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2017.5.14 「最高のプレゼント」 (全文) ヨハネによる福音書3:16

 人から何か贈り物を貰ったり、また、逆に、人に何か贈り物をするということは心躍る、楽しいことです。今日は、母の日ですが、皆さんは幼稚園の園児であるお子さんから何かプレゼントがあるでしょう。皆さんも自分の母親に何かプレゼントを考えているでしょうか。

 今日は、教会の礼拝に始めておいで下さった保護者の方々もあるかと思いまして、キリスト教信仰の「いろは」、あるいはABCをお話したいと思います。先ほど読んでいただいた聖書に、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と言われています。ここに私たちが受け取ることのできるすばらしい神様からのプレゼントが示されています。「神はお与えになった」。ヨハネによる福音書3:16は、福音の中の福音、良いニュースの中の良いニュースと呼ばれ、私たちの信仰の内容を見事に、要約したものです。聖書は、神様が私たちに最高のプレゼントをして下さったことを教えています。

 

1.神が主語である。

 ヨハネ3:16の文章の中心、主語と動詞は、「神は愛された」というものです。Iヨハネ4:10には同じことが、少し違った表現で言い表されています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになった。ここに愛があります」。主語は、神様です。「私が」何かをしたかでもなく、あの人が何かをしてくれたかでもありません。あるいは、この世が何であるかとか、この世が何かをしてくれたということではありません。神が主語なのです。私たちの人生の主は私たちではありません。世界と歴史の主は私たちではなく、神ご自身なのです。私たちが一番ではなく、私たちはあくまで2番手なのです。これが神を信じるということの内容です。2番手であることはちょっと残念にも思いますが、実は、素晴らしいことです。「あなたが1番」などと言われたら、夫婦関係も、親子関係も、あらゆる人間関係は重たくて大変です。私たちは神のように完全であることなどできない相談です。神様が1番で、お父さん、お母さんは2番手である、妻や夫は2番手であると考えてくれたらありがたいではないですか? 1番などと言われたら、いつか絶望されたり、逆に、うぬぼれたりして脱線してしまいます。こどもたちが、親である皆さんの他に、もう一人信頼できるお方を信じているということは実は素敵なことなのです。

 幼稚園児は神様に祈ること、お母さん、お父さん、兄弟姉妹のために祈ることを経験するのです。こうして、神が第一であり、神が主語であるゆえに、私たちの人生の課題は、自分自身の生き方にどこかしっかりと責任を持ちながらも、いかに神を第一にした生き方ができるかなのです。神がプレゼントをして下さったのです。

 

2.愛して下さった

 その神は「愛して下された」と告白されています。「愛してくださった!」。ナチスの強制収容所で生活をしたフランクルの言葉があります。なんと、ヒットラーの下で、600万人のユダヤ人が虐殺されたと言われますが、過酷な収容所の生活に耐えかねて多くの人々が死に、また自ら死を選んだ人もいたようです。そのような過酷な現実に直面しても、明日への希望をもって生き延びた人がいたのです。彼ら生き延びた人たちは、他の死んでいった人々とどこが違っていたのかとフランクルは自問します。一人でもいい、誰かから「愛されている」と思えた人たちが生き残ったというのが彼の答えです。人間にとっていつまでも存続する大切なもの、それは「信仰と希望と愛と、この三つであり、このうちで最も大いなるものは、愛であります」(Iコリント13:13)。しかし、愛という言葉ほど誤解されやすい言葉はありません。愛とはいったいどのようなものなのでしょうか? 日本語では「愛」は「恋愛感情」を意味しているのだと思います。

 これに対し、新約聖書が書かれているギリシャ語には、愛に当たる言葉が大きく3つあると言われています。親子や兄弟姉妹の自然の情愛を「フィリア」と言います。この言葉は、「哲学=フィロソフィ-」という言葉で良く使われます。「知恵」(ソフィア)を愛するという意味です。あるいは、フィラデルフィアという地名をご存知の方もいることでしょう。英国にも米国にもあります。「兄弟愛」を意味する地名です。母親は子どものためには、自分はおなかが空いていても、子どもに食物を与えます。美しい愛情です。しかし、お腹をすかせた隣の子どもにも同じ愛を注ぐかといえば自ずと限界があるでしょう。フィリアの愛は美しい自然的愛ではありますが、どこかに自己愛の影を宿しているのです。

 愛を表すもう一つ別の言葉は「エロース」です。エロースは、美しいもの、理想的なものに憧れ、それを求める愛です。人間には目の前の現実を越えて究極の真、善、美を求める心が与えられています。いわゆるプラトニックラブと言われるものです。現実の生身の人間より、理想を追い求める愛です。私たちには花を美しいと感じる心があります。しかし、花が枯れ、萎んでしまえば、それを愛する人はもはやいないでしょう。これがエロースの愛です。このエロースの愛が典型的に現れるのが男女の愛です。男女の出会いにおいて人は自分にないものに憧れるのです。しかし、人間はそれぞれ問題、弱さを抱えており、必ずしも美しいものではないので、エロースの愛は必ず挫折を経験することになります。赤の他人である夫婦の関係はエロースの愛だけでは必ず挫折する運命にあるのです。そして、挫折を経験すると益々現実離れした美しいもの、他者に対しても、自分に対しても幻想を求めるようになるか、あるいは、神の愛に目覚めるようになるのです。

