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2016.8.24 「ヨセフのこどもを祝福する」 創世記48:1-22

1 マナセとエフライム

 今日の箇所は、ヤコブが死の前に立った者とされた時の箇所です。このヤコブからイスラエルの12の部族が興されていきます。この後49章でヤコブは子どもたちを集め、それぞれに祝福を与えます。それはルベンからはじまり、シメオン、レビ、ユダ、ゼブルン、イサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、ヨセフ、そしてベニヤミンと続きます。これらヤコブの子12人が祝福されていくのです。しかし、この後カナンの地に入り12の部族となり、土地の分配がなされるときの12部族に「ヨセフ族」「レビ族」というものはなく、「マナセ族」「エフライム族」となっているのです。

 今日の箇所は、そのマナセ族とエフライム族がどのようにして独立していったのか、その一つの根拠としてのヤコブからの祝福となります。

 

2 祝福

 ヤコブは死を前にして二人の孫を祝福します。私たちが死を前にして、子どもたちに伝えることは、それぞれの幸せを願い、安定した生活などを作るように、子どもに言葉を残すかもしれません。

 そしてそのために・・・社会での地位、財産、その他、この世的力に頼るようにと言うのではないでしょうか。ある意味、大体の親が、生きているときから同じように、「勉強しなさい」「よい大学に行きなさい」「きちんと就職しなさい」と言っているように、死に向かうその時にも、就職先など、この世的なものに頼るようにと言うのではないでしょうか。

 それぞれにきちんとした生活を送り、幸せであることを願うのは当然で、悪いことではないのです。親は、子どもに、幸せであるようにと願っているでしょう。問題は、そのために、何に頼るかということです。・・・そのために、ただ神様だけに従うようにと言うことができる者となりたいものです。

 ヤコブが語るのは、これまで自分たちを導いた神様による祝福をいただくための言葉です。幸せにくらすためには、神様に従いなさいと教えます。それは、この世の価値観からは真逆なものでした。確かに言葉としては「子孫を繁栄」「数を増やす」「土地を永遠の所有地とする」という現実的なものばかりです。ここから、聖書が、現実に、この世的な祝福をも認めているということを知ることができます。これらは人間がきちんと生きていくために大切なものであるということも教えているのです。

 しかし、これらの主体は神様です。子どもや孫たちに「あなたががんばりなさい」と言うものではなく、「ただ、神様の祝福を信じなさい」「神様の与える恵みを信じるのです」というものなのです。ヤコブの言葉は、これまで自分が多くの困難の中にあって、神様がアブラハムの時代から受け継がれた「約束」を守られてきたという経験から、そこに希望があるということを教える言葉です。この祝福は、「なによりも神様による約束を信じ続け、そこに希望を持ち続けなさい」というものです。これこそ信仰を継承するための言葉です。

 

 ヤコブは死を目の前にして、孫を祝福します。それは信仰の継承としての祝福です。このとき、ヤコブがもっていたのは、形として何も持っていないのです。ヤコブはただ寄留者としてエジプトに住んでいただけでした。残すべき財産など持っていないのです。そのために、何を子どもたちに残すことができるのかといえば、神様の約束のうちに生きるものとしてある、その信仰以外に子どもたちに残すものなど何ももっていなかったのです。

 この箇所を読む時、わたしたちは自分が持っているもの、そして残すことができるものということについて、考えさせられます。実際、私たちはどれだけのものを持っていて、自分のものとしているのはどれくらいなのでしょうか。そして子ども、孫に残すべき本当のものはなになのでしょうか。このとき、ヤコブは、この神様による祝福の約束を残すのです。そしてそれだけで十分だったのではないでしょうか。

 

3 祝福の交差

 ヤコブはマナセとエフライムに祝福を行います。ヨセフは目のかすむ父親に向けて、間違いのないように、長男マナセをヤコブの右手の前に、そして弟エフライムを左手の前に立たせるのです。当時、右と左では、右のほうが上位にあると考えられ、ここでは、わざわざヨセフがきちんと並ばせたのです。しかし、14節にあるように「イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。」(14)のです。イスラエル、ヤコブは、わざわざ手を交差させ、右手を弟エフライムに、そして左手をマナセの上に置くのです。この祝福のために行われた交差の出来事は何を意味するのでしょうか。

 

 実際にこのヤコブの行為を受けてヨセフは不満をいただいたのでした。「ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」(48:17-18)しかし、この言葉に対してヤコブは。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」(19)

 ヤコブが手を交差して祝福を与えることに、ヨセフはとても不満をもったのです。この出来事の背景には、イスラエルの歴史においてエフライム族のほうが、力を持つものとなったという事実を反映した出来事と考えることができます。もう一つには、ヤコブ自身が、自分自身が弟であり、長男を押しのけて父から祝福を受けたのですから、だから、弟という存在のほうを大切にしたとも考えられます。ここにはそれぞれの考え方、意味を見ることができますが・・・その中でも、信仰の継承という意味にあって、ここではヤコブ自身が弟でありながらも、祝福を受け、その約束のうちに奇跡的に生きることが赦された。そして今、ここでヨセフに出会い、孫にまで出会っているのです。このことから学んだ、信仰の真理として「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」ということを教えているのではないでしょうか。本当は、ヨセフ自身も兄10人を飛び越えて祝福を受けたのです。そのような意味では、兄10人を飛び越えて、先に立つものとされたのはヨセフも同様なのです。しかし、そのヨセフが、子の事には不満を持つのです。

 このヨセフの姿は、やはりどれほど自分に与えられている神様の祝福も、目の前で、自分の考えから外れたものとなるときに、受け入れられない人間の弱さを表しているのではないでしょうか。神様による祝福の約束は、人間的考えのうちに与えられるものではなく、むしろその真逆の考え方にあるのです。土地や財産、権威といったものを手に入れることではなく、なによりも「神の国と神の義」を求めなさいというイエス様の言葉によって表される信仰です。イエス様は「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(19:30)と言われました。

 

 聖書の教える祝福とは、ただ神様に仕えることによって、命を与えられることです。それは、命に豊かさをいただくことなのです。何ももっていないヤコブの交差した祝福。それは、ただ神様のみ、その祝福の約束だけに目を向けさせる行為です。