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2017.2.19 「信仰から神様の愛に応答する行い~」 (全文) ヤコブの手紙2:14-17

1:  キリストの体として  

 先月、総会において教会執事、幼稚園理事の選挙を行いました。まず、なによりも教会全体、皆さんと共に、来年度の教会、幼稚園を担い働いていきたいと願っています。そして総会において、教会員の総意として、新しく選ばれた執事の皆さん、また幼稚園の理事の皆さんと、共に力を合わせて、来年度からの教会と幼稚園の働きを担っていきたいと思います。

 総会で行われた選挙は、選ばれた者だけが頑張るのではありません。選び出した側が、自分たちの代表として選び出した者として、責任を持って、祈り、支えていただきたいと思います。選ばれた者も、選んだ者もどちらにも大変な責任が伴います。新しい1年を迎え、そして働いていくために、私たちは教会全体で祈りと思いを合わせていきたいと思います。

 

 2016年度の標語は「キリストの体としての教会~共に苦しみ共に喜ぶ~」という言葉です。教会は、神様が私たちに委ねられた、キリストの体です。神様から託されたキリストの体であり、それは私たち一人ひとりがキリストの一部一部を担っているということです。

 キリストの体の一部である、私たちは、神様から託された者です。私たちの体も、富みも、賜物も、時間も、その命のすべては、神様に託され、委ねられた、キリストの体の一部ということです。わたしたちは今一度自分の、その命のすべてを隅々まで見渡して、神様から預かったものとして日々の生活がなされているか考えてみましょう。そして、自分自身が、どのように生きるべきかを考えてみたいと思います。私たちが自分自身を見渡す時に、皆さんは自分の好きなところもあれば、弱さや受け入れたくない嫌いなところも見えるかもしれません。しかしまた、私たちのすべて、それは嫌いなところも、すべての中に、神様の愛があることを思い出したいと思うのです。私たちはイエス・キリストを通した神の愛の中に生かされているのです。このキリストによる愛を通して、もう一度自分の隅々まで見渡してみましょう。

 そして、私たちは、その弱さのうちにあるキリストの愛を見出していきたいと思います。また、そのキリストの愛を通して、他者を見つめる時に、私たちは、お互いの痛みや苦しみ、そして喜びのすべてを神様の恵みとして、分かち合うことができるのだと思います。「キリストの体としての教会~共に苦しみ、共に喜ぶ~」。それは私たちのうちにイエス・キリストという愛が注がれていることを、様々な痛みや喜びから、共に見出していくときに起こされている出来事だと思います。

 

2:  信仰とは・・・神様の愛の行為 

 さて、今日の箇所17節で、このように語られます。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(17)今日のヤコブ書は「行いの伴う信仰」の大切さを語ります。「行いが伴わないなら、信仰は死んだものである」。この言葉は、いろいろな意味で、とても有名な箇所であります。

 一つにはこのような行動を推し進める言葉に対して、宗教改革者のルターがヤコブ書を「わらの書」と言って、必要ない書簡であると言ったということです。ルターは「信仰義認論」を訴えた人物です。「信仰義認」とは「ただ信仰によって義とされる」「信仰によってのみ、神様の前に立つことができる」という考えを特に強く勧めた言葉です。そのために今日の箇所のような「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」という御言葉は、「ただ信仰のみ」という言葉とは相反するものであり、ルターのような「信仰によって義とされる」という考えを持つものにとっては、批判する言葉であったのです。

 しかし最近、ルターの書いた本を読んでいた中で、「必要のない書」「わらの書」と言ったこのヤコブ書から、ルター自身が信仰を受け取っていることを記しているという言葉を読みました。ルターもまた「必要ない」「わらの書」と批判しながらも、ヤコブ書から福音を受け取っていたようです。このような姿、自らの考えとしては「必要ない」と感じていたヤコブ書からも福音を受け取る姿は、聖書に対する真剣に向き合う姿と、人間としての神様に対するへりくだりの姿を見るのです。私たちも、どんなに「必要ない」「受け入れがたい」と思っても、自分の価値観が中心となり、聖書の言葉を受け入れずに切り捨てるのではなく、神様を中心に、へりくだり、真摯な気持ちで御言葉と向き合い、受け入れていきたいと思います。

