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2017.2.5 「へりくだりの主イエスに従う」 (全文) マタイによる福音書3:13-17

1:  イエスのバプテスマの意味

 今日の箇所は、イエス様がバプテスマを受けられた場面になります。「イエスのバプテスマ」は、これまで様々な解釈がなされてきました。「なぜ、イエス様はバプテスマを受けたのだろうか」。この問いには、さまざまな意見が考えられてきました。私たちにとってのバプテスマとは、その水のうちに沈められ、もう一度起こされることによって、一度死に新しい命を与えられたこと、自分たちの罪が洗い流されたことを表し、新しく生きるということを、象徴的に表す式典です。

 私たちは、イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、その復活に与ることによって新しい命をいただくのです。「イエスは主である」と告白して、「イエスを主として生きる」ということを決意し、自分の言葉で表し信仰告白をし、その信仰の証しとしてバプテスマを受けるのです。バプテスマは罪ある者が救いに与ったことを表す出来事です。そのように、象徴的にとしても、本来、救いに与る出来事としてのバプテスマです。このバプテスマを神であるイエス様が受けられたのです。この出来事をどのように理解することができるのでしょうか。

 この問いに対しての一つの考えとして「このときのイエス様は、罪の応答として、赦しを頂くためにバプテスマを受けにきた」という考えがありました。簡単に言うと、イエスは、イエス自身が罪ある者でありバプテストを受ける必要があったというのです。バプテスマによる罪の赦しと信仰の告白が必要だったという、考えです。

 また、もう一つの考えとして、このバプテスマによって、イエス様はメシアとして自覚をもったという考えがあります。これまでナザレの大工の子どもとして生活をしていた一人の人間に、聖霊がくだり、神の子、メシアとして目覚めた。それがイエスのバプテスマの意味であるとも考えられたのです。

 

 このように、イエス様のバプテスマにおいて、イエスには「罪があった」また、「この時に神の子として、メシアとして目覚めた」という考えは、同じような考えが、これまでも何度も考えられてきました。しかし、どちらも十分な答えとは言えないでしょう。これらの解釈に通じている一つの思いは、「イエスは完全には神様ではない」という思いです。イエスはもともと神様ではなく人間であった。その中で、バプテスマを受けた時に、神様によって救い主とされたという思いが、その根底にあるのです。つまり、イエス様は100%は神ではなかったというのです。この考えは、人間が神様を理論的に考えようとする時に陥りやすい考えです。キリスト教は、イエスは100%人間であり、100%神であると告白するのです。このようなことは人間の頭の理解を越えているでしょう。100%人間で、100%神。そんな理解は人間の論理からすれば完全に破たんした考えなのです。だからこそ、このバプテスマを受けることから、この時にイエスは人間から神へとされた、罪ある者の罪が赦されて人間と神の間に立つ者とされたという、イエスは神より劣った存在であるという考えに陥ることがあるのです。

 しかし、わたしたちは、イエスは100%人間であり、100%神であると告白するのです。この告白の中にあっては、キリストは生まれてから死ぬときまで「罪があったもの」とはされないのです。「罪がない」のにもかかわらず、私たちの「罪」のために、私たちの「罪」の身代わりとなって、「罪人の代表」として死なれた方、それがイエス・キリスト、私たちの救い主なのです。同様に、イエス様が最初はただの人間であり、どこかで神の子とされるときがあったとも考えないのです。イエス・キリストは生まれる前から「神の子」であったのです。イエス・キリストがいつから、どこで、「神の子」とされたのか、またメシアとして目覚めたということを考えるとき・・・キリスト教の信仰としては、生まれる前から、むしろ、主イエス・キリストこそが、すべての創り主なる神としておられたと考えるのです。

 

 今日の箇所、イエス様のバプテスマの意味を考える時に、「なぜ」「どうして」という問いよりも、「だれが」と考えていくほうが、明確にこのイエスのバプテスマの意味がわかると思います。イエスとは「だれか」。今日の箇所、イエスのバプテスマによって問われていることは、ここでバプテスマを受ける方イエスとは「誰なのか」。罪を悔い改めることが必要な方なのか、一体このイエス・キリストは「誰」としてバプテスマを受けたのか。 