 第三の愛、それはアガペーという言葉によって表現される神の愛です。アガペ-の愛は決断の愛です。心を開き、他者をあるがままで受入れ、共に生きようとする意志による愛です。犬養道子さんは『人間の大地』という本の中で、愛とはまず狭さを破ることである。視界と心の狭さを果敢に破って、広く「出ること」であると言っています。神はご自身の心を開き、私たちを受け入れ、私たちと共に歩まれるのです。人間の自然の愛情やエロースの愛は、それぞれ良いものではありますが、神の愛であるアガペーによって捕らえなおされ、限界づけられ、清められて、生かされるのです。神は「愛して下さった」と過去形で証言されています。それは神が今、愛しておられないとか、将来愛して下さらないとかを意味するのではなく、その愛がイエス・キリストの出来事を通して、決定的に、動かされることのない歴史的「事実」として成就したことを言い表しています。プレゼントの動機は、愛であります。愛が溢れてプレゼントになりました。これが、私が聴くべきメッセージです。

 

3.愛の証

 では、神の愛はどのようなものであり、どのような出来事に現されているのでしょうか?神の愛はどの程度のものでしょうか?これが第3番目のテーマです。神は「その独り子をプレゼントして下さったほどに」愛されたと言われています。神の愛は、「その独り子を賜ったほど」のものであります。イエス・キリストの生涯は、神がそのひとり子を私たちに与え、そのひとり子を通してこの世の悩み、苦しみ、悲しみを味わい尽された出来事として告白されています。子が親より先に死ぬことより親不孝なことはないと言われますが、神の愛の深さは、父なる神がその独り子をこの世に、私たちに与えられたことによって、十字架の死に至るまでそうされたことによって明らかにされているのです。皆さん、可愛い我が子が死ぬことを想像することができないでしょう。私たちは私たちの経験から神の愛を知るのではなく、神の愛から、愛すること、子であること、親であることとはどういうことかを学ぶのです。プレゼントの内容は大切な神の独り子イエス様です。

 

4.だれへのプレゼント?

 では、神様はだれに対してご自身のみ子をプレセントして下さったのでしょうか。神の愛の対象はだれでしょうか? これが4番目の問いです。驚くべきことですが、神は「この世」を愛して下さったというのです。ヨハネ福音書における「この世」とは神に敵対し、暗い闇のような存在です。自己中心的な、問題だらけの存在です。しかし、神はこの世界を愛されているというのです。神は、出来のいい人、お金や社会的地位のある人を愛したのではありません。「この世」を愛され、この世にイエス様を遣わされたのです。そうであれば、正しく生きられない私たち、自己中心的な生き方にどっぷり漬かっている皆さんを愛されているのです。ここに集っている人で、この神の愛のみ手からもれている人は一人もいないのです。傲慢とは、何か威張ることではありません。傲慢とは、この神の愛を拒む頑なさを意味しています。確かにこの世界は私たちを含めて決して「美しいもの」ではありません。「美しくないもの」を「美しい国」などと言おうとする所に無理が生まれます。私たちは、生きるに困難を憶えるこの世界を神が受け止め、愛されるがゆえに、この世を受け留める勇気、この世に生き続ける勇気を与えられるのです。プレゼントの受け取り人は、この世であり、そこに生きる皆さま、あなたなのです。

 

5.愛の目的

 最後に、ヨハネ3:16は神の愛の目的を語ります。神の愛の目的は、ここに集まっているすべての人が、この神の愛に心を開き、心癒され、励まされて、永遠のいのちとも言うべき喜びを得るためなのです。たとえ、人間的な目からすれば孤独で、絶望的に思えても、決して神の愛なしではないのです。私たちの運命はこの神の独り子との関係によって決まります。私たちの明日は、今日、この時、イエス・キリストを通して表された神の愛にどのように心を開くのかによって決定されます。神はやがて私たちを裁くのではありません。もうすでに「信じない」という心に捉われているという裁きがなされているのです。神は終わりの日に私たちを救うのではありません。もうすでに、いまここで、キリストを信じているという事実が神の裁きがもう成し遂げられていることなのです。私たちはいまだ、自分の闇の業を愛するのでしょうか。そうであれば、やがて恥じ入ることになるでしょう。今朝、ここに集うひとりびとりが神の愛に心開くものでありたいと思います。神様が最高のプレゼントを与えることで目指された目的、それは、ここに集っているひとりひとりが決して滅びることなく、永遠の命ともいうべき、いのちの喜び、喜びの溢れだしを得るためです。神様がその愛の目的を果たすことができるように、今、心を開いて、神様からの「最高のプレゼント」を「ありがとう」と言って受け留めましょう。(松見俊)