 今日のような「行いによる信仰」とは相反する言葉として、「ただ信仰によって」とういことが記されている箇所となりますが、ガラテヤ書で、「信仰」について聖書ではこのように記されています。

 ガラテヤ2:15-16

 「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」

 このガラテヤ書の御言葉は、私たち人間は、その自らの行い、律法の実行によっては決して義とされることはないと教えるのです。私たちがどれほど素晴らしい行為を重ねても、その行為だけでは、私たちは神様に近づくことはできないということなのです。ただ「信仰によって義とされる」ということ、この信仰とは、救いは私たちの行為によってではなく、神様によって、私たちは救い出されたということを受け入れることなのです。「信仰」は神様の一方的な愛によって与えられているのです。わたしたちは、ただただ神様の招きのうちに、神様の一方的な愛の出来事のうちに生かされているのです。

 神様は、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して、私たちに愛を示されました。そしてこの十字架と復活という、神様の慈しみと決断によってなされた行為によって、私たちは、神様を信じる信仰を与えられているのです。

 

 神様がイエス・キリストをこの世に送ってくださったということ。それは神様の慈しみのうちに与えられた「神の行為」、「神様の行い」です。神様はなにもせずに、「人間を愛している」・・・と言っているのではないのです。「イエス・キリストの十字架」という自らの行いを通して、私たち一人一人と出会い、私たちと関係を作り出してくださいました。これが神様の愛です。神様の愛には行動が伴い、それは大きな痛みと苦しみの出来事である、イエス・キリストの十字架という出来事が伴っているのです。わたしたちに与えられている信仰という神様の愛の招きは、神様が自らの命をかけて作りだしてくださった道なのです。今日の御言葉は「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(17)と言います。

 この言葉は、まず神様の愛に行動が伴っているからこそ。だからこそ、その応答の信仰にも行いが伴うと語っているのです。私たちがイエス・キリストを信じるという信仰は、神様の確かな愛の行動に基づく信仰なのです。「信仰には行動が伴う」のです。

 

3:  愛の伴う信仰 

 神様は、私たちを愛されました。私たちはだれもが愛されているのです。神様は、私たちが悲しい時に、共に悲しみ、苦しい時に、共に苦しまれている。そして喜びの時に、共に喜び、痛みの時に、共に痛んで下さっているのです。神様は行動を伴う愛で、私たちを愛しているのです。

 そして、イエス・キリストは私たちの隣に立ち、私たちの重荷を担い続けて下っているのです。私たちはこのイエス・キリストの愛に出会う時に、「愛の実践を伴う信仰」が与えられるのです。これこそ「神様から与えられる信仰」です。私たちの「信仰」とは「行いの伴うもの」です。そして「行い」は「信仰」の伴うものなのです。つまり、私たちの生きる命は、まず神様が私たちを愛されているという出来事が主体的にあり、私たちはその中に生きるということです。私たちが信じたから、愛されているのではなく、また私たちが良い行いをしたから、救われるのでもないのです。神様の一方的な愛のうちに、私たちは生かされ、招かれているのです。そしてだからこそ、私たちは神様の愛に応答して生きていきたい。そして応答する勇気と力が与えられている。それが、私たちの「信仰」なのです。「行いの伴う信仰」とは、私たちが無理をしてなにかよい行いをすることを意味しているのではありません。

 イエス・キリストに出会い、イエス・キリストからのいっぱいの愛を受け取り、愛を作りだす勇気をいただきましょう。神様は、私たちを愛されています。そしてその愛に出会った喜び、イエス様が隣にいるという慈しみを分かち合うことを願っているのです。

 