 今日は、このこと、バプテスマを受けられた方、イエス・キリストとは誰か、つまりイエス様のアイデンティティというものを中心にみていきたいと思います。

 

2:  神の子 苦しみを共に担う方

 イエス・キリストのバプテスマで示されたイエス・キリストは「誰か」ということには2つの側面があります。簡単に言いますと、先ほど言いましたように、イエス様は神様であり、人間であったということです。

 一つは、イエス様は、神の愛する御子であり、その御心のうちに救い主とされる者であるということです。これまでマタイによる福音書では、イエス様は、救い主「インマヌエル」「主は共におられる」者とされ、同時にアブラハムの子、ダビデの子孫としての救い主として語られてきました。

 そのようなイエス様に対して、ここで神様は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(17)と語られたのです。神様は、「イエスはわたしの愛する子」であると語るのです。ここでイエス・キリストは、神様の愛する御子としての救い主であることを明確に語られるのです。これが一つの側面。メシアとして受けられたバプテスマの意味です。ここで、イエス・キリストは「誰か」という問いに、イエス・キリストは「神の子」であるという答えを出すのです。イエスとは、神様の御子であり、その御心に適う者としてこの世に来られた、私たちの「救い主」であることを示すのです。

 

 そして、イエス・キリストは「誰か」という問いに対して示された二つ目の側面。それは、イエス様は「罪の中に来られた方であると」いうことです。イエス様は人間の罪のうちにこられ、人間に連帯する者となられた方なのです。イエス様のバプテスマはこの、人間の苦しみを共に担う方としての姿を表すのです。最初に言いましたように、バプテスマとは本来「罪が洗い清められ、新しい命をいただく」、その信仰を表す式典です。しかし、イエス様は、自らがその罪のうちに来られたのです。罪を赦すために、罪ある者の弱さや痛みを共に受け取るために、イエス様は罪の中に来てくださった。そして、そのイエス様が死ぬことによって、私たち人間が新しく命を受けとることができるようにと、その道を開かれたのです。これがイエスのバプテスマによって表される、もう一つの側面「苦しみを共に担う方」としての姿です。

 イエス・キリストは、人間の苦しみと痛みを受け取られ、私たちと共に生きる者となられたのです。それがイエス・キリストがバプテスマによって示された「誰か」という大きな出来事、イエス・キリストのアイデンティティであります。イエス・キリストは、ここに「神の子としての救い主」であり、同時に「人間に連帯する者、共に生きる方としての救い主」であるという姿を表されたのです。神様から送り出された、神の子としての救い主は、私たち人間のことをどこかで見ながら、なんとなく見ておられる者としているのではなく、私たち人間と共に生きる者、私たち人間のために命をかけてまで祈り続けてくださる方としてこられたのです。

 

3:  十字架の道を歩み始められた

 そして、このイエス・キリストのバプテスマは、十字架へとつながっていく出来事であると言うことができるのです。イエス・キリストは、自らの自由うちにあって、決断されてバプテスマを受けられたのです。つまり、罪の中、人間としての闇のうちに来られたのです。それは十字架という死に向かう道を歩み始められたということができるのです。イエス・キリストのバプテスマの決断。この決断によって、キリストは十字架という死の道を歩きはじめられたのでした。

 私たちのバプテスマの決断は、このキリストのバプテスマ、そしてその十字架を土台に行われるのです。キリストが罪の中にこられ、その罪をうけとられることによって、私たちは、自らを罪の中から解放し、新しく生きる命をいただく道を歩きはじめることができるのです。私たちは、キリストのバプテスマを土台として、自らを神の子らとして解放を受け取る、救いを得る、これが私たちのバプテスマなのです。イエス・キリストはバプテスマの中で、神様の義、神様の永遠の裁きの中に落とされたのです。神様は慈しみ深く、愛の方です。そして同様に正しい義を持つ方です。神様は、このイエス・キリストの十字架を通して、その裁きをもって人を愛する方となられたのです。

