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2017.8.9 「暗闇の災い」 出エジプト記10:21-29

1. 手に感じるほどの闇

 ここではただの「闇」ではなく「手に感じるほどの闇」と表現されているのです。「手に感じるほどの闇」と表現から一つの考え方として、エジプト周辺で起こっていた「砂嵐」のようなイメージがあります。このような闇は、ただ視覚的に見えなくなるということだけでなく、聴覚、触覚、嗅覚が失われていくということでもあるのだと思うのです。前に進むことも、また後ろに戻ることも、また右にも左にも、どれが正しいのかわからなくなるのです。(イザヤ59:9-10)

 神様が下された災いは、まさに光が閉ざされた状態であり、生きる道がどの道なのか、それがわからなくなってしまった状態です。

 

2. 神の裁きとして下された災い

 この真っ暗になる災いというのは、それほど大したものではないと感じたのです。「この闇の災いは、それほどではない、家にいればいいじゃないか」と思ったのでした。しかし、「闇」は自分がどこにいるのかをわらなくし、誰とも向き合うことができなくなるのです。これは、とても恐ろしいことだと思うのです。生きる道が真っ暗にされたということは、とても大きな恐怖となるでしょう。それはまさに神様による大きな災いであり、裁きということができるのです。

 

3. 光から闇へ 

 光から暗闇の中に入れられる時に、それは、人間が歩んできたその道を逆戻りするという意味も持つでしょう。(創世記1:1-5)神様は闇の中に「光あれ」と光を創造されたのです。神様の創造の業は「光」の創造から始まっているのです。神様は命を造られた、光は命なのです。 

 これに対して「闇」に覆われるということは、ある意味、命が造られる前に逆戻りするような意味でもあるのです。神様の創造が遮断したのです。この災いは何よりも厳しい、絶望という神様の裁きなのです。

 

4. ファラオの対応

 闇の災いを受けてファラオは「羊と牛は残しておけ。妻子は連れて行ってもよい」(24)と言ったのでした。家畜はただの食べ物ではなく、主に献げる、献げものであったのです。しかしファラオにとってみれば、家畜はただのものであり、自分の支配下にあるもので、自分が所有するもの、神様から与えられている命の恵みとは考えていないのです。ここには、命に対する考え方の違いがあるのだと思うのです。

 そして最後にファラオは「二度とわたしの前に姿を見せないように」と、この問題に蓋をしてしまったのです。このような行為は信仰から人間を遮断するのです。私たちを救い出してくださるという恵みをも受け入れられない姿です。(笠井元)