特別集会

ペンテコステ礼拝

5月20日(日)

幼稚園集会

家族礼拝②

6月17日(日)

願書受付

11月1日(火)

入園・未就園児クラス

申し込み

随時受け付けています

バプテスト東福岡教会

福岡市東区馬出4-13-15

TEL:092-651-3978

     092-651-6270 


2017.5.28 「神は憐れみを示された」 (全文) マタイによる福音書5:5-8

1:  4つの幸いの説明

 今日の箇所では、4つの幸いを語ります。まず、この4つの幸いについて、説明をしていきたいと思います。

 イエス様は「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(5)と言われました。「柔和」という言葉は、3節に出てきました「貧しい」という言葉と実質的に同じ言葉と考えられています。そしてまた、このイエス様の教えは、その背後に、詩編の37章の言葉があると考えられています。37章の9節、11節ですが「37:9 悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ。」「37:11 貧しい人は地を継ぎ、豊かな平和に自らをゆだねるであろう。」

 詩編では、「貧しい人」、そして「主に望みをおく人」は「地を受け継ぐ」、そして「豊かな平和に自らを委ねるだろう」と語るのです。「柔和な人々」。それは「貧しい人」、そして「主に望みをおく人」と教えるのです。

 

 続けて6節では「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」と教えます。義という言葉は、いくつかの意味を持っています。一つには、この世における「正義、公正」としての「義」という言葉として、考えることができます。この義とは、旧約聖書において語られる、神様の救いを根底とした、正しさを意味するのです。この世は不正で満ちている。そのようなこの世に対して、神様の裁き、救いを、一つの正義と考えるのです。そしてもう一つに、神様との関係における義という考え方があります。新約聖書では「ただ信仰によって義とされる」(ローマ3:20-23)と言われました。そのような意味では、正しい人、義なる方は、ただイエス・キリストのみであり、私たちはこのイエス・キリストによって、義とされると教えているのです。

 

 そして続けて、「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」(7)と教えます。マタイによる福音書では9章と12章において「私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と教えています。この言葉は、旧約聖書ホセア書の言葉を背後に持った言葉であり、ホセア書6章では「6:6 わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。」と言われているのです。「憐れみ」それは「愛」であり「神を知ること」です。

 私たちが憐れみを持つというとき、それはどこかで上から下に、少し人を見下したような心のなかで行う行為と感じるかもしれません。ある意味、それはそれで、間違いではないのかもしれません。しかし聖書が教える憐れみとは、もっと深い意味、ただ上から見下す言葉ではなく、上にある者が、同じところまで来て、同じ心、同じ苦しみをもって生きていくことを意味しているのです。そして、最大の憐れみとは、神である方が人間としてこの世界にこられ、人間と同じ苦しみを受けられたという出来事、つまりイエス・キリストによる神様の憐れみだと言うことができるのです。「憐れみを受ける」とは、まさにイエス・キリストの憐れみ、つまり「神を知る」者として、「生きる道を知った者」を表しているのです。

 そして、最後に聖書は「5:8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」と教えます。これまでの言葉からを表した者、指し示した者、実行したものはイエス・キリストだと見ることができるのです。そして「心の清い者」。この言葉がこのことを一番わかりやすく教えているのです。私たちの中で、最後の最後、神様の御前にたつ時まで、「自分の心は清い者です」と言い続けることができる人がいるでしょうか。心が清いと言うことは、別の言い方をすれば悪い心を持たない者、そして神様に従うという心だけの者、ただ一つだけ、他に何かを求めるのではなく、濁りない信仰を持つものを指しているのです。

 それはイエス・キリストだけがなされた姿を指し示しているです。

 

2:  欠点のある者

 完全に「柔和な人」、完全に「義に飢え渇く人」、完全に「憐れみ深い人」そして、隅から隅まで「心の清い人」は、この世にいないのではないでしょうか。ただそのように言ってしまいますと、ここで教えている言葉は、私たち人間の存在自体を否定している言葉にも感じてしまいます。あなたがた人間は「柔和な人」、「義に飢え渇く人」、「憐れみ深い人」、「心の清い人」となることはできないと。私たち人間が、どれほど求め、努力しても、このようなものを手に入れることはできないと。自分の弱さ、欠けを突き付けられている感じがするのです。

 今日、私たちは、そのように、この言葉を受け取ることによって、自己否定し、自分を受け入れられない者となるのではなく、むしろ、そのような自分の弱さ、欠点をもう一度見直したいと思うのです。人間には、欠点、弱さがあるのです。それが私たち人間なのです。だれも完全な者はいないのです。

 この世において、お金持ちになったとしても、人々から称賛されている者となっても、すばらしい能力を持っているとしても・・・また、まったく何もできないと人々から笑われていても、自分はこの社会で生きている意味はないと落ち込んだとしても・・・わたしたち人間は、この世でどのように生きていても、誰もが必ず、弱さを持っているのです。

