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2016.12.4 「絶望を打ち破る希望」 (全文) マタイによる福音書1:18-25

1:  系図から誕生へ

 皆さん、おはようございます。今日はアドベントの第二週となります。私たちは、今日、このアドベントの時に、神様が人となってこの世に来られたという恵みを共に分かち合い喜び受け取りましょう。

 今日の箇所の前には「イエス・キリストの系図」があります。系図については、マタイの一番最初の箇所として皆さんと学びました。ただ、それがすでに10月のことですので、だいぶ前の話となってしまいましたが・・・・マタイによる福音書は、一番最初に、「イエス・キリストの系図」があります。ややこしいカタカナが並んでいる系図ですが、このイエス様の系図からも、「アブラハムの子、ダビデの子としてのイエス」また「女性の存在」など、いろいろなことを教えられました。そして、マタイでは、この系図の後に、今日の箇所、18節からの、「イエス・キリストの誕生」の記事が続きます。「イエス・キリストの系図」があり、そしてその後に「イエス・キリストの誕生」の記事が続くのです。

 系図からみる歴史の流れのあとに記された、救い主の誕生です。歴史の中で人間、特にイスラエルの民が行ってきた多くの出来事。神様から離れては、憐れみのうちに赦されてきたイスラエルの民の姿。また人間の心の苦しみや悲しみ、痛みや絶望、そのすべてを知ってくださった上での、神様の慈しみなど。この系図からみる歴史は、神様が関わり続けてくださったことを見ることができるのです。そして、それら歴史のすべてを越えて、神様は、この人間の世界に、ご自身の独り子イエス・キリストを送ってくださったのです。神様は、何千年も続く歴史の中で人間がいただいてきた恵み、また犯してきた多くの罪、そして人間の痛み、そのすべてを受け入れてくださいました。そしてそのうえで、救いの出来事として、イエス・キリストを送ってくださったのです。そこには、今、ここに生きる私たち一人一人の思いもくみ取ってくださる神様の姿があり、そのうえで、私たちに救いを与えてくださった。そのような神様からの愛のメッセージを、私たちは受け取ることができるのです。

 

 その上で、今日の箇所では、聖書はこのように語ります。18「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」20「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。』」(マタイ1:18、20)

 ここで、強調されて語られていることは、「聖霊によって」ということです。聖霊の導き、それは神様がこの世界に関わられたという出来事です。そしてその神様のかかわりの中心にイエス・キリストがこの世に来られたという出来事があるのです。神様は「聖霊によって」この世界に、人間に、そして私たち一人ひとりへと目を向けてくださったのです。神様は聖霊による介入をなされることによって、私たち人間に目を向けられた。聖霊によって、この世に手を差し伸べ、そして、イエス・キリストを送ってくださったのです。

 

2:  ヨセフの正しさ

 今日の箇所で、天使はヨセフにこのように語ります。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(20)ここで、ヨセフは天使から、マリアの妊娠を知らされます。このマリアの妊娠には、多くの危機が待ち受けていました。

 この時、マリアとヨセフはいいなづけでした。当時のユダヤでは婚約をして、結婚式を迎えるという習慣がありました。婚約は、大体の場合、両親同士が決めて、子どものうちに約束をする場合が多かったようです。そして、当人同士が結婚ということを理解できる年齢になったときに、その婚約を当人同士が受け入れる。このときに、当人同士が気に入らなければ、婚約を解消することもできたようです。そして、一旦婚約を受け入れたならば、世間の間では夫婦に近い関係と見なされたのです。ヨセフとマリアの場合、この時マリアが15才ほどであったと考えられていますので、すでに結婚の意味を理解することが出来る時期になっていて、結婚の約束を取り交わしていたと考えられるのです。すでに、二人は、公に、夫婦に近い関係と認められていたのです。そのようにヨセフとマリアは、世間に認められた間柄であったのです。

 この場合、もし、マリアがヨセフの子どもを宿したのであれば、すぐに結婚をすればよかったのでしょう。しかし、マリアの子がヨセフの子でないという事であれば、話はまったく別となるのです。夫を裏切った罪として律法違反になるのです。マリアはヨセフから離婚状を渡され、最悪の場合は、告訴され、石打ちの刑になってしまうのです。

 

 19節には、「夫ヨセフは正しい人であった」と記されています。ヨセフは律法的に正しい人でありました。ヨセフは、当時のユダヤの社会の仕組みの正しさでいう、「正しい人」であったのです。そのため、本当はすぐにでも、律法的正しさを全うし、マリアを離縁し、告訴し、石打ちの刑にすることもできたでしょう。

 しかし、この時、ヨセフはひそかに縁を切ろうとするのです。それは、おそらく、石打ちの刑によって罰せられることがないように・・・一度、縁を切って、白紙に戻すという方法をとろうとしたのでしょう。ヨセフの選んだ道は、律法的正しさを守りながらも、そのうえでマリアを守るための行為でした。ヨセフは、悩みに悩んで、その律法的正しさを守りながらも、マリアのことも守るために、縁を切ろうとしたのでしょう。ヨセフは結論として離縁という答えを出したのです。

 

3:  恐れるな 

 そのような、ヨセフに、神様は「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」(20)と語ります。危機的な状況に恐れ、おびえていたヨセフに対し、神様は「恐れることはない」と語りかけられるのです。「恐れることはない」。この神様の言葉の根底には、どれほど大きな危機があろうとも、どれほど多くの困難があろうとも、「わたしが共にいる」、「わたしが必ず同じ困難の道を歩こう」と教えられているうえでの言葉なのです。「インマヌエルなる主」がおられるということが、その思いが根底にあるのです。

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイによる福音書1:23)

