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2017.8.27 「義なる神が罪ある者を赦された」 (全文) マタイによる福音書5:21~26

 前回、17節から学び、「イエス様は律法を完成されるためにこの世に来られた」、ということをお話しました。イエス様は、今日の箇所から続けて、律法の完成について、6つの言葉を教えられるのです。今日の箇所では、小見出しでは「腹を立ててはならない」と教えられます。ここから、「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」「復讐してはならない」「敵をあいしなさい」と続くのです。イエス様はこの6つの事柄において、「あなたがたも聞いているとおり・・・これこれこのように命じられている。しかしわたしは言っておく」と教えます。これは、前回も言いましたが、これまで教えられてきた律法と預言者つまり、旧約聖書を完成される言葉として教えられているのです。

 

1:  律法の限界

 イエス様はこのように言われました。

 21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

 イエス様は、外面的な行為だけでなく、人間の内面的なところ「心」のうちまでも見られたのです。これまで語られてきた律法には限界がありました。それは、人間の外面的行為しか問題にすることができないということです。つまり、人間が、何を考えているかではなく、何をしたかだけでしか、その行為の善悪の判断をすることができないということです。どれほど人を憎んでいても、律法を守っていれば、そこに罪は発生していないことになるのです。それも、実際に、「なにもしていないのだから、良いではないか」と思うかもしれません。確かにそうでしょう。この社会で生きていくためであれば、何の問題もないのかもしれません。「だれにも迷惑はかけていない、なにもしていないのだから、自分が心の中でどのように思っていてもいいじゃないか。」と思うかもしれません。それは確かにその通りなのです。では、一体、何が問題なのでしょうか。

 

 律法の一番の問題は、自分自身が自分を裁く権利を持っていくころにあるのです。自分が何を考えているかは、行動にしなければ誰もわかることはないのです。しかし、それを自分は知っているのです。だれも知らない、わからない。しかし自分自身はその心の深い闇を知っているのです。私たちは、何もしていなくても、心にうそ、いつわりがあり、他者を呪うような思い、憎しみ、怒りを持つときに、心は穏やかに生きることができるのでしょうか。しかも、それをだれもわかることはないのです。つまり、だれも裁いてくれないと同時に、だれも自分の持つ心の痛みを知ってくれることもないということなのです。他者に対する怒りや憎しみは消えていかない。この気持ちをどうすればよいのだろうと・・・思えば思うほど苦しくなる。そして結局、そのような時に、人間は、自分で自分自身を裁いてしまうのです。

 日本の自死者の人数は年間3万人ほどです。その理由は様々なものがあると思います。いじめ、生活苦、絶望。そこに加えて自己否定という思いがあるのです。みなさんは自分のことが好きですか。自分のことを愛しているでしょうか。

 

2:   裁く権利 

 イエス様の弟子のイスカリオテのユダは、イエス様を裏切りました。その後、イスカリオテのユダは、自分の罪の重さを受け入れきれずに、最後は自分から命を絶ったのでした。ユダは、自分で自分を裁いたのです。イエス様を裏切った自分の罪、そのような心の闇を持つ自分の存在を受け入れることができずに、自分自身に「腹を立て」、「ばか」、「愚か者」と言い続け、結局自ら命を絶ったのです。イスカリオテのユダが本当の意味で神様を裏切ったのは、イエス様を裏切り、売り飛ばした時ではなく、自ら命を絶った時でしょう。

 そしてまた、イエス様を裏切ったといえば、イエス様の一番弟子ともいうことができるペトロもイエス様を「知らない」と3度も言ったのです。イエス様を裏切ったということでは、イスカリオテのユダも、ペトロも変わることはないのです。しかし、ペトロは、その後、イエス・キリストの福音を伝える、教会の中心人物となっていったのです。

 

 ペトロとユダは何が違ったのでしょうか。イスカリオテのユダは、自分の命を自分のものとし、自分で自分を裁いたのでした。ユダは、自分の起こした罪の大きさに押しつぶされたのでした。それに対してペトロは、自分で自分を裁かなかったのです。ペトロもまたユダのように自分を「馬鹿」「愚か者」と思ったでしょう。しかし、間違いを犯した罪の大きさを感じながらも、その間違いを自分で裁かなかったのです。ペトロは、そこから悔い改め、しかもただ自分で新たに頑張っていったのではなく、本当の意味で神様に従う道を見出したのです。自分は罪を犯した。しかし、その裁く権利自体も自分はもっていないということに気が付いたのです。ペトロは大きな失敗から、本当の意味での信仰を得たのです。自分の命を支配されている方、神様に委ねて生きていくという本当の信仰を得たのです。

 

