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2017.10.1 「神が共におられることを知る時」 (全文) 創世記28:10~22

1:  逃亡者ヤコブ

 今日の箇所はヤコブが旅の途中に夢を見ていくところから始まります。

 ヤコブについて少し説明しますと、ヤコブは、イスラエルの人々にとっては「信仰の父」ともされるアブラハムの子どもイサクの子どもです。この後、ヤコブは、神様にその名を「イスラエル」と変えられ、まさにイスラエルの民の最初の人ともいうことができるでしょう。ヤコブは双子として生まれ、ヤコブには兄エサウがいたのです。しかし、ヤコブはこの共に生まれ育った双子の兄エサウから、長子の権利を奪い、祝福も奪っていくのです。兄エサウがおなかをすかしているときに、食べ物を与えるかわりに長子の権利を奪いとり、また目が見えなくなっていた父イサクをだまして、自分がエサウだとして、その祝福を奪っていったのです。ヤコブはイスラエルの祖とされる人物ですが、その人間性は、なんとも欲深く、ずるがしこく、恐れを知らない者なのです。

 この祝福を奪われた時にエサウはこのように言っています。創世記27:36、41「エサウは叫んだ。『彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。』」(36)「エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。『父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。』」(41)

 エサウの怒りは弟ヤコブを殺してしまおうと思うほどのものでした。ヤコブは、策略を練って、あらゆる方法を使って、兄をだまし、父をだましてでも自分が祝福を受け取ろうとして、確かに祝福を奪い取ったのでした。しかしそのために得たものは、兄エサウからの憎しみ、恨みだったのです。兄エサウが弟ヤコブを殺そうとしているときに、母リベカが、ヤコブに逃げるように教えるのです。この母親リベカのヤコブへの偏愛も、兄エサウの怒りを大きくさせたのだと思いますが、ヤコブはリベカの教え通りに、エサウから逃げ出して行くのです。

 

 今日の箇所は、そのような逃亡者ヤコブが夢を見たという箇所なのです。この時のヤコブは、逃亡者でした。ヤコブの心の中にあったのは、祝福と喜びではなく、孤独と不安があったでしょう。また、単に孤独や不安や恐怖という思いだけではなく、少なからず兄と父に犯した罪の意識、罪悪感もあったのだと思うのです。

 

2:  天と地をつなぐ階段 

 そのようなヤコブが今日の箇所で夢を見ます。創世記28:12「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」(12)

 ヤコブは夢の中で天まで達する階段を見るのです。今日と同じ、創世記には、11章に、人間が自ら塔を建て、天まで届かせようとした「バベルの塔」という話が出てくるのです。この「バベルの塔」のお話では、人々が力を合わせて、自分たちで天まで届く塔を作ろうとしたのです。人々は自分たちの力のすばらしさ、自分たちはなんでもできるという思いを表すために、この塔を作ろうとしたのです。つまり、人間は自分で天まで届く力を持っていると、神様など必要ないと考えていたということです。当時の考えでは「天」とは神様のおられるところであり、神様の力が表される場所であると考えられていたのです。人々は、その「天」に自らの力で行こうとしたのでした。神様に頼ることなどは必要ない。自分で「天」行くことができる。つまり、命の支配は、自分たちでできるのだと表そうとしたのです。しかし、結局のところ、神様が人々の言葉を混乱させ、人間がお互いの言葉を理解することができなくすることによって、人々は天まで届く塔を作ることは、できなくなっていったのでした。

 

 それに対して、今日の箇所のヤコブの夢では、その「天」と「地」とを神様の御使いたちが行き来しているのです。これは、まさに、人間が天に昇るのではなく、天におられる神様がその天から地にきてくださっている。神様のほうが、天から地に来て、人間に関わってくださっていることを表しているのです。神様はこのように言われました。創世記28:13-1413見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。14あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。』」(13-14)

 ヤコブは今、不安と孤独の中、一人逃亡者として歩いていたのです。そのようなヤコブに対して、神様は、かつて祖父アブラハム、そして父イサクになされてきたものと同様の祝福の言葉を与えるのです。この神様の言葉は、ヤコブに「祝福とは、あなた自身が頑張って、考えて得るものではないのです。私があなたを導きます。だから安心して、私を信じなさい」と言っているのです。自分でどうにかして祝福を得ようとしてきたヤコブに、神様は、それは私が与えるものであると教えているのです。それはまさに自分たちで頑張って、天まで届く塔を作ろうとしていた「バベルの塔」の話と同じ状態であり、ヤコブは、神様ではなく、自分の力で生きていたということなのです。神様は、このようなヤコブに対して、今一度、「わたしがあなたを導いているのだ」ということを示され、その中で「安心して私に信頼しなさい」と教えられているのです。

