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2017.5.7 「心の貧しい者は幸いである」 (全文) マタイによる福音書5:1-3

1:  山上の説教

 今日の箇所は、小見出しに「山上の説教を始める」とありますように、山上の説教を始める場面であります。イエス様は群衆を見て、山へ登られました。そこに弟子たちが近寄ってきたのです。そこでイエス様は「山上の説教」とされる教えを語り始められたのです。

 まず、山上の説教が、誰に向けて語られたのかということですが、ここではイエス様が山に登られ、そこに弟子たちが近寄ってきたということから、イエス様の教えは弟子たちだけに向けて語られたと考えられることもありました。確かに、この後の教えを読みますと、「あなたがたは血の塩、世の光である」という言葉や、「主の祈り」が語られ、また「この言葉を聞くだけで行わない者は、皆、砂の上に家を建てた愚かな者に似ている」(7:26)とも教えられていることから、この「山上の説教」は確かに一部の弟子たちだけに向けられた、倫理的な教えと感じる部分も多いのです。

 しかし、今日の箇所では、まず「イエスはこの群衆を見て」(1)とあるように、また、この山上の説教の最後7章28節からの場面で「28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(28-29)と記されているように、イエス様は、群衆を見て語られ、そして群衆はこの教えを聞いて、非常に驚いたのです。

 今日は、イエス様は、この山上の説教を群衆に向けて語られたと理解したいと思うのです。それは不特定多数というか、すべての人間に向けて語られたと読み取りたいと思うのです。山上の説教は、すべての人間に向けて語られたのです。それはまた、すべての人間が、イエス様の弟子として、呼び寄せられており、すべての人間が、イエス様の御許に歩み寄る権利を持つ弟子でもあるということです。

 

 イエス様はすべての人間にこの山上の説教を語られました。その内容を、一言で言いますと、「律法の完成、成就のための教え」と言えのではないかと思うのです。この時、律法によってがんじがらめになっていた人々に、イエス様は、律法からの解放、そして本当の律法の完成を教えられたのです。当時、人々は神様の律法を喜び、守り、神様を賛美する者とされていたのではなく、この神様からの律法に縛られてしまっていた、「・・・しなくてはならない」と「・・・しなければ救われない」となってしまっていたのです。

 このような思いに、私たちも同じような思いになっているときもあるかもしれません。私たちもまた、「神様を信じる者として、信じるなら、・・・しなければならない」「・・・することが、救いにつながる」「自分はこのようにしなければならない」と考えてしまう時があるのではないでしょうか。また、そのように考えて、実際に行っていることができれば、それはそれで気持ちは楽になり、それができなければ、苦しくなっているのではないでしょうか。

 イエス様は、この山上の説教において、「あなたがたも聞いている通り・・・と命じられている。しかしわたしは言っておく」と何度も語られます。この言葉は、これまで聞いてきた律法からの解放を教えられている言葉として聞くことができるのです。これまで神様に従うための教え、律法に命じられて、しかしいつの間にか、その律法を行わなくてはならないと縛られてしまっていた、イエス様はそのような命令から解放してくださったのです。

 

 イエス様の教えは、これまでの律法から解放されていく言葉であり、同時に、イエス様は5章17節において「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(17)とも語られました。イエス様は、律法を廃棄するのではなく、完成するために来られたのです。これまで教えられてきた律法の本質をもう一度、教えられた。ただ「・・・しなければならない」というところから解放し、「あなたがたは幸いである、あなたがたは・・・することが許されている」と、神様に従うことの本当の喜び、その恵みを教えられているのです。

 

2:  幸いなるかな

 そのような中で、今日、イエス様は、3節「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(3)と教えられました。ここで語られる「幸いである」という言葉は、旧約の時代においても、何度も使われていた言葉であり、詩編では、巡礼者に対する一つの挨拶の言葉ともされてきました。

 一つ旧約聖書から読んでみたいと思いますが、有名な箇所として詩編1編がありますなので読んでみましょう。

 詩編1:1-3

 「1 いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず2 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」

 詩編では「いかに幸いなことか」と賛美します。ただここで一つ大きな違いがあるのは、詩編では「・・・な人は」と「幸いになるための条件」とも聞こえる言葉が記されているのです。「主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ人」。確かに、主の教えを愛する者は、幸せでしょう、そのような心の状態であれば、だれでも確かに幸せだと思うのです。

 それに対して、今日の箇所では「心の貧しい人々」と語られているのです。この言葉を直訳しますと差別語を含んでしまうのですが、「霊に置いて、乞食である者たち」という言葉になるようです。ここで言われる「心」とは「霊」とも訳すことができる言葉で、「貧しい者」とは「何も持つことのない者」を指しているのです。つまり、「心も、霊も、魂においても、何も持っていない者」、もはや人間として生きていく力を失った者を指しているのです。ここでは「幸せ」は、何も持っていなくても、誰であっても、つまり無条件の救いが教えられているのです。そして、この無条件の救いは、「いつか幸せになるだろう」と言っているのではないのです。ここでは「今、貧しい者が幸せだ」と「何も持たない者は幸せなのだ」と教えているのです。

 

