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2016.9.11 「白髪は栄の冠である」 (全文) 箴言16:31、20:29

 カレンダーでの「敬老の日」は19日ですが、東福岡教会では今日が敬老礼拝です。みなさん、ご承知のように、私たちの社会は超高齢社会を迎えています。教会もまた例外ではありません。一般に、高齢化率(65歳以上の人口が総人口に占める割合)が7%を超えた社会を「高齢化社会」、14%を超えた社会を「高齢社会」、そして、17%を超えると超高齢社会と言うそうです。日本国の総人口は2015年10月1日現在、1億2711万人となっていますが、この内、65歳以上の方は、3392万人で、総人口に占める割合は26.7%です。世界ダントツ、トップの超高齢社会というわけです。私は後期高齢者にはまだ少し時間がありますが、69才になりますので、高齢者の仲間入りをしています。

 今年7月に発表された厚生労働省の「高齢社会白書」によると、お隣の韓国の高齢者率の速度が日本を上回っているそうです。平均寿命は、男性80.79年、女性は87.05年です。世界第一位ですが、第二位はスイス、第三位はシンガポールとのことです。それはともかく、70歳を超えて生き延びている人は平均寿命を超えて、さらに生きることが許されているわけです。70歳の男性の平均余命は14.17年、女性は18.43年です。それなりの人生設計が必要となります。「老々介護」などと言われていますが、高齢になった子どもたちがさらに高齢の親の面倒をみなくてはならないわけです。まさに、老いながらどう生きるかが問われています。そして、人は少しずつ老いていくわけですから、若者たちも決して他人事ではありません。そこで、今朝は、老いるということをどの様に受け止めていくか、を聖書に聴きたいと思います。

 

1.「白髪は輝く冠である」

 選びましたテキストは、箴言16:31、そして、20:29です。そこには、「白髪は輝く冠である。神に従う道に見出される」、「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳」と宣言されています。口語訳では、「しらがは栄えの冠である。正しく生きることによってそれが得られる」と翻訳されています。「白髪は輝く冠である」。冠は頭に載せるものであるので、白髪、外国ではgrey hairと言って「白」というより「灰色」なのですが、ロマンス・グレーなどと言って、シルバーの輝きがあるのかも知れません。聖書は宣言します。「白髪は輝く冠である」。しかし、私たちが生きている世の中はこのように言うのでしょうか。表向きはそういうのかもしれません。敬老の日だけ高齢者を持ち上げるだけで、プレゼント商戦などに用いられたりして嫌な思いがする方もあるでしょう。この世は、そして、私たちも心のどこかでこの世に倣って、白髪は「衰え」のしるしである、と考えているのではないでしょうか。白髪は、「生産力・労働力の欠如」によって社会的価値がなくなったしるしである、記憶力の後退と「諦め」のしるしであると。確かに体力の衰えと共に、給与に支えられた生活から年金生活となり、社会的地位も低くなり、行動範囲も狭くなり、友人も少なくなるのです。資本主義経済にとって、労働こそ価値があり、賃金が人の価値を決めるのです。女性にとってもアートネイチャー、リーヴ21ではないですが、ウイッグが欲しくなるし、肌の張りを取り戻そうとヒアルロンサンやグロコサミンだと躍起になるのです。若いということが女性の価値であるとこの世が訴えるからです。そうであれば、70才を過ぎた人は自分の老いを受け入れることができても、まだ若い方は、老いることへの恐怖感や不安感が一番大きいのかも知れません。

 しかし、み言葉はこれとは違うことを語ります。この世の支配的な価値観の中に外から切り込んでくるのです。「白髪は輝く冠である」。人間が労働に尊厳を与えるのであって、労働によって人間に価値と意味が与えられるのではないのです。ディマズディエという人は『余暇の文明を目指して』という著書の中で、「人生に基本的に望まれるものは活動であって、労働ではない」といい、「労働」と「活動」を区別します。専門職業的な労働から、一般教養的な知識活動へと、そして、何かを生産することではなく、他者と共に喜びながら生きる生き方へと転換していく必要があると言うのです。専門的職業は、一つの深さではありますが、それは広がりを欠いた狭さでもあるのでしょう。専門職業的仕事は、余りにも特殊で、だからこそ金になるのですが、広がりがありません。それは形式的で、規則と命令統制から成り立っており、個人の気持ちや個人の価値には余り目を向けません。そんなことをしていたら競争に負けてしまうかも知れないからです。また、ユダヤ人女性政治哲学者ハンナ・アーラントは、「労働」(labour)と「仕事](work)を区別し、さらに「活動」(activity)を区別しています。「労働」「仕事」ができなくても「祈る」という「活動」は最後まで出来るのです。

 しかし、み言葉は、神が人間に尊厳を与えるというのです。聖書は、専門化し、特殊化し、形式化した働きを否定はしません。それはそれで大切なことです。若い人の力も祝福されています。しかし、力だけがこの世を成り立たせているわけではないのです。たとえ、活動が出来なくなったとしても、祈りもできないとしても、「働き」ではなく「存在」といいますか、生かされているということが、つまり、神の愛と守りの証人として「そこにあること」ことに大きな意味があり、喜びを与えてくれるのです。生産力、労働力、効率が人に意味と価値を与えるというこの世の中で、老いへの祝福を語るのです!み言葉は宣言します。「白髪は輝く冠である」と。

 

