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2017.6.18 「あなたは誰の隣人になりますか?」 (全文) ルカによる福音書10:25-37

1: 善きサマリア人 

 今日は、先ほど子どもたちに「善きサマリア人」のお話をしました。この話は、イエス様がなされた有名なたとえ話の一つです。この話の中心は、子どもたちに話した通りで「隣人を愛しなさい」という内容となります。今日は、皆さんと、この聖書のお話をもう少し掘り下げて、御言葉を学んでいきたいと思います。 今日のお話のポイントを簡単に説明していきたいと思います。ポイントは二つです。

 一つのポイントとなるのは、「祭司」と「レビ人」の存在です。この人たちは、なぜ強盗に襲われた人を助けなかったのでしょうか。聖書は、彼らがただとても冷たい人間で、困っている人に目を向けない人だった、ということを言いたいわけではないのです。「祭司」と「レビ人」とは神様に仕える人々でした。神様に礼拝をするために働いていた人たちなのです。神様に仕える者として、本来ならば、だれよりも困っている人を助けると考えられる、「祭司」と「レビ人」です。そのような人が、目の前で半殺しにされている人を見捨てていってしまったのです。

 このような行為をした、彼らには彼らなりの理由があったのです。聖書の規定の中には、「死人に触れた人はその人も汚れる」そのため「7日間体を清めなければならない」という規定がありました。この規定自体は、実際の知恵としてはとても意味のあるものなのです。当時は、今のように石鹸や消毒はありませんでした。そのために死んだ者を埋葬するまでに、衛生的に何も問題なくきちんと扱うことができなかったのです。つまり死んだ人、その血に触れることは衛生的ではないことだったのです。死んだ人の血に触れることは、感染症や、その他のさまざまな病気になる恐れ、可能性があったのです。だからこそ、旧約聖書の規定で「7日間清める」ということは、病気が感染していかないためには大切な意味のある考えだと言えるのです。

 神様に仕え、誰よりも聖書の規定を知っていた「祭司」と「レビ人」です。もしこのとき強盗に襲われた人を助けて、途中で死んでしまったとすれば、彼らは死人に触れたことになり、それから7日間は神様の神殿で働くことができなくなるのです。つまり神様のために働くことができなくなるのです。「祭司」と「レビ人」が、なぜ強盗に襲われた人を助けなかったのか。それは、ただこの人たちが冷たい人間であったというのではなく、彼らは、神様の教えに従って、神様のために働くために、この襲われた人を助けなかった。神様のために働く働きから道を逸れて、人を助けることはできなかったということなのです。

 これが祭司とレビ人が強盗に襲われた人を助けなかった理由なのです。これが一つのポイントです。

 もう一つのポイントとして、今日のお話がどのような状況のうちに話されたかということです。 この「善きサマリア人」の話は、その前に、律法の専門家がイエス様に尋ねた言葉「わたしの隣人とはだれですか」という言葉に答えた、たとえ話なのです。律法の専門家はイエス様に尋ねました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(25)律法の専門家は、この質問の答えを自分の中に持っていたのです。27節です。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』」(27)これが律法の専門家の答えです。これはとても簡潔で正しい答えなのです。イエス様もこの答えを「正しい」とされました。その上でイエス様は「それを実行しなさい」と言われたのです。それに対して律法の専門家は「では、わたしの隣人とはだれですか」(29)と尋ねたのです。このとき律法の専門家は、神様の教えを正しく理解していたのです。神様の二つの教え「神様を愛しなさい」、そして「隣人を自分のように愛しなさい」という教えです。そのうえで、イエス様が言われたことは「あなたは正しい」・・・「それを実行しなさい」ということです。

 「それを実行しなさい」。つまり、神様の教えは理解することだけが求められているのではなく、行うことを求められているということです。神様は、「神様を愛しなさい」、そして「隣人を自分のように愛しなさい」ということを行う「愛」の行いを求めているのです。

 

2:  目の前にいる愛すべき人

 今日の箇所で、イエス様はたとえ話のあと36節からこのように尋ねられました。「36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」そして、37 律法の専門家は答えます。「その人を助けた人です。」(36-37)そして、イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われたのです。イエス様に質問をした人は、本当に神様のために働いた者、「隣人を自分のように愛した人」は、祭司でもレビ人でもなく、目の前にいる傷ついた人を助けたサマリア人こそが、本当に「神様のために働いている」ということを理解しました。イエス様の教えられているのは、そのあとの言葉、「行って、あなたも同じようにしなさい。」(37)ということなのです。