 ヨセフは、本当に危機的な状況、先の見えない、困難に陥っていました。結婚するはずの婚約者が妊娠し、その理由もわからないというのです。ヨセフにとっては、どのようにしてよいか検討もつかない状態であったでしょう。まさに絶望的状態です。ヨセフはその中で、なんとか、知恵を出し、考え、悩み、「離縁」という結論を出したのです。これが人間的最善の行為だと結論をだしたのです。しかし、もし離縁をすれば、結局は、マリアもその子どもも、これからどのように生きていたのでしょうか。その道に希望があったでしょうか。石打ちの刑は逃れることができたとしても、その生きる道に本当の希望があったでしょうか。神様は、このヨセフの結論を最善とはされなかった、御心とされなかったのです。ヨセフがマリアとの関係を断ち切り、マリアを孤独にすることを最善だとはされなかったのです。

 神様は、恐れ、おののき、離縁という結論に至ったヨセフに対し、「恐れるな」と語ります。そして「わたしがあなたと共にいる」。「だからあなたもマリアと共に歩む者となりなさい」と導かれるのです。ヨセフは、マリアを傷つけないように、離縁しようと考えたのでした。それは妊娠してしまったマリアとの、関係を断ち切ることを意味していたのです。絶望から手を引き、マリアを孤独にしてしまうことなのです。

 神様は、そのような恐れと不安のなかにいるヨセフの心を見抜き、「恐れるな」と語られたのです。そして、「わたしがあなたと共にいる」。「だからこそあなたはマリアと子どもの出来事を自分の出来事として、受け入れなさい」と語っているのです。そして、そこにこそ「希望」があることを教えられているのです。そこにこそ、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」ということを、自分の出来事として理解し感じることができると、語っておられるのです。恐れの中、不安の中に、神様は必ず共にいてくださいます。それは、ただ自分の恐れだけ、自分の不安だけではなく、隣人の恐れ、隣人との関係の中での不安の中にこそ、イエス・キリストは来てくださるのです。

 

4:  わたしが共にいる

 皆さんは困っている人を助けることがいいことだと思うでしょうか。私は困っている人がいたら、できる限りのことをしたいと思います。そして、この社会を見渡す限り、確かに、争いばかりの世界ですが、それでもお互いを助け合おうという働き、弱い者を助けようという思いもあるのだと思うのです。現在は世界伝道週間ですが・・・私たちの教会自体、アメリカの宣教師の方によって建てられた教会です。それはそこにある宣教師を送り出した、人々の祈りがあって、そこから送り出された宣教師の方によってなされた出来事なのです。日本の人の魂の救いを願い、その祈りのうちに、私たちは今、この教会で礼拝をすることが許されているのです。私たちに人間には、他者を助けたいという気持ちが、少なからずあるのではないでしょうか。そこには大きな希望を見ることができるのです。

 しかし、その他人の迷惑な事柄が、自分を巻きこむ問題となるとき、関わることで自分自身が本当に困難の道を歩かなければならないとなるときには、話は変わってくるのです。困っている人を助けること、悩んでいる人の相談にのることはあっても、実際、自分がその問題に巻き込まれること、自分の生活がかき乱されることまで、受け入れていくことが難しい。そこまで他者に関わることには、大きな決心が必要なのだと思います。また、どれほど決心しても一人の人間が、たくさんの人の困難に関わるには限界があります。一人の人が、世界のすべての人の困難を請け負うことはできないでしょう。ここに私たち人間の限界性があり、私たち人間の作りだす希望の限界を見るのです。

 

 私たちすべての人間といつも向き合い、支え、困難に立ち向かうことができる方、それが神様です。私たちを愛し、私たちの人生に関わる方として、神様は、大きな決心をされました。神様は命をかけた決断を持って、私たちと関わる道を選ばれたのです。神様は、絶望の中に来てくださり、そこになくなることのない、希望を与えてくださるために、人間に関わる道を選ばれたのです。イエス・キリストが、私たちのところへと来てくださったこと。そして、私たちと共に歩んでくださっているということを示してくださったこと。それがクリスマスの出来事であります。神様は「インマヌエルなる主」「共にいる主」として、私たちのもとへと来てくださいました。

 私たち人間にとって、一番危機的状況、絶望、苦しみは「孤独」という出来事ではないでしょうか。たとえどれほど苦しく、不安や恐れのうちにあったとしても、そこに一緒に力を合わせる人がいる時、私たちは希望を持つことができるものです。自分は一人ではない。一緒に悩んでくれる人がいる。力を合わせる人がいる。理解しあえる人がいる。それはどれほどの困難のなかにあっても、その困難を乗り越える力となります。そして私たちが一人となってしまったとき。それはどれほどの「恐れ」となるのでしょうか。どれほど私たちは弱くなってしまうのでしょうか。そのような時に、私たちは生きる道を見失ってしまうのではないでしょうか。神様は、私たち一人一人の人生に関わり、手を差し伸べられています。神様は私たちと共に歩もうと決意し、インマヌエルなる主、イエス・キリストをこの世界に送ってくださったのです。

 私たちは、主イエスがこの世に来てくださったこと、神様が私たちと共におられることを覚えましょう。私たちはどのような時にあっても一人ではないのです。これが絶望を打ち破る本当の希望です。今、イエス様の誕生であるクリスマスを覚える、このアドベントの時、私たちは、今一度イエス・キリストが共にいてくださるということを覚えましょう。恐れや不安の中にある時も、私たちは、自分ひとりではないのです。イエス様は、この世界に来てくださったのです。神様は、聖霊を通して、この世界に、そして私たち一人ひとりに目を向け、手を差し伸べてくださっているのです。私たちはこの希望を携えて、日々の生活を歩いていきましょう。