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2016.8.7 「小さなやさしさが起こす『奇跡』」 (全文) ローマの信徒への手紙15:7-13

 皆さん、おはようございます。昨日8月6日は広島に原爆が投下された日であり、そして明後日8月9日は長崎に原爆が投下された日となります。昨年は戦後70年という節目の時であり、日本が戦争という間違った道に進んだこと、何よりも人が人を傷つけ、殺し合うという、赦されない道に進んだことを、もう一度、考えさせられるときとなったはずでした。しかし今年で戦後71年となる今、日本はいつでも戦争ができる体制となり、世界では、さまざまな場所でテロによる事件が起きているのです。すでに戦争は起きている。そしてその悲劇を繰り返しているのです。

 わたしたちは今、何を考えるのでしょうか。現代では、政治家も、学校でも、またインターネットの世界でも、愛国心が謳われ、自分たちの身を守るために・・・世界の秩序を守るために・・・などという言い訳をつくりながら、戦争をすること、他者の人格を認めず、お互いを傷つけることの正当化をしているのです。そのような中、私たちは、戦争は間違っている。たとえそこにどのような理由があったとしても、許されることはないと、はっきりと言いたいと思います。武器をとり、他者を傷つけることに、正しい時があるのでしょうか。そのような時はないのです。わたしたちはこのことをもう一度はっきりと覚えなければなりません。

 

 今日は、ローマの信徒への手紙から、平和について、それはこの世界を造り、今もそこに命を造り続けておられる神様が、平和を求めていることを、そして神様が求める命の大切さを、共に学んでいきたいと思います。

 

1:  キリストがあなたがたを受け入れた

 今日の箇所7節からこのように言われます。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。」(7-9)

 ここでは、割礼のある者、つまりユダヤ人と異邦人について語ります。当時の教会においての問題は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の違いであり、そこに発生する人間関係が焦点となっていました。当時、バプテスマを受けるだけでは、一人前のキリスト者とされなかったのです。割礼を受け、バプテスマを受けることで、本当のキリスト者であるとされたのでした。

 ここではこの割礼の「ある」「なし」、どちらが正しいのではなく、割礼というものが必要ではなくなったと語っているのです。そのような事柄ではなく、ただただ「キリストの十字架によって」、つまり神様の一方的な愛によって人間は救われると教えているのです。神様の愛に割礼を受けたもの、受けていないものの違い、ユダヤ人と異邦人という違いはなく、神様はすべての者に愛を注いでくださるのです。

 しかし、当時の教会においては、ユダヤ人であるということ、割礼を受けている者と、割礼を受けていない異邦人との中においていざこざが起こり、それを理由に相手を受け入れないで、教会から追い出したり、追い出されたり、傷つけあう出来事が起こっていたのです。

 

2:  優しい言葉の中にいるキリスト

 このような考え、自分たちとどこか違うところがある者、国や人種、性別や能力、そして宗教という考え方や思想の違いがあるお互いを、受け入れること、その違いを分かち合うことができないということは、現代の私たちの世界にも広がっている問題です。

 今、世界中において「テロ」による悲しい出来事が多く起きています。「戦争」が起こり、「テロ」が起こっている。私たちの近くで「テロ」が起こるのも、もはや時間の問題であり、世界のどこにいても安全といえる場所はないのではないでしょうか。そして、その中心には、お互いの違いを受け入れ合うことができないという心の弱さ、そして「じぶんが正しい」という傲慢さがあるのです。

 また、私たちの日常生活、身近なところでも、人が人を傷つける出来事は増えてきていると感じるのです。特に弱者に対する事件が増えてきている。小さい子どもたちや、老人ホームでの事件・・・先日は障害者に対してその存在を否定した考えによる、悲しい事件が起こりました。障害者には生きる価値すらない、死んでしまったほうが、その人たちにとっても良いというのです。

 もはや「テロ」や「戦争」は他人事ではないでしょう。人間が人間を受け入れず、傷つける。そのような事件はどれほど小さな社会にあっても起こっているのです。

 

