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2017.3.12 「からだ」は主イエスのもの (全文) Ⅰコリントの信徒への手紙6:19-20

 昨日は、東日本大震災後6年目を迎えました。いまだ仮設住宅に住んでいる人たちがおり、行方知らずの家族を探している人たちがいることを憶えましょう。また、熊本大震災の被災者たちのことを憶えて礼拝しましょう。

 一昨年からスチュワードシップ、つまり、「神に仕える僕の道」について学んできました。途中で創世記の1~3章からの10回の説教を挟んだりしました。ずいぶん間が空いたので、流れを忘れてしまわれたかと思いますが、今朝はスチュワードシップの6回目となります。パウロは、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神の神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(Iコリント7:19~20)と言います。この文章には、1)わたしたちの「からだ」は神の霊が宿る聖霊の神殿であるということ、2)わたしたちは、主イエス様の犠牲によって代価を払って買い取られ、もはや、自分のものではないこと、3)そのような自分を神から受け取り直して、神の栄光を現すために生きるという3つのテーマが語られています。今まで、私は、様々な教会で、信仰による、「体の健康管理」というテーマで何度もお話ししてきましたが、このテーマで、東福岡教会で説教することに躊躇をしてきました。なぜなら、高齢の方が大半である私たちは、それほど健康ではなく、健康に生きろ、などと言われるとかえって落ち込んでしまいがちだからです。

 

1.「健康」とは?

 「健康」とは何かをはっきりさせることは難しいそうです。東京時代の大学の保健体育のクラスで、同じ大学を卒業した先輩の河北というお医者さんがお話をしてくれました。「健康とは何かをはっきり言うことは難しい。自分のように大学でラグビーをやっていたいかにも健康そうな人間が急に死んでしまうこともあり、幾つもの病気があるけれど、仲良く付き合いながら長生きする人もいる」というのです。彼は東京の杉並区高円寺という町の河北病院の院長でしたが、何年か後、新聞で彼が急死したことを知り、大学でのお話を想い起こしました。WHO「世界保健機構」の定義では、「健康とは、単に、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的(あるいは内面的)にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいう」というものです。そんなことを言えば、健康な人など、この世界にはいないということなのでしょうか。聖書の考えは、明確です。「人間は、みな罪人であり、みなどこか病気である」ということです。ある神学者は、これは心の病の問題について語られたことなのですが、「病気であるかないかの個人差は、自動車の運転が旨いか、下手かというようなことだ」と言っています。確かに運転があまり得意ではない、ちょっと電柱に擦ったり、すぐ警察官につかまる人がおり、旨いといってすっ飛ばして大事故を起こしたりします。まず、押さえておきたいことはどんなに健康そうに見えても「人間は、みな罪人であり、みなどこか病気である」ということです。

 

2.ボロボロなわたしたち

 パウロは、あなたがたは「知らないのですか」と問いを投げかけています。ここに、あなたがたの「体」という言葉が登場します。ギリシヤ語で「ソーマ」と言います。ギリシヤ人には「ソーマ(からだ)はシィーマ(墓場)」という言葉がありました。彼らは、神様のひらめきを持つ人間の魂は、肉体から来る様々な欲望や病に侵されてしまう。喉が渇いた、お腹が減ったとかですね。そして、つい食べ過ぎてしまう。永遠の魂は、肉体というお墓に閉じ込められていると考えたのです。そこで魂と肉体を切り離して考えようとしました。生活実感としては何となく分かる気がしますね。問題なのは、悪いのは、この自分の肉体なんだと考えました。しかし、魂と肉体を切り離すことによって、問題が起こります。一方で、肉体をいじめて鍛錬しようという禁欲主義が生まれます。他方、魂は救われているので、肉体は結局どうでもいいという、いい加減で投げやりの生き方が出てくるわけです。しかし、聖書はそのようには考えません。ギリシヤの考え方と違い、「肉体」ではなく、「からだ」という言葉を用いましょう。聖書の考えでは、「からだ」とはわたしという人間全体のこと、「わたし」のことです。肉体が病気であれば、魂も弱り、魂あるいは心が病気になれば、肉体にも影響してくるのです。魂あるいは心と肉体は切り離せません。確かに、私たちは、具体的に、目に見える肉体というものを持って生きています。しかし、魂と切り離せない、そのようなことを考えるとき、肉体を持つというより、わたしは「からだ」であると言います。15節では、「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」と言われます。さらに、わたしはからだを通して他人との関係において生きているので、「他者との交わりに生きるわたし」のことを「からだ」と表現するのです。わたし自身は、小学3年生のときに日本脳炎になって死にそこなって以来、余り大きな病気はしておりません。しかし、最近は老化がかなり激しいのです。東日本大震災の年に、鼠蹊部ヘルニヤの手術をしました。初めての外科手術です。また、酷い耳鳴り、手の痛み、不眠。先日パジャマを脱ごうとして転倒しました。体の平衡感覚の乱れです。ボロボロです。肉体と魂は一体ですから、肉体が不調であれば、心も弱るし、心が弱れば、肉体も弱ります。たぶん、皆さんの多くは、そのような自分を引きずりながら生きているのではないでしょうか?「からだ」が「他者との関係に生きるわたし」のことであれば、人間関係でもあまりうまくいかない、それが「からだ」ということで意味されていることです。どこかボロボロになってくるわたしたちです。

