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2017.4.9 「弱さの中に来られる方」 (全文) イザヤ書53:1-12

1:  見捨てられた民

 今日から受難週となります。今週は特に、イエス様が私たちのために、十字架の上で苦しまれた痛みを覚え、また、それほどまでに、私たちを愛してくださった神様の愛を覚えたいと思います。

 まず今日、私たちに与えられている御言葉、イザヤ書について少し説明をしていきたいと思います。イザヤ書は、記された時期によって、三つに分けることができると考えられています。その中で、まず、紀元前740年頃に活躍した預言者イザヤ自身の手によって書かれたものは1-39章までと考えられ、これが第一イザヤと呼ばれています。そして、2つ目が40-55章とされ、紀元前540年頃、イスラエルの民が、バビロン帝国に捕えられ支配されていた時、いわゆるバビロン捕囚期の後期に記されたものとされ、これが第二イザヤと呼ばれています。そして、三つ目は、その後の56-66章までが、そのバビロン捕囚以後に記されたものであり、第三イザヤと呼ばれています。

 今日の箇所は、イザヤの53章ですので、第二イザヤの部分になります。この第二イザヤは、「主の僕」、イエス・キリストの十字架を預言したとされる箇所が記されているものであり、特に今日の箇所53章は、その中心とも言える箇所となっています。今日から私たちは受難週という、イエス・キリストの十字架の苦しみと死を覚える時を持つのです。私たちは今日、与えられています御言葉、イザヤ53章から、イエス・キリストの十字架の意味を今一度かみしめ、しっかりと受け取っていきたいと思います。

 

 イエス・キリストの受難が予告されていった、第二イザヤですが、その背景は、バビロン捕囚期という、イスラエルにとって、一番厳しい状況の時でした。イスラエルの最も偉大な王とされるダビデ王が築き上げた、統一国家イスラエルは、二つに分裂し、北イスラエル王国と、南ユダ王国の2つの王国に分かれていきました。そして、北イスラエル王国はアッシリアという大国によって滅ぼされ、南ユダ王国もまた、バビロニアという大国によって滅ぼされていったのでした。そして南ユダ王国のほとんどの人々は、バビロニアに捕虜として連れて行かれるという、わゆる、バビロン捕囚という悲しみの時代が続いたのでした。南ユダ王国の都エルサレムは荒れ果て、人々から、「イスラエルの民は、神から見放された民」であると、あざけられ、もはや慰めてくれる人はいなかったのです。国を追われ、捕虜となり、バビロニアの地へと移されたイスラエルの人々。彼らには容赦なく「神から見捨てられた民」のレッテルが貼られたのでした。神様に選ばれたはずのイスラエルの民が、「神様から見捨てられた民」とされたのです。神の民であったイスラエルの人々にとって、それは、国が滅ぼされ国を追われることよりも、はるかに苦しい痛みの出来事であったのです。

 そしてまた、イスラエルの人々が、神様から約束された土地を奪われ、国も滅び、捕虜とされてバビロニアへと移されていく中で、その土地を奪われることよりも、国がなくなることよりも、何よりも一番に難しいことは・・・、イスラエルの人々自身が、バビロニアにおいて、これまでと同様に神様を見上げていくこと、信仰を守り続けることでした。そして、神様が自分たちを解放してくださると、希望を持ち続けることであったのでした。みなさんも経験があるかもしれませんが、生きていることすら苦しい、心がくじけてしまう、そのように思う心の状態で、神様を見上げ、信仰を持ち、希望を持ち続けることは、とても難しいことではないでしょうか。これまで「神様から選ばれた民」として歩んできたイスラエルの民が、捕虜とされ、バビロニアにおいて、「神様から見放された民」「神様から見捨てられた民」と後ろ指を指される中で、信仰を守り続けることは簡単なことではなかったのです。

 そのようなイスラエルの人々に向って、聖書は今日の箇所において、このように語っていくのです。イザヤ53:1-3「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

 この第二イザヤは、バビロニアという国にあって、苦しんでいる人々に向かって、その苦しみや痛みを知ってくださり、弱さの中へと来てくださる方を語るのです。「神様から見捨てられた民」と後ろ指を指され、苦しみと、悲しみの中にあったイスラエルの民に、その痛みを知り、共に苦しむことによって、解放を与える方、苦しみを共にする方が来られることを語っているのです。

 

2:  弱さのなかに来られた方

 当時、バビロニアは、経済的にも軍事的にも力を持っていました。この時、南ユダからバビロニアに連れてこられた、イスラエルの人々は、バビロニアの経済力や、政治力というものを肌で感じ取っていたでしょう。そのため、むしろ、もう神様に目を向けるのはあきらめて、そのような神様との関係など忘れて、「バビロニアの権力に頼ろう」と考える人々もいたかもしれません。

 しかし、聖書は、そのような権力や政治力とはまったく違う力、むしろ正反対である「弱さ」の中にこそ解放があると語るのです。そして、この弱さの中へと来られた方、それが、まさにイエス・キリストなのです。そしてこの弱さの真ん中に来られたことを表す出来事が十字架なのです。今日の箇所は、イエス・キリストの十字架が、弱さの中へと来られたこと、そして神様が、人間の痛みを知るために来られたことを教えているのです。

 イザヤ53:3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。ここで語られている、「知っている」という言葉は、自分自身のこととして、痛みを受け取ってくださっているということを意味する言葉です。つまり、イエス・キリストは十字架によって、人々の痛みや苦しみを知り、その痛みを自分自身の事として、受け取ってくださったのです。

