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2017.9.24 「神に記憶される幸い」 (全文) 詩編112:1~10

 今日は、召天者追悼記念礼拝です。最近、日本社会でもハロウィーン(halloween)が取り入れられるようになりました。ハロウィーンは、10月31日です。スイス留学時代、子どもたちは秋の収穫期に、農家から大きな蕪を貰い、それをくり抜いて、その中にロウソクを立てて街を歩きました。米国ではカボチャを使うようですね。元は古代ケルト人のお祭りであったようです。森などに棲む魑魅魍魎(ちみもうりょう)、つまり、妖怪のような化けもののようなものに関するお祭りですが、キリスト教会がこれを取り入れて、信仰を持って亡くなった聖徒たち(all hallows)を思い起こす行事となりました。キリスト教会では「万聖節」(all Saints’ day)と言います。日本ではお盆のような風習です。「何でも来い」でクリスマス、バレンタインデー、イースターに引き続いてハロウィーンまではどうでしょうか、商業主義は問題ですが、主イエスの懐にあって復活を待っている、すでに召されて人たちを「思い起こすこと」は大切なことです。皆さんは、誰を思い起こすでしょうか?また、だれから「思い起こされる人」になるのでしょうか?「記憶すること」「思い起こすこと」は人間の大切な働きです。

 

1.教会は現在教会を形成している人たちと、今は召されてキリストにおいて生きている人々とによってなっている 

 今年はマルチン・ルターが宗教改革をしてから500周年を迎えています。1517年10月31日ドイツのヴィッテンベルクという町のお城の教会の扉に「95か条の提題」と呼ばれる文書を貼り出すことで宗教改革が始まりました。私も妻と一緒に何年か前にヴィッテンベルクの城の教会の扉を見学してきました。ルターはなぜ、この文書をハロウィーンの日、つまり、10月31日に貼り出したのでしょうか。これは、私の想像ですが、ルターは、教会というものは現在教会を形成している人たちと今は召されてキリストにおいて生きている人々とによってなっていると考えていたのだと思います。そのような過去と現在、神にあってはそれぞれ生きている教会の聖徒たちのただ中でいわゆる「免罪符」について論じ会おうとしたのだと思います。私たちは現在、目に見えるものしか考えない文化に生きています。東福岡教会というと、現在の私たちのことを考えます。しかし、それは誤りです。Iペトロ4:5では、神は「生きている者と死んだ者とを裁くお方である」と言われており、主イエスご自身も、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」というヘブライ語聖書を引用され、彼らは、神にあって今も生きていると語っているからです。教会はアブラハム、イサク、ヤコブ、そして、ペトロやヨハネ、パウロなど、そして私たちから成っているのです。確かに亡くなった人達は私たちの目には見えないのですが、彼等、彼女らは、私達の記憶の中に生き生きと生きているのです。東福岡教会は、1950年に西公園の麓にある福岡教会の、箱崎伝道所として伝道を開始し、52年現在の教会堂が建築され、53年に教会組織がなされました。同年、付属東福岡幼稚園が設立されました。その間、実に多くの諸先輩たちがこの教会に集い、幼稚園を営み、多くの神学生を迎え、牧師と牧師の配偶者たちを生み出してきました。私たちはそれらの信仰者たちを起こい起こします。そして、私たちもまた、誰かに、そして、少なくとも東福岡教会の群れの中で記憶され続けていくに違いありません。こうして、教会は現在教会を形成している人たちと今は召されてキリストにおいて生きている人々とによってなっているのである。

 

2.神に記憶される幸い

 そのような意味で、今朝は、神に記憶される人の幸いを歌っている詩編112編をテキストに選びました。6節では、「主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼あるいは彼女はとこしえに記憶される」と言われています。「とこしえに記憶される」。最初この節を読んだ時に、ちょっと心が躍りました。なんという素晴らしい言葉でしょうか。神を信じている者は、神にとこしえに記憶されるとは。しかし、少し冷静になって読んで見ると、主に従う人は、とこしえに記憶されるということで、神に記憶されるということと共に、人々に記憶されるというようなことでしょう。「とこしえに」とありますので、神がとこしえに記憶されるという印象が与えられたのかも知れません。

 詩編112編は111編と対になっています。111篇も112編も「いろは歌」と言われていて、詩の最初の文字がヘブライ語の「アレフ」「ベート」「ギンメル」「ダレット」と続き、22文字の順序で綺麗に整理されています。111編は、最初のハレルヤを除いて、22行からなり、112編もまた、最初のハレルヤを除いて22行詩です。

 詩編の111篇は主なる神について賛美の歌を歌い、112編は、主を畏れる者たちの幸いが歌われています。111編の神賛美に対応して、同じような言葉で、112編が神を信じる人の幸いを歌っているのです。111:3節では神の「恵みの業は永遠に続く」と言われ、同じ言葉が、112:3では主を畏れる者の「良い業は永遠に堪える」、9節で、貧しい人々に惜しまず与える人々の「その善い業は永遠に堪える」と繰り返されています。さらに、111:5では「主を畏れる人に糧を与え」と言われ、そして、111篇の10節では「主を畏れることは知恵の初め」と言われ、112編の1節はそれを受けて、「いかに幸いなことか 「主を畏れる人 主の戒めを深く愛する人は」と言われているのです。

