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2017.10.8 「神の愛を『然り』と受け取る」 (全文) マタイによる福音書5:33~37

1:  イエス様の時代に行われていた誓い

 今日の箇所において、イエス様は「一切誓ってはならない」言われました。それは、「天にかけても」「地にかけても」「エルサレムにかけても」そして、「自分の頭にかけても」誓ってはならない。これがイエス様の教えです。 

 当時、イスラエルの人々は、時には「天にかけて」と言い、また時には「地にかけて」と言い、時には「エルサレムにかけて」、そして「自分の頭にかけて」と誓っていたのです。このようにさまざまなものにかけて、誓うことには、それぞれの誓いの重さ、保証の違いがあったのです。「天にかけて」と言う時は、だいたい90%くらいの保証、信頼できる約束であるとし、「地にかけて」と言えば80%、「エルサレム」は70%であるとされていた・・・「自分の頭」はもはやどれほど信頼できるものだったのでしょうか。当時はそのように、様々な信頼性で誓っていたのです。

 今、私たちが誓うとして、よく聞くのは「自分の命にかけて」という言葉だと思います。また、わたしが時々聞いている日本の昔話では、「米俵一俵をかけて」という話もありますが、自分の持ち物の、特に大切な物にかけて・・・と言うことはあるでしょう。日本では、あまり「神にかけて」とか、「天や地にかけて」とはいわないではないでしょうか。「自分の命にかけて」というのは、とても信頼性のある言葉に聞こえますが、実のところ、私たちの命は、明日失われるかもしれないですし、本当のところ一分一秒ですら、確かにあるとは言えないものなのです。そのような意味で、人間の「自分の命にかける」という言葉は、本当はまったく信頼性のない言葉なのです。「自分の命にかけて」という、この言葉は、まるで「命」が自分のものであり、自分でどうにでもすることができると、勘違いした言葉なのです。わたしたちは神様に命を与えられている。神様に生かされているのであって、その命は、自分のものではないのです。ただ、聞くほうも、そのことを理解していないので、この「命にかけて」という言葉には信頼性があると感じてしまうこともあるのでしょう。

 イエス様の時代には、「天や地」、時には「エルサレム」、そして「自分」にかけて誓いがなされていました。このように行われていた当時の誓いに本当のところどれほどの信頼性があったのでしょうか。

 

2:  誓いによる言葉の意義の低減

 いろいろなものにかけて、いろいろな形でなされていた誓いを使っていた社会の中では、もはや「誓います」ということ自体が、その意義、信頼性を失っていました。誓って語る言葉に信頼性が失われてきていたのであれば、日常的に話される言葉はもっと信頼性がなくなっていたのでしょう。「誓った」言葉ですら信頼性がない中で、「誓わない」日々の言葉は、もはや価値をなくしてしまっていたのです。そのような中で、イエス様は「誓ってはならない」と教えられるのです。イエス様は、誓いを守らなければ、偽証罪に問われ、その責任が問われるから、やめておいたほうが良いと言っているのではないのです。誓うことを守られなかった場合は嘘を言うことになってしまう。しかも責任が問われることになるのだから、そんなことはしないほうがよいと言っているのではないのです

 「誓ってはならない」。それは、誓いの言葉だけではなく、すべての言葉に対して誠実であり、責任を持つべきだと教えられているのです。「これはだいたい80%くらいだから「地にかけて」とでも言っておくか」と、どこか言葉に対する責任をきちんと持たない社会に対して、「あなたが発する言葉は、その言葉すべてに責任を持たなければならない」と教えられているのです。つまり、イエス様は、誓いの言葉だけではなく、通常の言葉、日々の言葉の権威を回復されようとしたのです。「誓った場合には・・・必ず果たしなさい」というだけではなく、日々の一言一言に責任を持ちなさいと言われているのです。

 言葉は、わたしたち人間にとても大きな影響を与えます。口から出た言葉を、もう一度口の中に戻すことはできませんし、文字にして表したものを、書かなかったことにすることはできないのです。新聞や雑誌などに言葉を載せてしまえば消すことはできませんし、今では、インターネットのブログなど、一瞬でその言葉や写真、動画が全世界に教える手段もあるのです。そのような時代だからこそ、私たちは、一つ一つの言葉に大きな責任があることを知らなくてはならないのです。

 これほど言葉が氾濫する時代において、現代の政治家やいわゆる公人とされる人々の失言の多さにはあきれてしまうほどです。時には他者を心の底から傷つけ、怒りを与える言葉を発し、時には非常識な言葉を発し、様々な失言をする。これは失言というより、本音の言葉、「いつも本当は思っている言葉」を言ったと、いうことができるのだと思うのです。そして、そのように言っておきながら、「そのような意味ではなかった」とか「撤回します」とか、「記憶にない」とか、まったく言葉に対する責任を持たない姿勢ばかりで、その姿勢に余計あきれてしまうのです。

 しかし、政治家など、つまり公人とされる人々は、私たちの姿を映し出しているのであり、実際に突かれているのは政治家であっても、私たち自身も、どれだけ失言をしているのか、また言葉に責任を持つことができているのか、考えさせられるのです。

 

3:  すべての言葉に誠実である

 イエス様の時代、そしてそれは今を生きる、私たちのこの社会に対しても、つまり、どのような時、どのような時代、どのような場面にあっても、イエス様は、私たち人間が自分の言葉に対して誠実であるようにと語られているのです。すべての言葉に責任を持ち、お互いがその言葉に信頼して語り合うことができるようにと教えられているのです。

 イエス様は「誓ってはならない」と言われました。それは「誓う必要などないほどにすべての言葉に責任を持ちなさい」ということでもあります。イエス様は、日々語る、その一言一言、すべての言葉が「誓い」であり、責任を持っているのだと教えているのです。