 

 イエス・キリストは、十字架の苦しみを受けることによって、私たち一人一人の痛みや苦しみを受け取り、担ってくださいました。私たちの日々の痛み、生きる中で見る、絶望や虚しさを自分自身のこととして担うために、十字架に架かられたのです。私たちは、このイエス・キリストの十字架を見る時に、4節で語られているように、「神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ」と、考えてしまうのではないでしょうか。私たちの罪、また本当の弱さは、ここにあるのです。弱さのうちに来られた方、そして弱い者として生きる者を、見下すのです。自分は、それほど弱くはない、と他者と自分を見比べて、自分の弱さときちんと向き合わないのです。これが人間の決定的な罪です。そのような人間のために、主はこの世界に来て、共に痛みを担う方となられた。私たちが一人ではないこと、私たちを愛する方がおられることを示されたのです。

 私たちは、この十字架による愛の出来事を、恵みとして、受け入れることができでしょうか。「神様など必要ない」また、「神様がいるとして、なぜわたしがこれほどの悲しみにあわなければならないのだ」「弱くなられた神様など意味はない」「わたしはこの世の目に見える力と栄光、権威と財産がほしいのだ」。

 そのように思ってしまうときがあるのではないでしょうか。それは、6節に「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」(6)とあるように、まさに私たちは好き勝手に進み、神様を見上げる必要性も感じていない者として生きている。そして、そのうえで、そのような私たちの罪をイエス・キリストが背負われたのです。

 

3:  罪を担い、執り成している方

 イザヤ53:11-12

 「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」

 イエス・キリストは、その十字架によって、私たちの過ちを担い、同時に、私たちを神様へと執り成していてくださっているのです。私たちは、神様の前に立つことも、神様に目を向けることもできない者なのです。目を向けようともしていないのかもしれません。そのような私たちが、神様の前に立つことができるように、イエス様は、執り成していてくださるのです。このイエス様の執り成しによってこそ、私たちは、神様に向かい、神様へと目を向けていく者とされているのです。イエス・キリストは、十字架において、すでに、私たちの弱さの中に、来てくださいました。私たちはイエス・キリストの十字架をどこに見ていくことができるのでしょうか。

 

 私がまだ北海道にいて、こどもたちが赤ちゃんだった時の話ですが・・・旧約聖書の先生でした、小林先生とお話をしたことがありました。その中で、小林先生は、赤ちゃんの存在、その力のことを「無力の力」と語っておられました。赤ちゃんの「無力の力」。それは、赤ちゃんという、力の無いと思う者が、そこに存在し、そこにいてくれることによって・・・赤ちゃんのほうが、まず私たちを受け入れ、認めている、その力があるということでした。子どもは親を選べません。赤ちゃんはただ、なにもできずに親を受け入れるしかないのです。そしてそこに無力である者の「力」を見ることができると語られていました。「無力の力」。まったく力の無い中にあって、赤ちゃんは、相手の存在を認めるしかないのです。受け入れるしかないのです。しかしその中で、ただただ相手を受け入れている姿がある。そのことを「無力の力」と語っておられました。

 当時、子育てのすべてがうまくいかない、自分の親としての責任を感じながらも、思い通りには全くいかないと感じていた私は、この言葉にとても励まされました。赤ちゃんが、私を受け入れているということ。理論的に考えて、それが本当かどうかは別にして、赤ちゃんと一緒にいることに疲れていた時に、とても元気をいただいたのです。

 

4:  弱い者となる

 私たちが、イエス・キリストから受け取っていく、十字架は、弱さの中に見る力であり、お互いの弱さを認め合う力です。わたしたちは、弱く小さい者です。「他者を受け入れる余裕は私にはない」と思うかもしれません。しかし、本当は、私たちが他者を受け入れるということは、自分が力を持ち、頑張ることではないのだと思うのです。そうではなく、自分は弱い者であるということを認めること、そしてただただ、そのような弱い自分を愛してくださっている神様がおられるということ、そして同様に他者の存在を受け入れ、愛しておられる神様がいることを認めることなのです。それは自分が赤ちゃんのように小さい者であること、力なく弱い者であることを認め、そのような自分を愛してくださっている神様がいるということ、そして同じように弱さをもつ他者をも、神様が愛してくださっていることを、受け入れるということです。自分が弱い者であると認める時に、私たちは自分の持つ価値観、自分の持つ生きる指針。その考えが絶対はないと、完全に正しいものではないことを認めることができるようになるでしょう。「力のない者」となること、「弱く、小さい者」となることは、自分を絶対化しないことにより、他者の弱さや小ささ、また強さを受け止める心をいただくことになるのです。

 

 イエス様は十字架の痛みの中で、弱い者となられました。あざけられ、辱められ、殺されたのです。しかし、そこに神様の愛を表されたのです。キリストはどこまでも小さくなり、そして、そのうえで、私たちの罪、弱さと共に生きる者となられたのです。ここに私たちと共に生きるという愛を示されたのです。神様は、自らの命をかけて私たちを愛されたのです。わたしたちはこのイエス・キリストの十字架の痛みをきちんと覚え、いただきたいと思います。弱くなり、小さくなってくださった方の、痛みを心から受け止めていきたいと思います。そのとき、私たちは自分の弱さを認め、そのうえで愛されている者として生きることができるのだと思います。

 私たちは、この受難週の時、主の十字架を覚えて、日々の生活を過ごしていきましょう。(笠井元)