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2016.10.2 「神の導きを聞き取る」 (全文) 使徒言行録16:6-10

1:  パウロとバルナバの仲違い

 今日の箇所は、パウロの第二次宣教旅行にあたる場面です。パウロの第二次宣教旅行は、今日の16章から始まっていくわけですが、この宣教旅行が始まる時に、大きな問題が起こっていたのです。16章の少し前、15章の36節からの場面において、このようなことが記されています。

 使徒言行録15:36-41

 「数日の後、パウロはバルナバに言った。『さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。』バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。

 しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。」

 パウロとバルナバとは、これまで宣教活動を共に行ってきた者たちでした。しかもこの使徒言行録の15章に記されている「エルサレムでの使徒会議」において、パウロとバルナバは福音を宣べ伝える者として公に認められた者なのです。二人は、ただ仲良しの友達ではなく、共に福音の宣教を行ってきた、主にある兄弟であったのです。しかし、この15章36節において、二人が仲たがいすることが記されているのです。ここでは、パウロとバルナバが、だれを宣教旅行に連れて行くかということで意見を衝突させたと記されています。また、パウロが記した「ガラテヤ書」には、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者と、食事を一緒にすることに対しての意見の対立があったとも記されているのです。どちらにしても、パウロとバルナバは意見の衝突から、共に宣教の道を歩いていくことを止めていくのです。

 

2:  共に生きる難しさ

 わたしたちは、ここから、どれほど仲が良くても、どれほどこれまで共に困難を乗り越えてきた、主の兄弟だとしても、一つの出来事からお互いを受け入れることができなくなる時があることを学ぶのです。私たち人間同士の関係において、意見が違うことはよくあること、というかどこにでもあることでしょう。そしてある意味なくてはならないとも言えることです。私たちは、それぞれに自分のアイデンティティを持っているからこそ意見の違いがあり、意見が違うこと自体は、ある意味当然のことだと思うのです。

 パウロとバルナバは大きな問題で意見を衝突させていたのです。ここでは一度離れたマルコを宣教に連れて行くかどうかということ、つまり一度は主の宣教の道から離れていった者と、もう一度受け入れるかどうかということです。別の箇所では、異邦人に対しての考え方でした。どちらにしても大きな問題です。ここにパウロとバルナバは別々の道を歩き出したのです。意見の違い。特に、自分が神様にどのように従っているのか、自分の生き方などについては、その意見の違いを、同じものとすることは難しいこともあるのです。そして本来、完全に意見を一致することは、私たち人間にはできないことなのでしょう。むしろ完全に意見が統一されることは、とても危険なことです。それは、違うものを受け入れない、ゆるさない。そんなものはなくしてしまおうという姿勢となる。それはとても傲慢な姿勢であり、自分の考えを絶対化した、危険なものとなっていくのです。人の意見を否定すること、それは最後は、その人の存在までも否定することにつながります。私たちは、自分が意見を持つときに、それが完全ではないと言うこと、別の考え方があることを受け入れる心を持つ必要があることを覚えておきたいと思うのです。

 パウロとバルナバは別々の道を歩き出しました。しかし、お互いを傷つけ、完全に否定したとは記されていません。意見の違うもの同士、ある程度の距離をとって歩き出したということは、私たちが学ぶべき生き方かもしれません。意見が違うものとして、その意見をぶつけ合いながらも、お互いを尊敬する。一緒にいることが難しくなったとしても、どこかで、お互いのことを理解する。そのような形の「共に生きる」という姿があってもよいのではないかと思うのです。

 

3:  心の痛み

 しかしまた、これまで共に困難に立ち向かい、主の兄弟として歩んできた者としてあった存在が、いなくなること、その関係が閉ざされることは、心の痛む出来事です。今日の箇所16章において、パウロは心に大きな痛みを負っていたのではないでしょうか。新しい宣教旅行にでかけるに、パウロは心に大きな痛みを抱いていたのです。

 そして、このパウロに、その心の痛み、心の傷に追い討ちをかけるような出来事が、今日の箇所に記されているのであります。

 使徒言行録16:6-8

 「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。」

 