 それらの事件の背景の一つに、事件を起こしている者はすでに誰かにその存在価値を否定された者であるということです。他者を受け入れられないという思いは、すでにその者が、もともと弱者として存在を否定され、苦しみ、もがき、その中で、どうかしてでも生きていく。その先に、自分が弱者から強者になるために生きていく道を選んでいる。弱い者とされ、存在価値を否定された者が、強い者となるために、誰かを傷つける。誰かを支配し、利用し、傷つけることによって、自分の存在価値を見出していく。

 私たちの生きている社会が、そのような構造になっているということです。そのように弱者を傷つけ、その存在を理解せず、またそのような者が同様に、他者を受け入れないということが繰り返されている社会となっているのです。

 

 日本の自殺者は年間約3万人といわれています。それは一回の戦争やテロの被害者を大きく上回る数といわれています。一人の人間の命を数だけで、「戦争」や「テロ」と比べることはできませんが、それほどに、私たちの身近なところで、存在を否定されている者、自らもその存在を否定していくもの、そのような人間のからだと心を傷つける問題が広がっているということなのです。愛の反対は、無関心と言います。わたしたちは隣の人の心を理解しようとしているでしょうか。わたしたちには、自分以外のだれかの痛みを共に担う勇気があるでしょうか。痛みの中で、一番悲しいのは、その痛みを共有できる人がいないこと、みんなが自分に対して無関心だということです。分かってくれる人、理解してくれる人がいないことはとても辛いのではないでしょうか。無関心の社会、これこそ、人間の罪を凝縮した出来事ではないでしょうか。人間の自我と欲望に指針を置いて社会を形成する時に、こんな社会ができるでしょう。このような社会に希望はあるのでしょうか。

 まさに絶望といった社会構造の中に生きる私たちですが・・・しかしまた、人間のすべてが、そのような罪だけの者というわけではないでしょう。これまでの話を聞くと、心が重くて耳を塞ぎたくなるかもしれません。確かに、私たちが作りだす社会は「自分のため」「自己中心的」な心によって造られている部分が大部分を占めているのかもしれません。しかしそれでもそのような「絶望の世界」の中に、ふと、優しい声がかけられる時があるのです。人間社会の隙間に、思いもよらない言葉かもしれないけれど、ときどき、優しい言葉がかけられる時もあるのではないでしょうか。

 

 皆さんも、そのような一言、となりの人からの思いもよらなかった優しさに触れたことがあるのではないでしょうか。そして私たちは、その社会の隙間のようなところから差し込む光に、イエス・キリストを感じることができるのでしょう。人の優しさは、「最近どうですか」とか、もっと簡単に「おはよう」とか「こんにちは」など、たった一言の挨拶の言葉かもしれません。また、言葉もなくただ、笑顔でいるだけかもしれませんし、なにもしないけれど、だれかが一緒にいることかもしれません。それでもお互いのことを思いやる心、隣の人を慰め、慰められるという思いが、私たちの中にはあるのではないでしょうか。そしてそこに「イエス・キリスト」はおられ、「神様の愛」があるのです。

 みなさんも、ほんとうに困難の中、どうすることもできない中で、かけられた優しい一言、忘れられない一言があるのではないでしょか。あの人の一言、そして言葉ではないけれど、一緒にいてくれたこと、自分を思いやってくれる人がいるということ、みなさんにもそのような出来事があるのではないでしょうか。そしてまた、みなさんがかけてきた大切な一言、そしてみなさんの存在によって助けられた命というものが、あるのだとわたしは思います。イエス・キリストは、私たちの心の中に、そしてそのようなお互いの痛みを感じ取り、かけあう愛の言葉のなかにいてくださるのであります。

 

 聖書は「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」(7)と言います。聖書は、私たちの心の中に、隣の人を思う心が生まれるとしたら、それはイエス・キリストによる神様の愛によるものであると教えます。「キリストがわたしたちを受け入れてくださった」。私たちはこの神様の愛によって、心に愛をいただくのです。

 

3: イエス様の言葉

 実際に、イエス様の来られたところは、人間的に尊敬される者でもなく、だれにも優しい言葉をかけらる者でもなく、孤独に生きている者ばかりのところに、イエス様は来られたのです。

