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2017.3.19 「希望をいただく」 (全文) 詩編27:1-14

 今日のこの詩編の詩は、生きる力をいただくとても素敵な箇所の一つだと思います。ある意味、今日は、私が何かを話すよりも、この御言葉を素直にいただき、ゆっくり心で受け入れていくことだけで十分な気もするのですが・・・ただ、今、それだけで終わるわけにはいかないので、この御言葉の喜びを、一緒に喜び、一緒に分かち合っていきたいと思います。

 

1:  希望

 今日の4節において、このように記されています。

 「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」(詩編27:4)

 「一つの事、それだけを主に願おう」それは、「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えること」です。この御言葉は、私たちが神様を喜び、信仰をもって生きるための最高の信仰告白だと思います。「主を仰ぎ、その喜びを得る」ただ、それだけを神様に求める。命のある限り、生きる限り、神様に礼拝することを告白しています。ここに私たちの生きる指針、人生の意味があるのです。

 私たちは生きる意味がはっきりする時にこそ、本当の希望を見出すことになるでしょう。希望とは生きる方向、進むべき道が分かる時に、いただくことができるものなのです。どのように生きて良いのか、これから何をして日々を過ごすのか、先が見えないときは生きる希望はぼやけている。幼稚園の子どもたちは、これから何をするのか、この先になにがあるのかわからないときは、とても不安になり、泣き出す子もいるのです。

 人間は生きる道がはっきりするとき、その道を歩いていくことが希望となるのではでしょうか。そして、本当の希望、変わることもなく、失われることもない生きる道は、神様へつながるという道なのです。御言葉と祈りを共に頂く礼拝の時に、神様と向かい合う時に、私たちは希望を見るのです。そこには本当の生きる意味と人生の指針を頂くのです。

 

 御言葉は語ります。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう」(4)と。私たちは今、神様に守られ、この礼拝の場に集うことが許さています。私たちは、礼拝が守られるようにお祈りしていきたいと思います。そして、私たちの兄弟姉妹のうちには、この礼拝を覚えながらも、病気や仕事のために、この礼拝を献げることができない方々もおられます。私たちは、そのような方々を覚えて、祈りましょう。

 「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」(4)私たちは、この御言葉を覚えて、共に、礼拝からの希望をしっかりと覚えて、祈り合っていきたいと思います。

 

2:  災い 関係の不確かさ

 今日の詩編では、続けて5節に「災いの日」という言葉が続きます。今日の箇所ではこの災いを具体的にさまざまな言葉で記しています。少し拾い上げてみますと・・・1節途中では「わたしは誰を恐れよう」という言葉に、5節の「災いの日」という言葉。10節の「父母はわたしを見捨てようとも」という言葉に、12節の「偽りの証人、不法を言い広める者」という言葉などです。この「災いの日」という意味は、これらなどから考えてみますと、神様に対する信頼、「救いと守り」と対極した言葉として、私たち人間がお互いを恐れることを「災い」だと示しているのです。「偽りの証人」と。つまり、人間の関係の不確かさを示しているのです。それがたとえ父と母という一番本来信頼のおける関係であったとしても、それが人間である限り壊れてしまうことがあるのです。つまり、それほどに人間の関係が不確かであり、それがここでいうところの「災い」だといっているのです。

 私たち人間の言葉の偽りと、関係の不確かさ・・・私たちはその不確かさ、また不完全さにお互いを「恐れる」のです。お互いを完全には信頼することができない弱さが、私たちのうちにはあるということです。それは、自分自身を含めた人間の本性は自己中心な者であるからです。人間は利己的であり、自己中心な者として生きています。自分の心の奥底を見る時に、そこに何が見ることができるでしょうか。神様がいてくださり、他者のために生きていこうという心があるでしょうか。最終的には自分を中心にしている。そのような価値観をもっているのです。そして、それがキリスト教でいうところの、人間の罪となるのです。私たちは、自分を中心に生きて、自分のために考えて行動をする。そして自分のための言葉を発する。それが私たち人間です。

 そしてだからこそ、そこには偽りと不確かな関係が生まれるのです。自分自身が自己中心的なのだから、他者と完全な関係ができるはずがないのです。私たちはどこかで不確かな関係に生きている。そして、お互いに「恐れ」をもっている。それが私たち人間の関係なのです。

 

 人間の言葉が自己中心的で、利己主義である。この一つの具体例が、聖書のヨブ記にあります。ヨブ記はヨブという正しい人の、信仰の正しさを図るためにサタンが苦難をしかける話しです。ヨブは財産から、健康、最後には家族もすべてを失ってしまいました。その苦難の中にあって、友人たちは・・・ヨブ自身の中に問題があり、罪があったと責めつづけるのです。「なぜ病気になったか」「なぜこんな結果になったか」「なんで」「どうして」。「それは、ヨブ、お前がなにか悪いことをしたからだ」「お前が何か罪を犯したからだ」と友人たちは言うのです。ヨブの友人は、ヨブを苦しめるためではなく、罪を悔い改めることで、救い出されるために、その理由を探し続けたのです。しかし、その言葉はヨブの心を傷つけていきました。「一緒にお祈りしましょう」という言葉で、ヨブの心をくみ取り、一緒に苦しむことはできなかったのです。ただ、理由と結果の因果関係を考えたのです。