3:  殺すな 怒り

 律法では「殺すな」と教えています。しかし、イエス様はその言葉を超えて、「兄弟に腹を立てる」こと、「兄弟に『ばか』と言う」こと、「『愚か者』と言う」こと自体が間違っていると教えるのです。兄弟に「愚か者」ということ、それは「お前などは死んだほうがましだ」というニュアンスを持つ言葉であり、相手を呪う言葉なのです。つまりこの言葉は、その者存在を否定することであり、それは、その者を創造された神様を冒瀆する言葉なのです。

 わたしたちは、日常の生活の中で、「あの人がいなければ」とまで思うことは、そう毎日あることではないかもしれません。しかし「ちょっとあの人は苦手だ」とくらいは思うことはないでしょうか。それは「あの人の生き方はちょっと自分とは違う」と、それくらいの「存在否定」まではいかない思いかもしれません。しかし、その小さな思いをそのままにしていくとき、それはいつの間にか「あの人とは関わるのはやめよう」「一緒にいる必要はない」と、だんだんと距離を置くことになり、最終的には、自分の人生には関わりがないようにするのです。厳しい言葉ですが、その小さな思いは、すでに心の中で、その人の存在を否定しているのであり、行ってはいないけれども「殺人」を犯しているのと同じ状態の心となっていくのです。「あの人がいなければ」として、無関心になること、関係を遮断することは、その存在の否定につながっていくのです。

 

 愛の反対は無関心であると言われます。無関心になること、それは隣にいてもいないとすること、つまり心の中で、その人の存在を否定している。殺人であるということになるのです。イエス様が言われているのは、とても厳しい言葉ですが、この無関心の罪の重さと、そしてそこから関係を回復することの願いです。

 23節からこのように言います。23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。

 イエス様は、「仲直りしなさい」、「和解しなさい」と言われているのです。

 

4:  関係の回復

 主イエス・キリストは、私たちが仲直りし、関係を回復すること願っておられるのです。私たちは今、だれか憎みや受け入れられないという感情を持っているでしょうか。同時に、聖書では、「兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら」(23)とありますように、自分がだれかから恨まれ、憎まれていないか、思い出してみましょう。

 実は、この説教を作っていた時、わたし息子の事を「もう絶対、赦さない」と思っていました。その息子が、この時に「ごめんなさい」と言ってきたのです。なんで怒っていたかは、あまり言いすぎると、子どもに悪いので、やめておきますが、簡単に言いますと、「わたしが心を込めて、作ってあげたものを、二人がケンカをして壊して、しかもわたしに悪いとも何とも思わず、ケンカを続けていた」ということです。

 そのため、私は「もう赦さない」と思ったのですが・・・この説教のこの場面を作ってきたときに謝ってこられたので、赦すしかありませんでした。これは、神様がその時を選び、赦す心を与えてくださったのだと、信じたいと思います。

 

聖書は、神様の前に供え物を献げる前に、和解をしなさいと教えています。神様に献げる一番のものは、愛だからです。神様は愛をもって和解しなさいと教えられている。そして、それは和解する相手もまた神様の似姿として創られた、神様の姿を表す者であることを思い出しなさいということです。私たちが隣人と和解をすることは、まさに神様の似姿として創られた者と、つまり神様ご自身と和解をすることなのです。

 

私たちが和解できないとき、赦しあうことができないとき、それは、たいてい、「自分は悪くない」と思っているからなのです。そしてお互いにいがみ合っているときは、お互いに、お互いが「自分は悪くない」「自分が正しい」と思っているのです。神様は、そのように自分の正しさを主張することを求めておられるのではないのです。そうではなく、赦す心、愛する心を求められているのです。本当に正しく、本当の義なる方、人間を裁く権利をもっている方は、神様だけなのです。本当の正義を持つのは神様のみです。その義なる神様が私たち人間に下された裁きとは、私たちの罪、間違いを、自分の正しさのゆえに裁かれたのではなく、その愛と憐れみの中で、受け止めてくださったのです。

神様はその正しさを捻じ曲げられたのではありません。神様は義なる方として、人間を愛し、自らの御子イエス・キリストを人間として、この世に来させ、このイエス・キリストを人間の代表として裁かれたのです。それが十字架の出来事なのです。神様は罪ある私たちを愛された。これが神様の正義が出された結論です。

私たちは赦されて、愛されている者として赦し合い、愛し合いたいと思います。私たちが神様に差し出すべきものは、見た目として神様の前に正しく生きることではなく、頑なな心を砕かれ、神様の前に謙虚になることです。和解とは、神様の前に謙虚になることです。私たちは、今、この世界に「平和が来ますように」と祈り、そしてまず隣人の存在を喜んで生きることができるように、神様の前に謙虚に生きていきましょう。 (笠井元)