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2017.8.13 「生きるとは、キリストである」 (全文) フィリピの信徒への手紙1:19~26

 8月は、かつての戦争を思い起こし、その悲惨さを心に刻み、二度と同じ過ちを犯さないことを祈る季節です。笠井先生が8月6日に平和の問題を取り上げて下さったので、私は、今朝は、あえて、戦争と平和の問題を取り上げません。あの法案が成立してから早速、防衛省は110億円の予算を付けて大学が「軍事研究」をするように勧めています。今の処、多くの大学はこれを拒否していますが、一つの法案が成立するということは具体的にこのような動きになります。戦争で儲ける企業や戦争で盛んになる学問があるのです。大学ではその対応に追われていることをお伝えしておきます。直接、戦争と平和を話題にしなくても、今日の個所、フィリピ1:19~26には、生きることと死ぬこと、どこか平和と戦争に繋がる事柄が語られていると言ってよいでしょう。

 

1.キリストが公然とあがめられること

 今日の個所で最も私の心を引く言葉は、「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」という言葉です。本来この言葉を説教題にしたかったのですが、週報の礼拝プログラムには長すぎるし、教会の看板にも、どうにも長いですね。そこで、21節の「生きるとは、キリストである」という説教題にしました。ですから、まず、20節に注目してみましょう。「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」。皆さんには、それぞれの人生の目的、生きる使命があることでしょう。何が皆さんの人生の目的であり、使命でしょうか?切に願い、希望していることは何でしょうか? 仕事とお金儲けでしょうか? 家族を愛することでしょうか? 健康に生きることでしょうか? パウロは「自分のからだ、つまり、彼の人間性全体を通してイエス・キリストが公然とあがめられることを」切に願い、希望している、と告白しています。

 何かとてもパウロらしい、勇敢で気高い願いと希望であるようにも響きます。しかし、これは、私自身の願いでもあり、皆さん、お一人一人の願いと希望でもあると思います。仕事をしてお金を得ることは尊いことです。しかし、それが目的であり、使命であるとすると、仕事が無くなったり、企業が倒産したりしたら目も当てられません。不安です。健康であることも重要な課題です。しかし、それが目的であり、使命であれば、病気になったり、年老いて健康が揺らいでくると大変です。家族を愛することも重要でしょう。しかし、もしそれが目的であり、使命であれば、親離れ、子離れが難しくなり、一人で生きることは寂しいことでしょう。しかし、友人があること、教会に友がいることは、血縁関係、婚姻関係に引けを取らない素晴らしいものです。だから、生きるにしても死ぬにしても「キリストがあがめられること」、これを目的にし、使命にしておくことが私たちを自由にするのです。「キリストが公然とあがめられること、しかも、私という人間を通してあがめられること」がもっとも素敵な願いであり、希望なのです。

 

2.生と死の相対化

 パウロは、「生きるにも死ぬにも」と言います。通常、人は、やがていのちが死に飲み込まれるときがくると考えて、死を恐れるのです。そして、死ぬことを忘れること、無視することで、やり過ごそうとします。しかし、そのようにしたところで、死の支配が生きていることの中にそっと忍び込んでくるのです。しかし、信仰者にとっては、大きないのちの一部として人は死を経験するのです。いのちがあるからこそ死をも経験します。そして、死は、神と人、人と人、愛する人と人の別離の悲しみは大きな神のいのちに包まれてしまうのです。それがイエス・キリストの復活において起こったことです。それゆえ、愛する者との別離は辛く、悲しいのですが、死を恐れることはありません。たとえ死に渡されても私たちは神にあって生きるのです。そうであれば、生も死も私たちにとって絶対的な意味を持つものではないのです。相対的なものです。この世に生きる生は、一時的なものであり、過ぎ去るものです。パウロは、「生きるにも死ぬにも」と言って、キリストがあがめられることに比べれば、生も死も何と言うこともない、相対化なものであるというのです。

 

3.「そうようなもの」として生きること

 生も死も相対的なもの、過ぎ去る一時的なものであるから、どうでも良いというのではありません。そのように相対的なものであるゆえに、過ぎ去るものであるゆえに、一瞬一瞬を大切にして、どう生きるか、キリストのため、教会のため、そして家族のために、自分のために、どう生きるかが問われているのです。死そのものに支配されたいのちは、結局、自暴自棄、暴飲暴食、快楽主義となり、他方、やがて死にはするけれど、大きな神のいのちに包まれた生は、一瞬一瞬をキリストと教会のために生きる真剣さと喜びと感謝を与えるのです。それはパウロにとって「板挟みの状態」を与えます。