 これがイエス・キリストのバプテスマです。そして、キリストのバプテスマを受けて行う、私たち一人一人のバプテスマ、私たちの決断、その中に神様は、永遠の命、そして神様の愛、希望を与えることを約束されたのです。神様の言葉、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とは、キリストのバプテスマを通して、私たち一人一人に向けられている御言葉です。私たちはキリストのバプテスマを通して、つまり、キリストが「罪人」となること、「死」に向かうことを通して、私たちが喜びと命、そして本当の愛を受け取るのです。バプテスマとはキリストを土台とした人間の解放の出来事なのです。

 

4:  へりくだりの道 

 このバプテスマの出来事を完成させた出来事は、まさに十字架、「キリストの死」であります。フィリピ書において、このように言われています。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)

 イエス・キリストの十字架。それは、自分を無にするまでにへりくだられた出来事。死に至るまでの出来事です。キリストは「へりくだり」、自分を「無」にしてまで神様に従ったのです。それが神の御子であり、私たちの主、救い主です。イエス・キリストは、自分の身をかがめ、自らを無にして、私たち一人一人と共にいてくださる道を選ばれたのです。

 キリストは私たちがどこにあっても、そこに来てくださり、へりくだり、共に歩んでくださる決意をなされたのです。

 私たちが「イエスは主である」と告白するバプテスマは、イエス・キリストによる愛を受け取ることであります。そして同時に、その十字架の道に従い歩いていくということを、告白することでもあるのです。私たちは、自らの命をかけてまで私たちのところに来てくださった、そのイエス・キリストの恵みで心を満たされて、心から喜び、主に付き従う道、へりくだり続ける道、神を見上げ、他者の苦しみを共に受け取り、仕える道を選びとっていきたいと思うのです。

 「仕えて、従いましょう」と言っても・・・私たち人間の心の底からは「仕える」という心はあふれ出てくるものではないのだと思います。私たちは仕えることよりも、むしろ誰かが自分に仕えることを望んでいるのです。それが普通の人間の感覚です。他者のことを思い、考え、願うよりも、自分のことを中心に考えていく。それが人間であるのです。そして、そのような心のうちにあって、イエス・キリストが、私たちに仕えてくださっていれば、それでよいと考えてしまうこともあるのです。神様に愛されている。キリストが共にいる。それで満足となっていないでしょうか。キリストが受けられたバプテスマに与る信仰。それは、私たちのために仕えてくださったキリストを土台に、「仕える者」に変えられる信仰なのです。

 私たちが信仰を得るということは、心の中に、自分の救い主として、イエス・キリストを迎えいれることです。そして、キリストが心のうちに来られた時、私たちは、そのキリストの愛を受けて、心に「仕える」ということ「愛する」ということを知るのです。イエス・キリストは死をもって、痛みと苦しみをもってへりくだり、仕える者となられたのです。私たちがこのイエス・キリストに従い、仕える者となるということは、キリストのへりくだりの恵みを受けて、私たち自身が、痛みを伴う道を歩き出す事なのです。無傷でだれかに寄り添うこと、痛みを伴わないで、仕えることはできないのです。仕えることはそれほど簡単なことではないでしょう。それは、イエス様が、自らの死のうちに、私たちに命を与えられたように、何かを与えらえることから、与える者となること、祈られる者から祈る者と変えられていくことです。

 

 この痛みを受け取ることは、人間の思いを超えている行為です。だれかのために自分が傷つくことを望むことは、私たちの心というのではなく、神様の注がれている愛を受け取って生きる道なのです。私たちがイエス・キリストを心に迎え入れる時、その道を歩き出す心をいただいているのでもあります。喜びをもって仕える者となる道を歩き出す心をいただきたいと思います。

 私たちは、イエス・キリストのバプテスマを見ることによって、その十字架と復活の出来事を通して、どのようなときにあっても主イエスが、私たちを支えてくださっているという恵みを確認していきたいと思います。そして、主イエスを心に迎え入れることによって、私たちは、へりくだりの道、キリストと共に歩く十字架の道を歩く、信仰と勇気とをいただいていきましょう。イエス・キリストは私たちの救いのために、この世に来てくださり、私たち一人一人と共に生きてくださっているのです。私たちは、このイエス・キリストと共に生きていきたいと思います。イエス様こそが私たちの主であります。だからこそ、私たちは心に主を、心の中心にイエス・キリストをお迎えして、主に従う道、痛みを共に担う道を歩き出したいと思います。  (笠井 元)