることができるわけです。私たちの市民権は天にあるのですが、日本社会の市民として、いまここで生きる課題と権利が与えられています。わたしたちは、日本の市民としていま、ここで生きていますが、本当の市民権は天にあるというのです。使徒言行録23:1では、最高法院の前に立たされたパウロは、「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心にしたがって神の前で生きてきました。つまり、「何の落ち度もなく、ローマ市民として生きてきた」と弁明しています。私たちもまた、二重の市民権を持つ者として、福音に相応しい市民生活を営みましょう。(松見俊)