 そのような意味で、弱さや欠点は、人間の共通点ということができるのです。弱さや欠点は、誰もが持っている。だから私たちは、自分の弱さを見つめて、落ち込むこともなければ、他者の欠点を見下すこともできないのです。その弱さや欠点の形や大きさは違ったとしても、私たちは、だれもが、すべての人間が同じように、欠点を持っているのです。

 私たちは完全な者ではない。しかし、なにも出来ないのではないのです。出来ることもあれば、またできないこともあるのです。それを個性と言うのでしょう。弱さは、そのような意味では、私たち、様々な個性を持つ者が、お互いを理解するための大切なものと言うことができるのだと思うのです。

 

3:  キリストによる憐れみ

 神様はそのようなさまざまな個性、弱さも強さも違うそれぞれの人間を、憐れまれてくださったのです。つまり弱さのすべてを理解し、受け入れてくださったのです。イエス・キリストご自身が、この世に来て、完全に「柔和な人」、完全に「義に飢え渇く人」、完全に「憐れみ深い人」そして、隅から隅まで「心の清い人」と、なってくださったのです。

 神様は、このイエス・キリストを通して、人間を愛された。欠点や、弱さを持ち、到底、神様にたどりつくことができない、神様にはなることができない人間のところに、神様の御子イエス・キリストが来てくださった。そして共に生きる者となってくださったのです。私たちが神様にたどりつくのではなく、神様自らがこの世にきてくださったのです。私たちは、このイエス・キリストによる憐みを通して、「幸いである」と「あなたの幸せはここにある」と教えられているのです。神様は、人間が、その弱さや欠点を持っていることが「幸いである」と教えてくださっているのです。

 

 私たちは、神様から憐れみを注がれているのです。しかしまた、現代社会は、すべてが競争する社会となっています。それは、私たちが神様に憐れまれること自体を拒否する社会となってしまっていると言うことができるのです。この世には、勝ち組、負け組があると言われ、勝ち組であることを求めているのです。自分が勝ち組となるためには、どうすればよいのか、そのようなことばかりを考えてしまっている。自分が強い者、一番であることばかりを求めてしまっているのです。このような社会にあって、私たちは、自分のうちに弱いところがあること、欠点があることを隠して、負け組とならないようにだけを考えて生きる者となってしまっていないでしょうか。

 どれほど、神様が愛を注ぎ、私たちを慈しみ、憐れみの恵みをくださっても、それでも、私たちが、自分の弱さを認めなければ、神様の愛は、私たちの心に入ってくることはできないのです。私たちは、神様の憐れみを受け取る準備ができているでしょうか。つまり、自分の弱さを認める勇気を持つことができているでしょうか。

 私たち人間にはどのような者であっても、大小は違っても、自尊心、プライドがあるのです。それは人間が生きていくために大切であり必要な思いです。自尊心は、誇りであります。自分を認める意味でもとても大切な思いであると思うのです。ただ、そのプライドの土台が、自分の強さや知恵、力だけであれば、その土台が崩れ去る時に、人間は、生きていく気力さえもなくしてしまでしょう。受験などによる挫折や、病気や事故によって、これまでできたことができなくなる時、また、一つのきっかけで人間関係が崩れてしまったとき、そして年齢を重ねることで、だんだんと今までできたはずの事が出来なくなっていくとき・・・私たちの自分自身を土台とした誇り、プライドは崩れてしまうのです。

 私たちはそのような時にこそ、本当の強さ、神様に愛されている、神様に「あなたは生きている価値がある者である」という本当のプライドの土台を教えられているのです。神様の愛、その憐れみを土台とするとき、私たちは本当に自分を認めることができるのです。

 人生において、本当の痛みによって打ちのめされることは、苦しいことです。しかし自分の力ではどうにもならないことを知る時に、私たちは、ただ神様の憐れみを受け入れるしかないと知る時に・・・人間は自分で生きているのではなく、生かされている者であるという本当の生きる意味に気付いていきたいと思います。

 

4:  御国が来ますように

 聖書は、このように語ります。「5:5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。5:8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(5-8)わたしたちは、主の憐れみを求めましょう。そして、そのとき、そこに本当の幸せが広がること、その地に神様の愛が広がっていくことを信じたいと思うのです。私たちは主の祈りにおいて、「御国を来らせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。「地を受け継ぐ」「満たされる」「憐れみを受ける」そして「神を見る」ということ、それは希望をもって、「御国を来らせたまえ」と祈ることにつながっているのです。私たちは神様の愛を素直にいただきましょう。

 そして、この世に、神様の愛が広がっていきますように。この社会において、弱さを持つ者こそが、神の栄光を表す者となりますように。私たちが自分の欠点を通して、神様の憐れみを受け入れることができますように。・・・と祈りましょう。

 心が打ち砕かれたとき、悲しみのうちに絶望の時に、神様は、私たちを憐れみ、そこに希望を与えてくださいます。私たちは、この神様の憐れみを信じていきたいと思います。(笠井元)