 そして、このような平行は、111:4の「主は驚くべき御業を記念するように定められた」(ゼケル)とあり、112:6は「主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼あるいは彼女はとこしえに記憶される(レゼケル)」と言われています。「ザコル」=「記憶する」「記念する」というヘブライ語聖書の重要な言葉が繰り返し用いられています。神のみ業を記憶することは人間の大切な働きですが、112:6では、主を信じる「信仰者たちが神によって、(人々によって)とこしえに記憶される」と言われているように思えます。青木澄十郎は「義人は永遠の記念たらん」と翻訳している。原文は「主に従う人は、永遠の記憶に向かって存在するであろう」というような表現です。

 

3.人間の記憶の限界

 記憶すること、記憶されることは人間にとって大切なことです。しかし、私達の記憶はいつしか薄れていきます。やがて私たちは愛する人の存在を忘れ、忘れられていきます。それが人間の限界ではないでしょうか。あるいは、逆に、忘れることもまた、人間の能力でもあるとも言えないでしょうか。辛い、苦い過去の出来事や経験をいつまでも覚えていたり、憶えられているのも苦痛でしょう。私たちは、「過去」「現在」そして「未来」という3つの時間を経験するのですが、過去とは「もはや存在しないもの」、未来とは「いまだ存在しないもの」です。しかし、人は精神を集中させて信仰に生きるとき、過去を「かつてあったもの」として記憶し、感謝することができるのです。また、将来とは「やがてあるであろうもの」であって希望として私たちは、現在経験できるのです。しかし、信仰によらなければ、過去という「もはやないもの」にクヨクヨこだわり、過去を感謝をもって思い起こすのではなく、後悔ばかりすることになります。血が流れ、カサブタになった傷を敢えて剥がすこともないでしょう。確かに、忘れることにも重要な場面があるのでしょう。記憶が薄れていくことは人間の限界でもあり、人間の救いでもあるのかも知れません。すべてが記憶されたら恥ずかしくたまらないことでしょう。コロサイ書3:3で、「あなたがたはキリストにあって死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」と言われています。キリストと共に「忘れてくださる」とは書かれておりませんが、「神の内に隠され、匿われている」という考え方も素晴らしいものではないでしょうか。神は、閻魔様のように、全ての私たちの悪事を書き留めて、記憶しておられるというよりも、信仰の働きだけを記憶して下さるのであれば、有難いことです。

 

4.闇のような経験

 聖書は確かに私たちが思い出したくないような闇を経験することを知っています。4節では、「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る」と言って「闇」の存在を知っています。7節では正しく生きていても「悪評を立てられること」があると言います。8節では「敵」について語られ、10節では「神に逆らう者」の存在に触れられています。しかし、それらの闇のような経験の中で、「光が昇り」、悪評に恐れず、その心は、固く主に信頼している」と歌うのです。聖書においては闇が光に勝つことはありません。死がいのちに勝つことはありません。神が悪しき力に負けることはありません。「固く主に信頼している」「バータハ」とはしがみ付き固着するというような意味です。ここに信仰者の生きる希望があります。

 

5.記憶されるように生きる

 先ほど、6節の後半の言葉は、「主に従う人は、永遠の記憶に向かって存在するであろう」というような意味でもあると申しました。つまり、私たちは、将来の私たちの生き方が記憶され、それが喜びであるように生きねばならないのです。老いること、やがて死ぬことは避けることはできません。しかし、死の力が私たちを支配するのではないのです。私達は死を絶対視し、死が神であるか、運命であるかのように、死を偶像としてはなりません。神ご自身が主であり、命が勝利するのである。いかに病や死が決定的に思え、我々は抵抗できないように見えても、決して死は勝利者ではなく、死は私たちがどのように生きたかの記憶を消し去ることはできないのです。これはイエス・キリストの十字架の死、裏切られ、見捨てられ、孤独の中で死に赴かれ、そして、蘇られ、現在でも記憶され続けられている出来事から確実に言えることです。ですから、私たちは死を絶対化するのではなく、むろん、自分を絶対視するのでもなく、イエス・キリストを死から引き上げられた神に信頼し、日々の生きたいものです。主なる神と人々から「とこしえに記憶されるべく」、私たちは、主を畏れ、その戒めを深く愛し、まっすぐな人として、憐れみに富み、情け深く、豊かに貸し与える人として生きたいものです。「主に従う人はとこしえに揺らぐことがない」「その心は、固く主に信頼している」というような生き方をしましょう。私たちはそのように生きた先輩たちの信仰を記憶しましょう。(松見俊)