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2017.7.9 「神ご自身、救いを完成される!」 (全文) フィリピの信徒への手紙1:3~11

 パウロはここで、牧会者、牧師としてフィリピの教会に手紙を書いています。ですから、まず、東福岡教会の牧師である笠井元先生、協力牧師である私が心してこの手紙を読み、パウロのような心と姿勢をもって歩みたいと思います。そして、皆様はこの手紙をパウロ牧師から受け取っているような気持でお聞き下さると幸いです。

 

 1.神に感謝すること

 皆さんは手書きの書き出しの言葉にどのような言葉を書きますか? 「毎日蒸し暑い日が続きますね」という時候の挨拶や相手への思いやりの言葉でしょうか。プロテスタンでは「主のみ名を賛美します」という文章が多いでしょうか。

 パウロがフィリピ教会に宛てた手紙の最初の言葉は、「私の神に感謝する」です。「感謝」(ユーカリストー)で手紙が始まります。ギリシヤ語本文は「わたしは感謝する。私の神に」という順序です。「感謝」が最初の言葉です。最近、神学校での研究・教育のために『小さな教会における指導力を活性化する。教職者と信徒が共に働く』という英語の本を読んでいましたが、小さな教会の牧師は感謝することが重要であるであるとありました。信徒の人たちに祈られ、財政的に支えられ、礼拝に共に与り、奉仕することによって牧師は本当に信徒の方々に支えられているからです。私自身はどちらかというと感謝することは苦手かもしれません。私の長男はゼロ歳の時から水曜日の祈祷会に出席していました。私は祈祷会では、来週のこと、来月の課題などに心を向けて、そのための神の導きを祈るのです。まあ、仕事人間ですね。ところが、長男はまず、先週の祈りに神様が応えて下さったことに感謝を捧げるのです。そういうわけで、仕事人間である私は子どもたちから大切なことを教わりました。まず神に、そして皆さんに感謝することから始めることが大切です。皆さんは今朝はどのようなことに感謝するでしょうか。「感謝すること」は、牧師だけではなく、クリスチャンにとって大切なことです。

 

 2.思い起こす度に

 では、具体的にパウロはどういうときに神に感謝するのでしょう。パウロは、フィリピの信徒たちを「思い起こす度に」と語ります。ある人を記憶し、思い起こすことは大切なことです。英語で手紙を書く場合に、「どうぞだれだれによろしくお伝えください」と書く場合は、please remember me to ○○と言います。その人が私のことを思い起こして下さい、というような意味でしょうか。

 

私たちは主の晩餐式で、あの最後の晩に至るまでのイエス様の愛の姿を思い起こします。そうでした。わたしたちバプテストはあまり使いませんが、他の教会では、主の晩餐式のことを「感謝」(eucharist)と言います。

しかし、この手紙の冒頭では、単に、「記憶する」ということより、具体的に、相手の人の名を挙げて「執成し祈る」ことを意味しています。「祈る度に」感謝するというのです。牧師や教会の指導者たちの働きは、まず、信徒たちのために執成し祈ることです。パウロはフィリピの信徒たちの顔つきや行動を「思い起こし」(ムネイア)ながら、また、彼等一同のことを祈りにおいて「考え」(フロネイン7節)、そして、彼らのことをイエス・キリストの愛の心で思っている(エピポセオー8節)と語ります。この「イエス・キリストの心」という翻訳は少し弱いと思います。この言葉は、ルカ福音書の10章の良きサマリア人の譬えでは、サマリア人が強盗に襲われた旅人を「憐れに思い」、旅を中断して、救援活動をした時に用いられ、さらに、ルカ福音書15章のあの放蕩息子の譬においては、父親が、財産を使い果たし、身を持ち崩し、ヘトヘトになって戻って来た息子を「憐れに思い」、走り寄ったと翻訳された言葉です。心配で、「内臓・はらわたが痛む」(スプラグクノン)という強烈な言葉です。人を想う思いが内臓に食い込むような心のあり方です。パウロはあの十字架の苦難に至るキリストの憐れみ・激しい心と同じ心で、フィリピの人たちのために執成し祈るのです。牧師だけではなく、私たちも教会の兄弟姉妹のことをこのように記憶して、執成し祈りたいものです。

 