3:  心の貧しさを知った者

 なぜ貧しい者が幸せとなるのでしょうか。この答えを一言で言いますと、「貧しい心には、神様を迎え入れるだけの場所があるからだ」と言うことができるのです。もう少し、細かく見ていきますと・・・ここでは「心の貧しい人々は、幸いである」(3)と教えるのです。「心の貧しい者」。それはどこまでも、つまり霊的にも、そして肉体的にも、すべてにおいて貧しい者を指すのです。それはただ貧しいのではなく、心も魂までも打ち砕かれた者です。この打ちひしがれた者。それはもう少し言いますと、「自分が貧しいと知った者」「自分は頼みとするものも、誇るべきものも、何もないということを知った者」と言うことができるのです。

 私たち人間は、自分と他者を比べ、その相対的な評価のもとで、自分は何かを持っている、知恵があり力があり、財産があり、名誉や権力もあると考えているのではないでしょうか。だれかに比べれば、まだまだその評価は追いつかないけれど、違う人に比べれば、自分のほうが上にいると。隣人と相対的にみて、自分が何かを持っている、何かできる者と考えて、自分は「価値のない者」と思ったり、自分は「価値ある者」と考えてしまっているのではないでしょうか。しかし、神様は、私たちをそのような目で見ておられるのではないのです。神様は、人間は、すべてのものが罪人であり、また、それでもすべてのものが尊い者、価値ある者と思ってくださっているのです。

 神様は、なにかができるできないでもなければ、なにかを持ている持ってい菜ということではなく、ただただ、私たちのその存在を喜び、愛してくださっているのです。本来すべての人間が、いつも、どこでも、何をしていても、人間は「貧しい者」であり、同時に「尊い者」なのです。そして今日の箇所では「貧しい者は幸いである」と、つまり自分は貧しいということを知った者は「幸せ」であると教えているのです。

 神様は、貧しい者を顧みてくださる方です。力なきもの、虐げられている者、束縛されている人、さまよう者を、神様は見捨てるのではなく、顧みてくださるのです。しかし、そのことを人間が認めなければ、そこに神様の愛も入ることはできないのです。傲慢と欲望で、心がいっぱいになっている人間の中には、神様の愛も慈しみも入ることはできないのです。

 コップの中が空っぽであればたくさんの水が入れることができます。しかし、水が満タンに入っているときに、それ以上は入れることができないのです。同じように、人間の心の中が空っぽの状態、つまり「貧しい者」としている者は、多くの恵みを受け取ることができるのです。

 心の貧しい者。つまり、心も魂も打ち砕かれた者は、もはや、何も誇ることはできない者なのです。できるとすれば、ただただ、神様により頼むことだけなのです。自分の弱さを認め、神様に委ねるしかないのです。その御言葉に耳を傾けるしかないのです。人間的に見ればそれは、「貧しさ」であり「弱さ」として見えるかもしれません。しかし、その弱さのうちにこそ、神様の愛を喜ぶ者とされるのです。そして、この自分の貧しさを知ることが、「悔い改め」へとつながるのです。傲慢な者が謙遜になる時なのです。この悔い改めによって心に神様を求める時、そこに本当の幸せ、天の国とされる神様の愛をいただく者とされるのです。

 

4:  貧しさの中に来られた方

 神様はイエス・キリストをこの世に送ってくださいました。それは、神様が貧しい中に来られたことを意味します。イエス・キリストは、力なく、小さな赤ちゃんとして、馬小屋で生まれたのです。そして、その死は、まさに貧しさの頂点と言うことができる姿。罪人として、ののしられ、十字架という苦しみの中で死んでいかれたのです。主は貧しい者の代表者となられたのです。それは神様が、人間の貧しさ、弱さ、苦しみを顧みるためです。私たち貧しい者、何も持たない者が、「幸せ」であることは、ただ、この主の十字架による救い、神様が私たちを愛してくださっているという恵みによるのです。私たちには、主イエス・キリストによる救いしかないのです。主の救いにより頼むしか、道はないのです。

 イエス様は言われました。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(3)私たちが主をよりどころとする時、そこに天の国が与えられるのです。天の国というは、いつかどこかにあるだろうと考える「天国」というものではありません。むしろもっと具体的なものとして示されている「天の国」。つまり、今、私たちの心が神様の愛に満たされていくときにいただく、幸せ、喜んで生きる命を意味するのです。神様が、この世界を愛し、私たち一人ひとりを愛してくださっている。その愛の御業のうちに、すでに神の御国が来ているのです。

 宗教改革者のルターはこのように言いました。「ものごとが全てうまくいかなくなって、あらゆる計画や熱意が無駄になったとしても、あなたは、神から離れることのないようにしなさい。なぜなら、神は死や無からすべてを呼び出されるからであり、救いも望みももはやないというところから、神の救いがようやく始まるからである。」(マルティン・ルター『マルティン・ルターによる一日一章 慰めと励ましの言葉』湯川郁子訳(教文館 1998p.170

 「救いも、望みも、もはやないというところから、神の救いは始まるのです。」神様は無から有を創造されました。私たちが人間的に絶望だと感じた時、そこから神様の希望が始まるのです。私たちはただ、この神様の御業、神様の愛により頼む者として歩んでいきたいと思います。(笠井元)