 私たちは、自分自身が隣の人が泣いているときに、隣人が悲しんでいるときに、共に悲しむことができるでしょうか。隣人と同じ立場に立つことがでるでしょうか。むしろ、まず、自分の安全を求めていないでしょうか。特にそれが原因不明の病気、感染症などと、自分の安全が脅かされることであれば、だれでも不安になり「なんでそうなったのだろう」と理由が一番に知りたいものです。そして、それは、「自分はそうならないため」なのです。私たちは自分の安全を確かめて、それから、まったく別の立場から「大丈夫ですか」と、言葉をかけているのではないでしょうか。これが人間の弱さです。

 

3:  イエス・キリストの来られたところ

 私たち人間の関係の不確かさ偽りの中にあって・・・イエス・キリストは人間の自己中心という罪を受け止めるために、その象徴として、十字架の上において死なれた、本当の隣人となってくださったのです。イエス・キリストは、心から、私たちを愛してくださったのです。この出来事をバプテストではあまり使いませんが、教会の基本的な考えをまとめたものとしてあります、使徒信条では、「十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。」このように告白します。

 ここでは、十字架につけられたイエス・キリストがヨミに下られたとまで語ります。イエス・キリストがヨミに下られたことは「キリストのへりくだり」を理解することができるのです。イエス・キリストは、私たち人間の最大の痛みと苦しみである「偽りの関係」の中に来て下さったのです。イエス・キリストが、私たち人間と確かな関係を持つ者となられたのです。そして本当の隣人となってくださったのです。

 イエス・キリストが来られた。それは、私たちが神様と本当の関係を築いていくことができるために、そして人間同士が関係を築いていくことができるために、そして、その人間の関係に「恐れ」ではなく、「希望」を持って生きる者と変えられるためなのです。イエス・キリストは私たちの中に来て下さったのです。そして、私たちは、このイエス・キリストとの確かな関係を土台として、お互いに向き合うことができるのです。

 

 「わたしは信じます、命あるものの地で主の恵みを見ることを。主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」(詩編27:13-14)私たちは主イエス・キリストを待ち望みましょう。主を待ち望む心、その姿勢になる時に、私たちは心を強くされます。前を向き新しく歩む者とされていくのです。イエス・キリストが共にいて、共に歩んでくださっているという確かな関係を持つことによって、私たちの心は強くされ、勇気をいただくのです。

 イエス・キリストは、今ある困難を、超えることのできない壁としてではなく、新しく成長するための試練と変えてくださいます。だからこそ、私たちは共に祈りあい、共にイエス・キリストを待ち望みつつ、一緒に勇気をいただいて歩んでいきたいと思います。イエス・キリストは私たちの一歩前を歩み、その道を平らにしてくださるのです。道が平らにされていくこと。それは、私たちが壁を越えるべき力を与えられるというよりも、神様がその道を壁、でこぼこな道を平らにしてくださることを表します。私たちでは越えられないほどの壁を、主が共に生きる中で、歩くことができる平らな道と変えてくださると教えるのです。私たちは、イエス・キリストが共に歩き、また一歩先を歩き、そして後ろからも支えてくださる道、この道を歩く中で、失うことのない希望をもっていくことができるのでしょう。

 

4:  希望をいただく時

 私たちは、まもなく、2016年度を終えて、新しい年度を迎えていきます。この1年間で、教会は「キリストの体としての教会~共に苦しみ共に喜ぶ~」という標語の中で歩いてきました。私たちは一年間を振り返り、「キリストの体として、共に苦しみ、共に喜ぶ者」となることができたでしょうか。ある意味、「共に苦しみ、共に喜ぶ者」となることを「わたしは完全にできました」・・・と言うならば、それはそれで自分の弱さを忘れているような気もして、そこには落とし穴があるように感じます。完全に、私たち一人ひとりと「共に苦しみ、共に喜ぶ者」となることができるのはイエス・キリストただ一人なのです。私たちはだからこそ、日々キリストに出会い、キリストと共に隣人と向き合っていく必要があるのです。私たちはお互いに何度も何度も向き合い、その強さも弱さも、そしてその苦しみも、喜びも、一緒に分かち合うことができる者と変えられていくのです。不完全な者の弱さとしての間違えや悲しみも、もう一度回復される関係となるときに、そこには、これまで以上の喜びが与えられるのだと思います。そして、そのような意味では、関係が不完全であるからこそ、喜びはなくなることがないのです。何度も壊れることがあっても、何度でも主が直してくださるのです。私たちは、失敗を恐れず、自分の心を開いて、お互いに向き合っていきたいと思います。迷惑だと思われること、嫌われることを不安に思っているだけでは何も始まらないのです。その関係の間にイエス・キリストがきてくださることを信じて、お互いに向かい合っていきたいと思います。そしてお互いに心を一つにして祈り、希望を求める中にあって、教会としてより一つとされていきたいと思います。 神様の御心を、共に求めつつ、その関係を大切に築いていきたいと思います。(笠井元)