2.比較を超えて

 箴言20:29には、「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳」であるとあります。高齢者は「力」で若者と張り合わないのです。「白髪」こそを、美しいもの、尊厳のしるしとするのです。私はかつてプールで泳いでいて若者や女性などに抜かれるとつい「ムッ」として競争してしまい、ペースを狂わせてしまったことがあります。自動車を運転していてベンツや私の自動車よりもグレードの高いニッサン「シーマ」などに追い抜かれると納得するのですが、軽自動車に抜かれると「ムッ」とするのは何故なのでしょうか。女性に追いこされて「ムッ」とするのは女性差別意識そのものですね。人はどうも競争心からなかなか自由になれません。

 しかし、箴言16:32には、口語訳では「怒りを遅くする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」とあります。新共同訳では、「忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる」と翻訳しています。先ほど「労働」あるいは「職業的仕事」について触れました。職業的生活は、特殊なもの、非個人的で、組織・規則、そしてお金と結びついています。しかし、人は、そのような生き方から、より自由で、自発的で、金に無縁で、個人的ではあっても他者のために生きる生き方へと転換していかねばなりません。力の強さとは比較しません。むしろ「怒りを遅くすること」「忍耐して神の恵みに留まること」を大切にします。「城を幾つ攻略したかというよりも自分の心を治めることを大切にします。何かを失うのは、何か別の他のものを得ることにならなければ詰まりません。若いということで、そのまま老いていることより良いわけではなく、老いを生きることはそのままで若いというより良いわけではありません。それぞれが、若いことも老いていることも、それ自身の栄光・輝きを持ち、それぞれがそのハンディキャップと誘惑を持っているのです。ですから、つまらない比較、競い合いから自由に生きるのです。高齢者たちは、力とは張り合わないのです。力が高齢者の冠ではなく、白髪が彼ら彼女の冠なのです。もし競い合うのであれば、「忍耐」と「自制」で、勝負するのです。

 

3.「信仰」=「正しく生きること」

 しかし、人間年を取ると丸くなり、円満になると考える訳にはいきません。老いはそのままで人格の完成を保証しないのです。かえって、堪え性がなくなり、教育や社会的地位などで押さえ込んでいた、心の奥に潜んでいた地金が出てきて、頑固になることはないでしょうか?豊富な経験は、その経験の線上に乗らないものを受け入れにくくしないでしょうか?み言葉は語ります。「正しく生きること」、「神に従う道」でそれが得られると。老いるということは確かに一つの制限を生きることです。しかし、未完成、不完全を受け入れることは、人生の本当の意味は、超越的な何か、世界といのちの創造者、また、救い主イエス・キリストを知ることにつながるのです。老いるということ、それは乏しい生き方になるのではなく、違った生き方になることです。神にますます信頼し、他者の助けを神の名によって受け入れる生き方になることです。私たちキリスト者は、復活の希望を持つものです。若く、良かった過去を振り返る後ろ向きの姿勢ではなく、前方を見つめ、死を越えた生命、神の勝利、わたしたちの救いの完成を目指して生きることができるのです。もし、振り返ることがあるとすれば、それは神が与えて下さったことへの「感謝」のため、自分を支援してくれた隣人を思い続けるためなのです。高齢になると、いろいろなものを失っていく経験をするのですが、信仰によって益々、神に信頼して生きること、他者の必要性が分かるようになるのです。若さ、力、収入などは減るかもしれないが、信仰は益し加わる可能性が大きいのです。

 

4.親の介護と兄弟姉妹の支え合い

 最後に老いた親を介護することについて触れたいと思います。ここでも「白髪は輝く冠である」のです。「あなたの父と母とを敬え」(出エジプト20:12)は十戒の中の戒めですが、これは儒教的な意味でタテの秩序、臣は君に従い、子は親に従へという若き人たちへの戒めではないと言われています。むしろ、年老いて働きが低下し、足でまといになる親への生き方を語っているのです。この世の価値、今の自分の生き方では我慢ならないような姿を見るときに、私たちは、戸惑い、あるいは怒りを覚えてしまうことさえあるでしょう。しかし、私たちは、彼ら・彼女らにとっても正に白髪が冠であることを認めてあげなくてはならないのです。そしていつも相手の身になって考え、行動してあげることが重要でしょう。

 しかし、老いた親の介護は、これは言葉にならないほど大変なことでしょう。私たちは自分だけでは負うことはできません。ですから、祈って支えあうこと、何かできれば教会の交わりの中でささやかな支援をし合うこと、愚痴を聞いてあげること、自分の限界を超えて、難しい時には、他者に委ねることもまた赦されていることを認め合いたいものです。彼らの冠は「力」ではないのであり、そして、私たちの冠も少しずつ「力」ではなくなりつつあるのですから。

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コメント: 1
  • #1

    十河 聖子 (日曜日, 17 7月 2022 06:19)

    香川県のそごうです。未信者の集まりで、楽しい歌の会をしています。唱歌やポップスなど。歌った後、お茶とお菓子の交わりで、芸能界の話しなどなど盛り上がります。
    私は伝道目的で世話役してます。
    話題がだんだん年老いて、体型が変わるよねと嘆くのではなく、笑い飛ばして、楽しむと言う感じです。
    祈ってなんとか神様に目を向けてほしいと検索したら、このメッセージがヒットして、とても嬉しいです。ありがとうございました。