 さて、わたしたちはこのイエス様の言葉を聞いて、自分がこの3人の人間・・・祭司、レビ人、サマリア人の中のどの人物であるか、自分自身に問うてみたいと思うのです。神様が教えているのは、神様のためとか、今は時間がないとか、自分には自分のしなければならないことがあるという理屈を言っていないで、目の前にいる人を助けることを願い教えておられる。つまり、まず目の前の人を愛するように求めているのです。

 

 今日は家族礼拝です。みなさんにとって一番、目の前にいる人は誰でしょうか。それは、皆さんにとって大切な、目の前にいる家族ではないでしょうか。幼稚園では、朝礼の時に、マザー・テレサの言葉を読んでいます。このマザー・テレサの言葉の中にこのような言葉がありました。

 「愛は家庭から始まります。愛は家庭の中に生きるのです。だからこそ、今日の世界には、あまりに多くの苦しみ、あまりに多くの不幸があるのです。もし私たちがイエス様に耳を傾ければ、以前におっしゃったと同じように、こう言われるでしょう。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方をあいしたように」イエス様は私たちのために、十字架上で苦しみ死んでくださるほどに、私たちを愛してくださっているのです。もし私たちが互いに愛し合い、愛を私たちの生活に取り戻したいのなら、まず家庭から始めなければなりません。」(「マザー・テレサ日々の言葉」5月22日)

 聖書が教えていることは、目の前にいる人を愛することです。私たちは一番身近にいる人を愛しているでしょうか。そして、愛することよりも前に、私たちは、隣にいる家族のことをどれだけ知っているでしょうか。隣にいる大切な人を、どれほど理解しようとしているでしょうか。私たちは大好きな子どもたち、また隣人の本当の心、気持ちをどれほど理解しようとしているのでしょうか。

 このような聖書の教えを聞く時、私自身、耳が痛いのです。わたしの妻、わたしの子どもからすれば、まず自分に問いなおしなさいと言いたいでしょう。わたしも言い訳をして、「仕事がある・・・こっちだって忙しい中、頑張っているんだ」と言っているでしょう。わたしもまた、自分が祭司やレビ人と同じ姿になっていると思うのです。

 「愛する」こと。このために、私たち人間ができることには限界があるでしょう。子どものため、家族のためと、自分自身を犠牲にしてまで愛し始めたら、いつかその心は疲れて、立ち上がれなくなってしまうのではないでしょうか。聖書は、ただの博愛主義として「愛し合いなさい」、「隣人を大切にしなさい」と教えているのではないのです。確かに、神様は、私たちに、「愛し合いなさい」と教えています。それはまた、その前に、神様自らが、まず私たちを愛してくださっている。この神様の愛という土台があるということがなによりも大切なのです。

 

3:  あなたの隣人とはだれですか

 神様は、私たち人間のことを愛されています。それは今日の箇所で言えば、強盗に襲われたように、私たちが、心も体もボロボロとなっている私たちを、神様は見捨てては行かれないということです。ここで語られたサマリア人のように、自分の歩く道を逸れて、困っている人苦しんでいる人に寄り添ってくださっているということなのです。神様は、私たちのことを愛されている。疲れて、倒れそうな私たちを見捨てず、自分の命を削ってでも、私たちと共に歩き、立ち上がるまで見守っていてくださるのです。

 私たちは神様からこの愛をいただきましょう。私たちが他者を愛するということは、この神様の愛を、自分を通して、つなげていくことなのです。まず神様からいっぱいの愛をいただきましょう。溢れるほどの愛をいただき、私たちが心に命を吹き込まれ、笑顔で生きる時、その愛は、自然と広がっていくのです。

 「あなたの隣人とはだれですか?」この問いに、神様は、「わたしの隣人とはあなたです。わたしはあなたを愛しています。わたしにとってあなたは命をかけて愛するほどに尊い者です」と答えてくださいました。みなさんはどのように答えることができるでしょうか。「隣人はだれか」。「あなたの隣人はだれですか?」それは誰を愛するかということです。聖書はわたしたちに問いかけています。「あなたは誰を愛するのですか?」「誰を自分の隣人とするのですか?」

 イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」(37)と教えられました。これは命令ではなく、神様の命をかけた願いです。「わたしはあなたを愛している」。これは、神様がすべての人間に語りかけられている言葉なのです。神様の愛から外れている人はいないのです。だからこそ、神様は、私たちがお互いのために生きることを願っているのです。私たちは、この家族礼拝の時にもう一度、この問いを考えて、「愛されること」「愛すること」「愛し合うこと」を、考えてみたいと思います。(笠井元)