4:  痛みを伴う愛の行為

 ヨハネによる福音書15:16-17

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 神様は、私たちを選びだし、招いてくださっているのです。そしてその神様が、第一に「神を愛しなさい」、そして第二に「隣人を愛しなさい」と教えられました。私たちは「互いに愛し合いなさい」と教えられているのです。

 私たちは隣人、お互いを愛しているでしょうか。「お互いを、隣人を愛しなさい」と言われる時に、私たちはそもそも「隣人」とはだれなのかを考えさせられるのです。

 現代は超個人主義と言われるほどに、人間と人間のつながりは失われている時代です。個人情報が守られることばかりが主張され、いつの間にか、力を合わせること、共に生きることを忘れてしまっていると感じています。そのような時代の中で、私たちはいつの間にか神様とのつながりも、一人で神様と繋がっていればいいと思うようになっているのではないでしょうか。自分が神様ときちんと繋がっていること、神様に祈っていること、聖書を読んでいること、それだけでよいと思うことがないでしょうか。そのような時代において今年度の標語「キリストの体としての教会~共に苦しみ共に喜ぶ~」という言葉は、とても時代に逆流したような言葉に聞こえます。

 しかしまた、このような時代、それぞれのつながりがなくなりつつある時代、だからこそキリストは「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられているのであり、私たちはその言葉を大切に聞いていきたいと思うのです。イエス・キリストは、私たちがお互いに愛し合うことを期待されているのです。「お互いを愛する」ということ。本当にお互いを知り、そして受けいれること。それは、自分自身が傷つくことを覚悟して、隣の人と向き合うということです。お互いのために生きていくために、私たちは自らが傷つく覚悟が必要なのです。

 イエス・キリストは自らの命を捨ててまで、私たちを愛されたのです。そして今もなお、私たちのためにその重荷を共に担い、私たちの痛みを共に痛んでくださっているのです。これが神様の与えられた愛なのです。 私たちは、今、キリストの体としての教会を作り上げていきたいと思います。それは、自分が痛みを伴う愛の行為をもって、隣人と向き合うことから始まります。

 

 皆さんは、すでに今、この礼拝の場に来て、共に神様と出会い、共に礼拝をして、共に賛美して、共にお祈りしているのです。それは自分の時間を差しだした行為であり、神様への奉仕なのです。この礼拝の行為も、一つの自分の犠牲を伴った行為と考えられるでしょう。兄弟姉妹と出会い、顔を合わせ、お互いの心を感じながら、共に礼拝をすることは大きな愛の行為です。ただ、私たちはそこで終わるだけでよいのかを考えさせられます。この礼拝のとき、私たちは、今、礼拝することができない人たち。高年齢になり動くことができなくなっている方、病気のうちにある方、仕事で来ることができない人、様々な理由でこの礼拝に来ることができない人のことも、覚える必要があるのではないでしょうか。

 自分が良ければ、それでよいというわけにはいかないのだと思います。私たちは、今、隣に座っている人の痛みを知る、勇気を持っているでしょうか。「話しかける勇気」をもっているでしょうか。隣の人は自分ではない人、すべての人を指している。それは自分とは違う価値観を持ち、自分とは違う性格であり、自分の事を理解してくれるかも、わからない人です。自分と違う人と関わることは、痛みを伴います。イエス様の愛は、その道を歩き出す勇気を与えてくださっているのです。私たちが、その一歩を歩き出す時に、そこにキリストの愛が表されていくのだと思います。キリストの愛をいただき、歩み出していきましょう。それは自分のことばかりを考えている、虚しい社会に立ち向かっていくということでもあるでしょう。

 

 今、イエス・キリストの祈りに押し出されて一歩を歩み出していきたいと思います。虚しく、悪に支配され続けている社会に飲み込まれることなく、キリストの愛を表していきたいと思います。痛みと苦しみの中にあって、主が共にいてくださること、そして共に痛んでくださっている兄弟姉妹がいること、その祈りがあることを信じて、共に、支えあい、歩んでいきたいと思います。(笠井元)