 21節で パウロは「わたしにとって死ぬことは益である」と言います。投獄されて、政治家たちの気まぐれでいつ殺されるかも分からないパウロは、苦悩から解放され、一刻も早く個人的な救いが完成される死を迎えることは良いことだと思っています。むろん、パウロは投げやりに死にたいと思ったり、投げやりで生きているわけではないのです。私たちは、神に愛され、赦されているとしても、救いは将来の終末の時に完成するのであり、その世に生きている間は、呻きや嘆き、苦しみ、悲しみも入り込んでくる人生です。だから、肉体的に死ぬこと、キリストと直接的に共にいるようになることは益なのです。投獄されて、政治家たちの気まぐれで殺されるかも分からないパウロは、苦悩から解放されて、一刻も早く個人的な救いが完成される死を求めるのか、あるいは、その喜びが遅れることを受け入れて、使徒としての働きにさらに従事することを選ぶのか?何よりもまず、最後の最後まで教会に仕えるべきではないか!そのあれかこれかの板挟みなのです。むろん、自死するわけにもいきません。彼にそのような決定権があるわけではないでしょう。決め手は、21節の「わたしにとっては」死ぬことは益であるということと、肉に留まってもう少し苦労の生活を生きる事は「あなたがたのために」(24節)良いとの判断です。決断の決め手は「あなたがたのゆえに」です。私たちは、自分自身のためにというより、「あなたがた」という他者がいることによって生きる勇気が与えられるのです。パウロが福音宣教者として生き続けるということが、キリストとその教会にとって、実り多い働きであるとすれば、どちらを選ぶべきか、板挟みになる。パウロは生き延びることがフィリピの人々に少しでも貢献できると考えて、生き延びることをここで選択しています。パウロにとって、生も死も、自分のものであって、しかも、自分のものではないとう不思議なものでした。彼にとって、何が必要かを決定するのは、彼の都合ではなく、教会の都合であり、神の都合でした。

 

4.生きるとは、キリスト

 今日の説教題である21節、パウロにとって、「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益である」の「生きるとはキリストである」という不思議な言葉にも光を当てましょう。Living is Christ and dying is gain. おかしな表現ですね。これと似た言葉がガラテヤ2:20に登場します。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。文語訳では「我もはや生きるにあらず。キリスト我がうちに生きるなり」でした。こうして、キリストはただ単に使徒パウロが宣教する対象、内容ではなく、彼の真のいのちを可能にし、「生きている」というその人生を豊かに意味づける根拠でした。すべてがそこから来るのです。キリストがパウロの中で、パウロに代わって生きていると言うのです。これはもうちょっと神秘的体験ですね。そのような境地であれば、死ぬこと、生きることは大した問題じゃなくなるのでしょう。

 

5.フィリピの信徒たちの祈りがパウロの救いとなる

 最後に19節に戻りましょう。「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことが「わたし」の救いになると知っているからです。」「このこと」とは、先回学んだように、パウロの入獄をきっかけになされた福音宣教のことか、あるいは、パウロが置かれている投獄という厳しい状況のことか、それを中心として禍と見えるものがまさに福音の前進になっているということなのかはっきりしませんが、いずれにもせよ、それがパウロの「救いになる」と言うのです。禍いを通して他者が救われることは、宣教者自身にも救いになるというのです。Iコリント9:23には、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」とあります。ここは新改訳聖書が良いですね。「わたしはあらゆることを福音のためにします。私も共に福音にあずかるためです」。肩の力が抜けて自由です。よく、「情けは人のためならず」と言います。ある気性の激しい女性教会員は「情けは人のためにならないから、妥協せず、厳しく対処する」とこの諺を理解していましたが、そうではないですね。本来は、「他者に対して情けをかけることは巡り巡って自分に返ってきて自分を救うことになる」と言う意味です。パウロは、投獄されるまでキリストとその教会のために生きているのですが、その際、「フィリピの信徒たちの祈り」と「イエス・キリストの霊の助け」がそのような相互的救い、パウロにもフィリピの人たちにも救いになるというわけです。厳しい迫害や困難に直面して、使徒が使徒としての働きを全うするには、霊の助けだけではなく、信徒たちの祈りを必要としているというのです。実際、キリストの名による祈りには力があり、神は私たちの祈りを聞いて下さるのです。皆さんの執成しの祈りは不可欠です。笠井先生は、ローマの信徒への手紙14:8の「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」を牧師献身の際のみ言葉とされたそうですが、これは、フィリピの21節、22節ととても似た内容です。たぶん、生涯治ることがないであろう病気を自覚したときに、与えられたみ言葉なのでしょう。しかし、牧師は自分の自覚だけでは仕事をすることはできないのです。信徒の方々の祈りと聖霊の助けなしでは働くことはできません。20節には「どんなことにも恥をかかず」とありますが、やり始めた働きが途中で挫折して福音宣教者として立てなくならないようにという思いなのでしょうか。パウロにとって今更、恥ずかしいことなどないのでしょうから、伝道者として神に用いられなくなること、自分が神から捨てられることがないように、ということがパウロの切なる願いであり、希望だったのでしょう。そのためにも、パウロはフィリピの人々の祈りを必要としていたのです。それがそれぞれの「わたしの救い」となれば幸いです。(松見俊)