 聖書でも、いじめられていた人々がいました。当時のイエス様の弟子たちは、まさにそんな、はみ出し者ばかりの集団です。イエス様の弟子たちは、ローマの徴税人、いわゆる税金取りです。そして無学の漁師、そして、いわゆる当時のテロリストと言われる熱心党員などでした。社会のはみ出し者、「いじめられた人々」。そんな人々は2000年も前でも、いつになってもいるのです。イエス様はそのような「いじめられた人々」「はみだし者」とされた人々に出会い、声をかけて、集められたのです。

 これが私たちの救い主、イエス・キリストであります。「はみ出し者」の弟子たちのところに、イエス・キリストは来てくださったのです。そして声をかけて、語りかけてくださいました。

 イエス様が復活された時、奇跡の時、そのようなはみ出し者とされる弟子たちは、自分たちもイエス様と同じように殺されるのではないか」と社会の権力におびえていました。

 そこに復活のイエス様は来てくださり「あなたがたに平和があるように。」(ヨハネ20:19)と話されたのです。イエス・キリストがかけられた言葉は、「シャローム」というヘブライ語です。この意味は「主の平和」、「おはよう」、という簡単な挨拶の言葉です。主イエス・キリストは復活されました。神様がイエス・キリストを通して「奇跡」を起こしてくださったのです。そして新しい命を与えてくださったのです。それは、何よりも、私たちの心の痛みに寄り添うために、私たちの苦しみが回復されるために、絶望に希望を与えるために、そして、社会が平和になるために、「いじめ」がなくなり「神の国」がこの世にくるため、イエス・キリストは復活されたのです。復活の主イエス・キリストは、わたしたちが一人ぼっちで、生きることも辛くて、悲しみしか見ることが出来ない時に、本当に絶望だと思った時に、そこに希望の言葉「おはよう」と「あなたがたに平和があるように」と声をかけてくださるのです。それは、どれほど優しく、そして力強い言葉でしょうか。その言葉は短く、ただの一言、そして挨拶とも言える簡単な言葉です。しかしその小さな優しい言葉が、私たちの悲しみのうちに喜んで生きるという心を与えてくださる。

 新しく喜んで生きるという奇跡が起こされるのです。

 

4:  共に生きる

 主イエス・キリストは、復活の中にあって、私たちにやさしい言葉、そして新しく生きる奇跡の言葉を注いでくださったのです。私たちはキリストの十字架と復活の出来事によって、「共に生きる」ための勇気と優しさを示されたのです。私たちは、ただキリストを通して、そしてその祈りを通して、そして、その御言葉を通してのみ、正しい人間関係を構築することができるのでしょう。 

 キリストこそが私たちの平和です。わたしたちはイエス・キリストによって、共に生きるのです。私たちは、まず、神様の愛、イエス・キリストに出会いましょう。そしてその愛を受けて、自分だけの人生から、「共に生きる」人生を歩き出すものとされていきたいと思うのです。

 神様は私たちに復活という奇跡を起こし、この世で生きる、私たちに希望を与えてくださいました。わたしたちがだれかに愛を込めて、言葉をかけるとき、それがどれほど小さな言葉であっても、声にならないようなものでも、そのとき、私たちは奇跡の出来事とされる、復活のイエス・キリストの愛の恵みを溢れるほどに受けているのです。そしてまた、兄弟姉妹から、優しい言葉を受ける時、その兄弟姉妹も、イエス・キリストの愛の恵みを、溢れるほどに受けているのです。

 私たちがだれかのために祈るとき、それは、奇跡の出来事、復活のイエス・キリストの先立つ祈りが必ずあるのです。私たちは、主イエス・キリストの祈りを受けてこそ、祈り、そして共に祈られて生きる者と変えられていきましょう。主は、今も私たちに優しい言葉、聖書による御言葉を与えてくださっています。私たちはこの神の御言葉を受けて、私たちは、お互いに、そのお互いの違いを受け入れ、喜び、ともに祈りあう道を歩いていきたいと思います。