3.「喜びを持って」祈ること

先回の説教ではフィリピ書は「喜びの手紙」と言われると言いましたが、パウロは、フィリピの信徒たちをいつも「喜びをもって」(4節 メタ カラース)祈ると言います。現実的にはパウロは投獄されており、喜べる事情ではありませんでした。しかし、彼は自分のことではなく、フィリピの信徒たちを思って喜んでいるのです。最近の脳の研究では、喜ぶことは脳内物質ドーパミンを分泌させ、人間を活性化するそうです。先日はテレビで「笑いヨガ」というものを放映していました。笑うと認知も軽くなるというのです。嬉しくなくても鏡を見て「ニタット」笑ったとしても効果があるとも言われています。テレビを見て笑うこともストレス解消に言いそうです。あるいはある本では、「人間は本来喜ぶようにできている」とも書かれています。私自身は性格的には余り喜ばない人かも知れません。あるとき、新卒牧師研修会のことでした。金沢教会の牧師、日本バプテスト連盟の理事長の田口昭典牧師が、出席していた新任牧師候補の自己紹介をお願いして、最近嬉しかったこと、喜んだことを話せと言ったことがありました。私は主宰者でしたので、陪席していたのですが、最近嬉しかったこと、喜んだことを思い出そうとしても思い出せませんでした。嬉しいことがなかった訳ではありませんが、嬉しい体験と悲しい経験、楽な経験と辛い経験というような分け方で物を考えておらず、淡々と神様のみ心に沿って歩むという感じなのです。ですから、特に「嬉しい経験」「喜びの経験」と言われても思い出さなかったのです。損な性格というか嫌な性格ですね。皆さんは、Iテサロニケ5:16の「いつも喜んでいなさい」が好きな聖句でしょう。多分、皆さんも「いつもは喜べない」からこそあのみ言に心を惹かれるのではないでしょうか。クリスチャンの喜びは自分の幸不幸というより、あるいは、感情というより、神様の一方的恵みの出来事から由来するものなのです。こうして、「喜び」もクリスチャンの生き方を表現しています。「喜び」は「感謝」と「執成しの祈り」と並んで、クリスチャンの本来の姿です。パウロは喜びをもってフィリピの人たちを覚えて祈りました。

 

4.神が救いの業を完成して下さる

なぜ、パウロは喜ぶことができたのでしょうか。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」と言います。一人一人が福音にあずかっている、だからパウロは感謝し、喜んでいるのです。これは過去というか今に至るまでのフィリピの人たちへの想いです。しかし、それだけではなく、パウロは彼らの将来を見ていたのです。6節には、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」とあります。確かにここまでは神が導かれ、兄弟姉妹たちにも支えられてきた。しかし、今から、ここからは「自分で頑張れ」というのではありません。神様ご自身が、私たちを救おうと思って信仰を与え、教会へと導き、たとえ紆余曲折、苦難、困難があったとしても、必ず、神ご自身が責任を持ってそれを完成して下さるというのです。これがパウロの「確信」の根拠です。これについては、私は得意です。私は、信徒たちを励ますために手紙にこの言葉を書くことが多いです。この言葉を私もパウロと共に、確信しています。そしてこのことが喜び、感謝の根拠なのです。ですから、今朝は是非この言葉をメッセージの中心としたいと思います。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)。また、重ねて10節~11節では「そして、キリストの日、つまり救いの完成の時に、備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」と言われています。生ける、真の神の前に立つことには恐れがあります。私たちは、とがめられるところばかりでしょう。しかし、その日に備えて、神ご自身が愛と救いの業を完成して下さる。始められたからには、最後まで責任を持って完成して下さる。これはパウロの希望であり、私達の希望であり、喜びの根拠なのです。皆さんも是非このことを確信して欲しいのです。そして、この言葉に赤線を引いて記憶し、反芻して欲しいと思います。

 

5.見分ける力

最後に、「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられえるように」とあります。これがパウロの祈りでした。私たちの愛は深い知識に根差し、他方、私たちの知識は、愛と結びついていなくてはなりません。知識と結びつかない愛は、状況に「流され」てしまいます、愛と結びつかない知識は、冷たい律法主義、形式主義となってしまいます。愛と知識が結びつくとき、私たちは日々の生活において、何が第一に重要なことで、何が第二、第三のことかを「見分けること」ができるようになります。この「見分ける」という言葉は「ドキマゾー」というギリシヤ語です。有名なローマ5:4では「忍耐は練達を、練達は希望を生むこと」を知っていると言われており、この言葉が「練達」と翻訳されています。「テスト済」まあ、「免許皆伝」というような意味です。「錬」という字は金属を火で精錬し、不純物を除くことです。イトヘンの「練」は新しい布を水で晒して強くすることです。ことの本質を「見分けること」ができる練達した信仰とは、第一のことを第一のこととして生きる信仰のことです。第一のこととは、私たちが神から愛されていること、そして、神はその愛の業を必ず完成して下さることです。確かに、人生において私たちは様々な苦しい体験をします。しかし、そのような苦しい、苦い経験が第一のことではありません。この「見抜く力」で、日々の苦難、病いなど困難な経験はあくまで、第二、第三のものであると位置付けて生きましょう。私たちは普段は気付きませんが、病気になったり、思わぬことに出会うと、お金や家柄、誇りや名誉など、そしてもっと言えば、妻や夫、親も子さえも本当は頼りにならないことを知るのです。それらは神のようにではなく、あくまでも第二、第三のこととして、問題含みの人間として素晴らしい賜物であるのです。人は困難な経験を通して信仰の気付きを与えられ、困難な経験を通して、テスト済、練達を与えられるのです。そして、練達は希望を生み出し、希望はわたしたちを欺くことはないのです。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです(ローマ5:5)。

そうであれば、私達もパウロと共に、この「本当に重要なことを見分けられるように」兄弟姉妹のことを憶えて祈り合いましょう。(松見俊)