 

3:  わたしはあなたと共にいる

 そして神様は、15節においてこのように語られます。創世記28:15「『見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。』」(15)

 神様は「わたしはあなたと共にいる」「どこへいってもあなたを守る」と言われたのです。このときのヤコブはもはや神様からも見捨てられてしまったと思っていのではないでしょうか。しかし、神様はそのようなヤコブの心を知り、慰め、「わたしはあなたと共にいる」と、それは「どこまで行っても、たとえなにがあっても、わたしはあなたを見捨てない」と語りかけてくださっているのです。

 この言葉を聞いたヤコブは眠りから覚めるのです。それは、まさにこれまで暗闇にいてどこに進んでもよいかわからなかった者が、生きる道を見つけ出したように。それは神様に対して盲目であった者が、目を開かれたように。ヤコブは目を覚ますのです。そしてこのように言います。創世記28:16「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」(16)ヤコブは「主がおられることを知らなかった」「創造主なる神様が今、共に生きていてくださるということを忘れてしまっていた」ことに気が付かされるのです。

 

 今日の社会はとても不安定な状況が続いています。アメリカと北朝鮮の関係、ミサイルの問題、自然の驚異による災害。そのほかにも、仕事の不安、生活の不安、人間関係の不安など、私たちの周りは不安だらけなのではないでしょうか。このような不安の中で、私たちは何に頼ればよいのか、考えさせられるのです。わたしたちは、一度立ち止まってみたいと思います。私たちはどのように生きようとしているでしょうか。だれの力で生きていこうとしているでしょうか。私たちが生きている時、そこは不安だらけなのです。そして、その不安の中でも、私たち人間にとって一番と大きな不安は孤独であるということではないでしょうか。孤独であること。それは心を締め付ける最大の不安ではないでしょうか。私たちは孤独からの解放を求めているのです。家族がいて友人がいる、人間関係があることを求めているのです。今はインターネットによる人間関係の繋がりもできており、バーチャルの世界に人間関係を作ることまで起こってきているのです。私たち人間は、それほどまでに関係を持つことを求めている。孤独から逃げようとしているのです。わたしたちは、様々な問題がふりかかってきても、そこに一緒に悩んでくれる人がいるとき、共に生きる人がいると感じる時に、勇気と希望をもつのではないでしょうか。

 このとき、ヤコブは、一人きりでした。父をだまし、兄を裏切り、逃げ出していたのです。心には大きな不安と孤独があったでしょう。そのようなヤコブに、神様は「わたしがあなたと共にいる」と教えられたのです。そしてヤコブは、この言葉を受けて、眠りから覚める、目を覚ましていくのです。

 私たちは、創造主なる神様が今、共に生きていてくださるということを忘れてしまっていないでしょうか。いまだに眠った状態にいるのではないでしょうか。神様は、そのような私たちに「わたしが共にいる」と教えてくださっているのです。それは命の創造主である方がです。神様は命を造り、今も私たちの一日一日を守ってくださっているのです。その方が、階段を地に向かって伸ばし、天と地をつなげ、自らこの世界にきてくだっているのです。私たちが何かをすることによるのではなく、神様は無条件に私たちのところに来てくださるのです。そして「あなたを見捨てない」と教えてくださっているのです。

 私たちは、今、一度立ち止まり、目を覚まして、主が共におられること、そして主が共に生きていることを知りたいと思うのです。

 

4:  応答する道

 神様が共にいてくださるということを知ったヤコブは、神様に礼拝してその恵みに対して応答行為を行っていくのです。つまり、ヤコブはこれまで生きていた生き方、自分で生きようと思っていた生き方から、神様を中心に生きる、生き方の方向転換を決心をしたのです。

 創世記28:20-22「20 ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、21 無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、22 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」(20-22)

 ヤコブは、「自分の旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら」と言います。これは、「神様がこのようにしてくださるのならば・・・」という条件付きで信じますといったのではなく、「神様がこのようにしてくださる。」と信じた上で、「だからこそ・・・わたしは神様にこのように応えて生きていきます」と言っているのです。それは、自分でどうにかするのではなく、ただ神様の恵みのうちに生きるという応答であり、決心です。食べ物も、着る物も、その命を与えてくださる方に、ヤコブはすべてを委ねたのでした。

 

 神様は、わたしたち一人ひとりに、「わたしはあなたと共にいる」「わたしはいつまでもあなたを見捨てない」と語りかけてくださっているのです。今、わたしたちは自分がどのように生きることができるのか、共に考えていきたいと思います。イザヤ書ではこのように言われます。イザヤ30:15「30:15 まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」わたしたちは、どのような時にあっても、共にいてくださる神様を信じて歩いて行きたいと思います。

(笠井元)