 

3.あなたがたのからだは神の神殿である

 しかし、パウロは非常に不思議な、勿体ないことを言うのです。今日のメッセージの中心部分です。私たちのからだは、「神の神殿である」というのです。これをあなたがたは知らないのかと言うのです。口語訳では、「聖霊の宮」となっています。ここで「神殿」とは「ナオス」というギリシヤ語が使われています。神殿の境内地全体を意味する「ヒエロン」に対して、神殿境内地の中の礼拝所を意味します。「ナイオー」とは誰かが「住まう場所」を意味しています。神ご自身がこの世界に住まわれる場が「ナオス」=神殿です。東福岡教会は筥崎宮の「ヒエロン」境内地にあるようなものですが、筥崎宮の「ナオス」神殿は「敵国降伏」という額がある社殿でしょう。何と、このわたしというもの、魂も肉体も含めた「わたし」、そして「他者との関係に生きる私」、」現実にボロボロになりそうな「からだ」としての「わたしたち」は「神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿である」と言うのです。同じ思想・信仰が3:16~17にも登場します。ゆっくり読んでみましょう。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知れないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」。人間の魂が永遠であるのではありません。そうではなく、魂もどこか病気になってしまう、この全体としての「わたし」に聖霊が与えられて、「わたし」という全体としての「からだ」が聖霊が宿っている「神殿」であると言うのです。ですから、私たちが他者を見くびり、傷付けることは、神の神殿である、その人を壊すこと、その人を壊すことは神の神殿破壊者であるので、神は決して黙っていないぞという恐ろしい言葉です。でも、有難いことばです。神はそれほど、私たち一人一人を大事にしておられるのです。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿って下さっている神殿である」というのです。ボロボロなわたしたちが神の宮である、これこそ、恵みの言葉です。

 

4.キリストによって買い取られたわたしたち

 では、私たちの目をさらに一歩、進めてみましょう。なぜ、ボロボロのわたしが聖霊の神殿であるのか? それは、主イエス様が、尊いいのちを犠牲にして、代価を払って私たちを買い取って下さったからだというわけです。「買い取る」)、「アゴラゾー」とは「アゴラ」=公共の市場で、身代金あるいは代金を払って買い取られたという意味です。その「しるし」として聖霊がわたしたちに与えられているわけです。これは目に見えなせんが、そう信じなければなりません。誰がどう言おうが、自分で自分を責めようが、自分は「主イエスの愛の犠牲によって買い取られ、聖霊が与えられていること」を信じなければなりません。そうでないと、あのボロボロの世界の奈落に落ち込んでしまうか、あるいは、信仰によって自由になったんだから、何をしたって大丈夫、「わたしには、すべてのことが許されている」と大言壮語して、物質的、性的欲望に絡めとられることになるのです。当面はそれで良いかも知れませんが、目に見えない影響が働いて自分自身の人格も他者の人格もダメにしてしまいます。「あなたがたはもはや自分自身のものではない」ということを知らねばなりません。

 

5.自分の体で神の栄光を現せ

 そして、最後に、いよいよ、スチュワードシップの話です。神の恵みによる「からだの管理」のテーマです。「自分の体で神の栄光を現せ」という戒めです。確かに、自分のことで余りに思い煩ってはいけません。健康でいたい、健康でいたいと思って、ないもの、失ったものを思って、かえってクヨクヨして落ち込んでしまってはいけません。そうではなくて、自分を慈しんで、弱い自分の心と肉体を慈しんで、生きることが大切な課題なのです。「すべてのことが許されている」と思うかも知れませんが、「すべてのことが人間形成の益になるわけではない」のです。パウロは、無制限の自由が、実は自己中心的で、欲望のままになって、結局、極めて不自由なものになってしまうことを知っていたのです。こうして、神の恵みは一方的に私たちに与えられているのですが、その恵みに応えて、少しでも、神のために生き、自分自身を大切にし、隣人を尊重するというスチュワードシップ(神に仕える僕の道)が私たちの課題となるのです。

 今日、わたしたちは、豊かさの中で、また、格差社会の貧しさと忙しさの中で生きています。しかし、食べ過ぎないこと、食べなさすぎないこと、きちんと寝ること、規則正しい生活をして過労になったり、逆になまけたりしないこと、適切な運動をする小さな積み重ねもスチュワードシップなのです。私も精神安定剤が手放せないので、偉そうなことは言えませんが、ストレスはイエス様が一緒に担って下さいます。そう信じています。最後に13節~14節の素敵な言葉に耳を傾けて終わりましょう。「からだは主のためであり、主はからだのためである。そして、神は主を復活させ、また、その力によって、わたしたちをも復活させてくださいます」。やがて新しい「からだ」として復活することになっている者として、そのように予定されている者として、生きにくい世の中ではありますが、この新しい週も信仰と希望と愛を持って生きましょう。(松見俊)