 パウロは、バルナバと仲違いをした後、心に傷を負いながらも、宣教を続けていこうとしたのです。しかし、その道を、「聖霊がから禁じられ」「イエスの霊に許されなかった」のです。パウロは宣教の道を閉ざされていくのです。自分が神様のために働こうと決心した、その道が閉ざされることは、苦しいものです。神学校では、よく3年目くらいには「神につまずく」と言われましたが、学校生活も3年目くらいになると寮での生活も、勉強も、そして人間関係も落ち着いてくるのです。そのような中で、ある意味きちんと神様と向き合う時間を持つことができるようになってくるので、神様の御心がどこにあるのか、悩まされ、つまずくだろうというのです。

 この時のパウロはバルナバとの一件で心に傷を負っていたのです。そこにおいて神様の御心がわからなくなるような出来事が起これば、どうしていいのか、これからの道を見失ったのではないでしょうか。

 このパウロの道が閉ざされていくことがなぜなのかは記されていなのですが、ここにパウロの宣教の内実が問われていたのではないかと考えるのです。パウロは、神様の福音を伝える者として、歩き出したのです。しかし、この時、パウロの伝道の内実は、バルナバに負けないため、自分の正しさを示すためであったのかもしれません。パウロは、自分自身が心に傷を負う中で、いつの間にか、自分自身でこの問題を解決しようと、必死になって、自分が正しさを示そうとしていたのではないでしょうか。

 これまで神さまに忠実に従ってきたパウロでしたが、いつの間にか、そうではなく、自分のため、自分の正しさを示すために、そして自分の力によって働くものになっていたのではないかと考えるのです。パウロは、すでに、イエス様の宣教者ではなく、自分の正しさを示す者に成り代わってしまっていた。パウロの心のうちには、そのような思いがあったのではないでしょうか。

 

4:  主の導き

 イエス様は、そのパウロの道を妨げられた。そして、パウロの語ることを禁じられたのであります。パウロはこのようなできごとに、神様への不満や文句を抱いたかもしれません。それでもこのような中で、この「聖霊の導き」から神様の御心をもう一度、聞き、見出していくのです。パウロは、主の示された幻を見るのであります。

 使徒言行録16:9-10

 「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」

 イエス様は、このパウロに対して、道を閉ざし、道を妨げたのではなく、新しく歩く道を備えられ、導かれたのです。パウロは幻の中で、主の御心を聞くのです。そしてこの新しく示された道、新しく備えられた道に従って、パウロの宣教旅行が新しく始まっていくのです。自分たちの力や、思い、考えではなく、主イエスの導きによって、その道の備えに従って宣教旅行を行っていくのです。しかも、この示された道は、ここでは、一人のマケドニア人がパウロへ願ったものとなっています。パウロは、そのマケドニア人の思いを聞き漏らすことなく、受け取り、主の御心として聞いていったのでありました。

 神様の御心を聞くということ。私たちは神様の御心を聞こうと思っていても、神様の御心がどこにあるのか、いつも考えさせられるのです。どんな小さな分岐点でも、私たちが人生の道を選択していくとき、いつも神様の御心がどこにあるのか、悩まされるのではないでしょうか。聖書を読んで、そこに「こちらにしなさい」と書いてあれば簡単でありますが、聖書はそのようなものではありません。神様は私たちにそれぞれの道を選ぶことができる自由を与えてくださいました。しかし、だからこそ、私たちは、どちらに行くことが、主の御心なのか。悩まされるのではないでしょうか。

 パウロはマケドニア人の言葉を聞き取ったのです。このときパウロは「マケドニア人の小さな願い」を聞き取ったのです。心を痛め、自分の正しさや、自分の強さによって伝道しようと考えていた者が、隣の人の小さな苦しみに耳を傾け、その弱さに目を向けたのです。パウロは、イエス・キリストの新しい備えによって、その道に従う中で変えられたのでありました。自分の弱さをイエス・キリストに受け入れていただいている、という確信の中で、新たに、主に従って歩む道を歩みだしたのです。

 主イエスは、私たちの歩む道をも、整え、備え、導いてくださっているのです。私たちが歩む道、それがすべて、本当に正しかったのか、それはだれもわからないでしょう。それでも、そこにイエス・キリストが共にいてくださるということは必ずある事実なのです。私たちは、その主イエスにすべてを委ねて、神様の御心をいつも聞きながら、歩んでいきたいと思います。主は、私たちが、道を外れる中で、時に、その道を閉ざし、私たちが、主に目を向けることができるようにと、導いてくださいます。私たちは、私たちの苦しみも、痛みも知ってくださり、共に担ってくださる、主イエス・キリストにすべてを信頼して、委ねて、主の御心を求め続けて、歩んでいきたいと思います。