 わたしたちは、自分の言葉にどれほどの責任を持って話しているでしょうか。その言葉が、どれだけ他者の心に残り、時に、喜びを与え、時に、悲しみや苦しみを与えているか、責任を感じて話しているでしょうか。言葉は、他者の心の中にまで届くのです。それは時にその心を癒し、元気を与え、時に、心からの憎しみや怒り、悲しみを与えることになるのです。わたしたちは、隣人の前にあって、その一言をどれだけの責任を持って話しているでしょうか。そして、それはまた神様の前にあって、どれだけ真実の言葉を語っているか、ということにつながるのです。

 

 みなさんもよくご存知な話ですが、オオカミ少年というお話があります。オオカミなど来てもいないのに、「オオカミが来た」と、いつも嘘を言って、人々が驚く姿を楽しんで見ていた少年がいたのです。しかし、あるとき、本当にオオカミがきたとき、何度も「オオカミが来た」と叫んで助けを求めても、もはやだれも信じてくれず、オオカミに食べられてしまったというお話です。この話は、嘘ばかりついていると、いつか本当に困った時に、本当のことを言っても、また嘘をついていると、信じてもらうことができなくなるということを教えているのです。以前、説教で嘘をつくことができるようになることも、一つの成長だと言ったことがあります。確かに嘘を言うことができるようになるのは、他者の考えを考えることができるということ、そして、実際の出来事だけではなく、もう一つの出来事をイメージできているということになるのです。しかし、私たちは、嘘をつくという成長だけではなく、同時に、自分の言葉に責任を持つことも覚えなければならないのです。

 私たちが、自分の言葉に責任を持たせるためには、それがどのような意味を持っていて、隣人にどのような影響を与えるのか、そのすべてを受け止め、責任を持つ覚悟が必要であるということなのです。イエス様は、この覚悟が必要だと教えられているのです。しかもそれは「誓ったとき」だけではなく、日々の生活の中で語る一言一言に、それだけの覚悟と責任をもって話す必要があると教えられているのです。つまり、言葉に対して誠実でありなさいと教えられているのです。

 

4:  神の愛を「然り」と言う

 最後にイエス様はこのように言われました。5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」「然り」を「然り」と言い「否」を「否」と言う。それはもはや何もごまかすことなく、「はい」か「いいえ」どちらかだけで答えなさいと言っているのです。「はい」と「いいえ」これは誰にでも言うことができる単純な言葉です。しかし、単純なだけに、実際に「はい」「いいえ」とだけを語ることはとても勇気が必要なのです。

 神様は「神様を愛し、隣人を愛しなさい」と言われたのです。わたしたちはこの言葉に「はい」と神様の前で、神様に面と向かって答えることができるでしょうか。それだけの覚悟と勇気を持っているでしょうか。

 イエス様の一番弟子とされるペトロは「はい、あなたにどこまでもついていきます」と答えました。ペトロのなかにはそれだけの熱い思いがあったのでしょう。しかしイエス様が十字架上で苦しみ、死んでいくときには、この熱い思いを持ったペトロもまた、従うのではなく、「あのような人など知らない、関係ない」と言い、逃げ出したのです。ペトロは言葉では「はい」と答えたのですが、実際の行動としては「いいえ」として逃げ出したのです。これが人間の限界、人間の弱さでしょう。 

 

 「あなたは神様の愛を受け取りますか」。と問われたとき、この質問に、皆さんはどのように答えることができるでしょうか。「もちろん受け取ります。ただ、少しだけ、自分がしたいこともさせてください」「神様が愛してくださっていることは喜んで受け取ります。でもちょっとだけ、自分の時間もください。お願いします」と、どこかで「はい」以外の言葉も付け足してないでしょうか。イエス様の弟子でありペトロも、実のところそのような気持ちがあったのだと思うのです。

 「はい」「いいえ」と答えるということは、勇気をもって決断するということです。イエス様は「然り」を「然り」、「否」を「否」と言うように教えられました。しかし、それは私たちの自分の思い、その思いがどれほど熱くても、達成することはできないことだと、教えてくださっているのです。つまり、私たちの決断と勇気だけでは、どこかに限界がでてくるということです。私たちは神様の前にあって「然り」「然り」「否」「否」と言い続けることはできません。だからこそ、そのような私たちのためにイエス・キリストはこの世に来てくださったのです。わたしたちは、神様の愛の上に生かされている。神様によって生かされている。これが、私たちが受け取るべき本当の福音なのです。

 私たちが神を愛し、神に誓うのではなく、神様が、私たちを愛してくださっており、私たちを救いだし、生かしてくださっている。イエス・キリストが命をかけてまで、私たちを愛してくださっている。私たちはこの愛を「はい、あなたが信じさせてくださることを受け入れます」と受け入れていくこと、あくまでも神様を主体に生きていくこと、これが、私たちの信仰なのでしょう。

 イエス様の十字架の時に逃げ出したペトロは、イエス様が復活されたのち、イエス様にもう一度問われるのです。ヨハネ21章ですが、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」(17)この問いに対して、ペトロは自らを主体として「はい」と答えませんでした。ペトロは自らの限界を知り、熱い自分の感情ではなく、ただ神様の愛に委ねる言葉として、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」(17)と答えたのです。

 私たちはどこまでも自分を中心に生きていこうとしていまいます。しかし、本当はその命も、髪の毛一本すらも自分ではどうすることも出来ない者なのです。そのような私たちを神様は愛してくださっているのです。私たちは、この神様の愛を「然り」と「はい」と素直にいただいていきましょう。(笠井元)